2プロローグ②
呆れた。
というより、またかと思う。
気配が限りなく薄いが、僅かに感じる視線。
肉感的ではない私の体とはいえ、闇の中から監視されるのは好ましくない。
「いつまで君は視姦する気ですか。烏滸がましい」
その声に反応したかのように闇から1人の男が現れる。
軍服を着崩して、へらへらとした笑顔を顔に張り付けている。
髪はぼさぼさに乱れており、決められた帽子はズボンの後ろにねじ込まれている。
軍紀を守らない姿に眉を顰めようかと考えるか、自身の改造している礼服を鑑みて止める。
男は無精髭を手でさすりながら、ヒョコヒョコと足を道化のように近づいてくる。
軽薄と不信を織り交ぜた姿と動作であり、それを隠そうともしない。
男が現れるまで闇の中には何もなく、扉を開けた音や痕跡すらなかった。
だが、彼なら可能だろう。ジャスパー・ドグラナンテなんてなら。
痩せた蜘蛛を思わせる不吉な男。闇に溶け込み、どこにでも現れ、そして消える。
私の事を嫌っているのか、好いているのか分からない奇妙な男だ。
「アーマントゥルードさぁ〜ん。いひひ、酷いなぁ。久しぶりの出会いに挨拶もなしかぁい?」
「必要を感じませんでしたので」
「およよよ。悲しくて悲しくて泣いてしまいそうだぜぇ。ああ、愛しの女神アーマントゥルードちゃま!どうか、哀れな俺に慈愛の笑顔を!」
じゃスーアは病的に長い手足をジタバタと伸ばして、奇妙で大げさな懇願の踊りを行ない始める。
敬意も親しさもない小馬鹿にしきった態度。まともな良識ある者ならば、眉を顰めるか席を立つだろう。
ジャスパーの態度には失礼と侮辱が凝り固まっていた。
もう、慣れている。彼が本心を隠す為に見事な擬態を主にするのを。
ジャスパーの言葉と態度は、まともに相手する事はない。
「やめなさい」
「はいはいっと。アーマントゥルードちゃまはお怒りですねーどうしたんでしょうねー」
「ジャスパー。黙りなさい」
闇から取り出した人形に話しかける男を、鞭を打つように黙らせる。
いらっと来ました。子供扱いは嫌いだ。
確かに背は低い。そして、年も若い。
だが、仕事は大人分を果たしているのだ。
ならば、大人扱いにするべきだろう。鉄壁の無表情を維持し続ける。
「ういっす。あーあー、連絡前に気をほぐそうと思いましてね」
「では、連絡だけをどうぞ」
「アーマントゥルード子爵。『仕事』です。この帝都で確認されました。即座に『義務』を果たしてください」
ジャスパーは直立不動となり、命令を伝える。
もし、この場に第三者がいれば、ジャスパーという男が多重人格か。それとも、気でも違ったかと思うだろう。
愚鈍に濁った目は鋭く見据えた模範的軍人の目になり、鋭い意思は空気を振るわす。
が……、数瞬後には水に溶けるように戻った。
残るのはヒョコヒョコと行き場もなく歩き回るジャスパーだけだ。
「いひひ、それでは、『お仕事』に関しては、これにて。」
「お疲れさまです。帰って良いですよ」
仕事が終わったなら、帰ってもらおう。
というより、端的に言うと、彼が苦手だった。顔には出さないが。
彼の揶揄うのが苦手なのだ。真面目に返す事しかできない私にとって、冗談や遊戯は大敵。
いや、生涯最大の宿敵と言って良い。
誰かが無条件に楽しいと思う事を、一々、分析して組み立てて納得しようとするのだ。
だから、私は楽しむのはワンテンポ遅れる。遅れて笑うと、周囲とのズレから浮いてしまう。
それ故に、常に無表情を保っているのだ。
その点、本は良い。笑うのは1人なのだから、遅れて笑っても誰にも気をかけないでいい。
「あー。あー、アーマントゥルードさぁん?例の物はぁ?」
「例の物」。前に欲しがっていた粛正先の貴族の情報だったはずだ。
本をパタンと音を立てて閉じ、ジャスパーを見つめる。
胸ポケットに入れた紙片に書き留めてある。
「お忘れな訳ないでしょう。アーマントゥルードさぁま」
ジャスパーはヘラヘラと笑いながら、大理石でできた椅子を片手で持ち上げて、私の前に振り下ろす。
地響きと共に大重量の椅子が石造りの床を砕きめりこむ。部屋にある本が音を立てて浮かび上がり、着地に失敗してバラバラと床を散らかす。
椅子を振り下ろす瞬間に、一瞬だけ立ち上がり、背伸びをしてジャスパーの胸ポケットに紙片を差し込む。
膨れ上がった肩は、全体を獣を思わせる膨張を起こしており、押さえ付けられた筋肉がビチビチと音を立てている。
細すぎる手足も音を立てて広がり、軍服が張り切れんばかりに広がる。
ジャスパーの悪ふざけだ。彼はよく力の誇示を行なう。
「アーマントゥルードちゃ〜ま、約束破りは良くないでちゅよぉ〜?」
「━━━━━ジャスパー。」
「あぁ…………?渡す気になったかぁ」
「床と椅子、そして本を片付けておいてくださいね」
部屋を汚した子供を叱る仕草で指導して、席を立つ。目の前の異形とも言える変態をしたジャスパーに素直に渡してもいい。
だが、乙女の楽しみの時間をノックもなしに覗き込んだのだ。
少しばかり悪戯をさせてもらう。
本を抜き出した箇所に戻り、読みかけていた本を労って戻す。私は部屋から出ようと扉に向かう。
仕事に対して意識を向けており、ジャスパーに対して意識を割いていない。
既に終わった事。
「おい。アーマントゥルード」
殺意と怒気を込められた言葉で、体がピタリと止まる。
振り返った先のジャスパーは人間の姿をしていない。
膨れ上がった手足は鋼鉄の堅さとなり、露出した箇所からは無数の獣の毛が生えてきている。
更に顔は狼と熊を足して邪悪さを振りかけた異形に変貌している。
ギチギチとすり合う凶派の間からは粘ついた涎が垂れている。
端的に言えば、怒り心頭であった。
ジャスパーは揶揄うのは好きだが、揶揄われるのは嫌いだ。
そこまた、私の苦手とする理由の1つだ。
最も尖塔から突き落とした時はやりすぎたと思っているが。
扉に手をかけたまま、トントンと慎ましい薄い胸元を指で突く。
そう、薄い、胸元をだ。年相応と言えば、年相応だが、まるで育つ気配もない。
哀愁を漂わせる胸元だ。
「あぁ……?」
異形となっているジャスパーは自身の胸元を器用に首を捩って覗き込む。
そして、胸元のポケットに入っているのは、折り畳まれた紙片。
その紙を鋭い爪がついた手で器用に取り出し、空中でゆっくりと広げる。
狼の口がニンマリと嫌らしく歪み、望みの物を手に入れたと知る。
その隙に鉄張りの扉を素早く開けて、通って閉める。
あの姿になっているジャスパーは理性が抑制されて危険だ。
それに仕事が待っている以上、急がないといけない。
「相変わらず、喰えねぇ野郎だ。感情も何も読み取れねぇ。無表情の氷女め。その癖、『仕事』だけはできやがる」
ジャスパーは吐き捨てるように扉越しに言い捨てた。
違う。表情に出すのが苦手なだけだ。
石造りの冷えきった廊下をトタトタと歩む。
私には、仕事が待っている。
仕事しか待ってないとも言える。