92.老人が暴威を振るうのは実力があるためではなく、我々がそれに忍従するためにほかならない
――時は四年ほど前にまで遡る。
ニルヴァーナが長老を討とうと決めたのは、息子であるシャルが、島を出てすぐのことだった。
その理由はわりと単純なことである。――長老から彼女に、息子の討伐令が出たされたのだ。
「島を勝手に出るなどと許されない」「出来損ないが」「一族の恥」「殺さねばならない」
たしか、長老を含む面々はそんなことを言っていたようにも思う。あまり聞き心地が良い言葉ではなかったから、よくは覚えていないけれど。
その際に直接討伐を命じられたのが、実の母親であるニルヴァーナだったのは、恐らくは他の竜達への見せしめによるものだったのだろう。
ニルヴァーナは今まで、長老の命令に関してはひどく従順にしたがっていた。
数十年前に、他の雌竜達が魔族と番うのを嫌がった時も、彼女は顔色ひとつ変えずにその命令を諾した。その後も、無理難題と思われる事柄すら、何一つとして文句一つ言ったことがない。
長老やそれに追随する竜達は、きっと彼女のことを御しやすい女だと思っていたのだろう。
彼女も、その評価を甘んじて受け入れていた気配がある。
――その認識が、そもそもの間違いだったわけだが。
ニルヴァーナは竜同士の間に奇跡的に生まれた希少種であり、その能力は、まだ若い身だが――といっても年齢はゆうに数百を超えているが――他の竜達を軽くしのぐほどの実力を秘めていた。
もしも生まれる時代があと千年ほど昔だったら、それこそ今の歴史が変わっていたかもしれないくらいだ。
そんな力を持つ彼女だからこそ、長老達はニルヴァーナを警戒し、時には監視下においていたのだ。
だが当の本人が規律に従順で、自分の意思を示さない自主性の低い性格をしていたので、その警戒心も長い年月の間にすっかりと薄れてしまったのだろう。
けれど彼女自身としては、優秀ではあるが決して驕ることはなく、かといって特に野心があるわけでもなく、ただ平凡に日々が過ごせればいいと考えていただけで、別に自分が従順であるという認識は全くなかった。
彼女は彼女なりに宛がわれた夫を愛していたし、上の者達から言いつけられる仕事も、そういうものだと思って適度に力を抜いて無難にこなしていただけだ。それを従順と称すには、些か無理がある。
そんな彼女の決して超えてはいけない線引きを、何でもないことのように踏み越えたのは、紛れもない失策だったと言ってもいい。
――普通に考えて、息子を殺せと言われて、是と返す母親が何処にいるというのか。
それからのニルヴァーナの行動は速かった。
たとえ彼女が命令を断ったとしても、あの剣幕だと、すぐに別の竜が追っ手に出されるはずだ。それはできる限り阻止したい。だとすれば、息子の為に彼女がとれる手段はたった一つだけだった。
――相手が権力によって重圧をかけるのであれば、その権力ごとそぎ取ってしまえばいい。
そう考えたニルヴァーナは古の法に則り、新しい長の座をかけて、一族で最も古き竜――長老ファーヴニルに決闘を申し込んだのだ。
本来であれば、それは実現すらすることのない戦いだった。
数百を超える竜達が住まうこの島で、最も偉い竜。それが長老ファーヴニルである。
ファーヴニルは、数千年もの長い間この島の頂点に君臨し続けている、齢三千を超える深緑の大竜である。
長老はめったに表に顔を出すこともなく、一部ではまるで伝説のように扱われているくらいだ。そんな最高権力者が、普通に考えておいそれと挑戦を受けるはずがない。
たとえ時間をかけて正当な手順を踏んだとしても、本命と戦う前に、長老の取り巻きの重鎮共と何だかんだと理由をつけて戦わされ、力を削られることが目に見えていた。
優秀な希少種であるニルヴァーナも、流石に連戦を強いられれば敗走は必至だろう。
長老はいくら全盛期よりも体は衰えたとはいえ、いまだにこの島で一番強いことには変わりない。ニルヴァーナ自身も、本気を出せばこの島の何割かを吹き飛ばすくらいの攻撃は可能だが、それを実戦の中で実行しろと言われると、少し厳しいものがある。大技というものは、それなりに溜めの時間が必要なのだ。
その点で言うならば、長老はどの竜よりも魔力の扱い方が上手いと言っていいだろう。
――ここ百年の間に、一度だけ長老と共に島の外へと出たことがある。
外出の目的は、魔族達に竜の力を見せ付けるためだった。恐らくは、それまでの再三における結界への干渉行為に耐えかねたのだろう。
何の因果かは分からないが、隠遁の魔術が使えるニルヴァーナもそれに随行していた。
その時のことは、今でもよく覚えている。
――時間にして、約数分。そんな短い時間で、長老ファーヴニルは魔族の砦を一つ、近くの森ごと一面を火の海にして見せたのだ。その鮮やかな術式に、思わず見惚れた。
腕に覚えのあるニルヴァーナも、あそこまでの惨状を引き起こすには、きっと倍の時間はかかるだろう。
今にして思えば、あれは恐らく牽制でもあったのだろう。あの時随行として集められたのは、生まれて千年くらいの中級とも呼べる年代の竜達だった。そう、長老の全盛期を生きていない竜達が主だったのだ。推測するに、いくら衰えたとはいえ、まだ若者達に引けを取らないその実力を、わざと彼らに見せ付けたかったのだろう。
そのパフォーマンスが幸いしてか、その一件からそれまで僅かにあった長老への不満も、あっという間に立ち消えてしまった。
弱い者が強い者へ頭を垂れるのは、自然界の鉄則だが、誰も自分の命は惜しいので、それも当然ともいえる。
……けれど、これはニルヴァーナを含め数名の者達しか知らない事実だが、その遠征から帰った後しばらくの間、長老は一向に他の竜達の前に姿を見せようとしなかった。
気が乗らなかったのか、それとも――無理が祟って寝込んでいたのか。ニルヴァーナはこれを後者だと見ている。
――長老の体は弱ってきている。少なくともニルヴァーナはそう感じていた。
覇気も威厳も、ニルヴァーナが生まれた頃とそう変わってはいない。ただ、彼女の動物的な本能が、長老の弱体化を知らせていたのだ。もしくは、彼女が長老の血縁であることも関係があるのかもしれない。
だがたとえそうだとしても、今のニルヴァーナが長老に敵う確立は、多く見積もっても五分五分である。
――けれど、自分が動かねば息子に害が及ぶ。
逆に討ち取られる恐れを胸の奥に封じ込められたのは、確固たる願いがあったからだ。彼女を突き動かしたのは、まぎれもない――息子への愛情だけである。
――まず結果だけ言おう。ニルヴァーナは見事に長老の首を討ち取り勝利した。その戦闘の詳細は、血で血を洗う凄惨なものだった、とだけ言わせてもらう。
勝因は、ただ単純にニルヴァーナが強かったことと、相手である長老が彼女のことを見下し、自身の力に驕っていたこと。細かい理由を挙げるならばいくつでもある。
けれど、それでも拮抗していた戦いの決め手となったのは、その意志の強さだろう。
同じ何かを守るための戦いであっても、片や自分の権威と、片や大事な家族を守る戦いとでは、どちらが強いかなど語るまでもない。
そんな大番狂わせに、ニルヴァーナよりも古くから存在する竜達が反感を覚えないはずがなかった。ニルヴァーナは息子が出て行った4年の間、その勢力を叩き潰す、いや、大人しくさせることに力を費やしたのだ。今まで外で竜の目撃情報がなかったのは、そういった理由もあるからだろう。
けれど幸いにも、まだ長い時を過ごしていない若い竜達はニルヴァーナに好意的だった。長老達によるあからさまな年功序列の体制を覆したニルヴァーナのことが好ましかったのかもしれない。
――元々、長老達の政策はあまり受け入れられてはいなかったのだ。
魔族と敵対しないことも、ほとぼりが冷めるまで人間と関わらないと決めたことも、大きな視点で見ればメリットのほうが勝るかもしれない。けれどそれはあくまでも合理的な理屈であり、個々の感情はそうはいかない。
竜族は確かに引きこもりがちな面があるが、若い竜達の中には、島を出て世界を回ってみたいと思うものも少なくはなかった。そういった連中には、この狭い島だけれでは物足りなかったのだろう。
――天空を舞う空の王が、何をはばかることがある。
そう言って、ニルヴァーナは外に出ることに意欲的な一派の支持を集めていった。物言いは乱暴だが、別に人間相手に戦争を仕掛けるつもりはない。ただの方便だ。
こういった、ある種の施政者よりの考え方は、ニルヴァーナが元々持っていたものではない。息子であるシャルが父親である魔族に知識の手ほどきを受けたように、番である彼女もまた、魔族である夫に色々な話を聞かされていたのだ。
ニルヴァーナの言うことは、前の長老と真っ向から対立してるようにみえるが、別に長老達の考え方が間違っているというわけではない。
けれど、夫の語る外の話を聞いていると、ニルヴァーナには、ずっと保守的な姿勢を保ち続けるのはあまり良いことではないように思えたのだ。
自分自身はある種の例外とはいえ、竜族は人間がいなくては存続することすら危うい存在だ。仲良く、とまではいかないがある程度の共生関係の確立は必要ではないだろうか。
そんな風に考えてはいたが、以前のニルヴァーナには、それを長老に訴えるほどの情熱がなかった。いわば対岸の火事。その方針のせいでいつか竜族が滅びるならばそれまでの話だ。そんな風に考えていた。
だが、成り行きで上に立った今となってはそんなことも言っていられない。権力の座になんて興味はないけれど、それでも長として最低限の役目は果たさなければならない義務がニルヴァーナにはあった。
――これから先、どう人間達と関わっていくべきか。それが問題だった。
今までのように気に入った人間を見つけたら言葉巧みに説得して浚ってきたり、脅して連れてきたりなど、あまりそういうやり方は得策ではない。一つ間違えば、敵が増えることになる。
昔のような竜族が一強であった時ならそれでもよかっただろう。だが、今は違う。
竜族と拮抗した力を持った魔族を虐殺した勇者や、息子のように魔族の血が混じった人間の子供達。彼らの血筋が時を重ねていけば、このパワーバランスがひっくり返ることも有り得なくはない。
自分達は人よりも優れた生物である。それは間違っていない。けれど、力に驕ることはもはや罪だ。そのせいで長老はニルヴァーナに敗北したのだから。
――そんな風にこれからの身の振り方を考えていた頃に、島を出て行った息子、シャルが帰還したのだ。
ニルヴァーナは素直に息子の帰りを喜んだし、それと同時に渡りに船だとも感じた。欠けていた歯車が、ようやく見つかったような気がしたのだ。
祠に二人を案内し、こちらを警戒する息子から何とか帰還の目的を聞きだすと、ニルヴァーナはあまり長考せずに肯定の返事を返した。あまりの即答ぶりに、息子からはさらに訝しがられたが、裏などないのだから弁明のしようがない。
――だってそうだろう。息子達が語ったのは、ひどく単純なことだ。
『戦わなければ死ぬ』ただそれだけのことだった。頷く以外に何の方法があるというのだろうか。
確かに竜族は人間の諍いは低俗なものとして関わりたがらないきらいはあるが、自分達の命がかかった生存戦争に力を貸さないほど愚かではない。
大まかな説明をシャルから受けた後に、豪奢な文様が所々に入った書状を渡された。どうやら詳細はこちらを見ろ、ということらしい。
小難しい言葉で書かれているそれらを読み取ると、丁寧すぎるほど丁重にこちらに協力を願い出ているのが良く分かる。
――協力を持ちかけてきた魔王、いや、かつて勇者であった少女が信頼できるかどうかは語るまでもない。あの捻くれ者の息子が、自分からこの島に帰ってこようと考えるくらいに、大切に想われている人間なのだ。長ではなく、一人の親としては信じるより他にない。どちらにせよ、力では敵わないのだから、考えるだけ無駄だった。
そういう意味でも、ニルヴァーナが長になったのは竜族、そして魔王にとっても行幸だったのだろう。
かつての長老であればどう返事するか分からないが、少なくとも今の長であるニルヴァーナは、この申し出は受けるべきだと確信していた。
――もし、この世界に『運命』というものが存在しているならば、きっとこれがそうなのだと、ニルヴァーナは本気で思ったのだ。
◆ ◆ ◆
他の竜達を説得するのに、六日ほど時間がほしいと、ニルヴァーナはシャル達に言った。
その際に母は「六日もあれば大人しくなる」と言っていたが、血の雨さえ降らなければそれで良いと、シャルは諦めたようにため息をついた。
……その六日の間、何度か他の竜の絶叫と爆発音が時折聞こえてきたが、何が起こっていたのかはあまり知りたくない。
因みに魔王から預かった友好の品などは、受け取ってはもらえたが、あまり興味はなさそうだった。そういった物に興味がない母が相手ならば、その反応もいたしかたないだろう。とんだ無駄骨だった。
これもまた奇妙な話だが、滞在している間、他の竜達と話す機会は終ぞなかった。母の指示によるものか、それともただ単に遠巻きにされているだけなのかは分からないが、シャルにとっては好都合だった。無駄な戦いをするよりはずっといい。ここで全く「寂しい」と感じないのは、他の竜達と何一つ友好関係を築いていなかったからかもしれない。
そして、夜は久しぶりに実家に帰ることになった。まぁ、この島には客人を招くための施設などないし、当然だと思う。エリザもそれで良いと返事をしてくれた。久しぶりに父に顔を合わすのは、少しだけ気恥ずかしかったが、仕方ないだろう。
母は色々と準備があるということで夜は不在だったが、通達はされていたのか、家に帰ると父親が複雑そうな表情で出迎えてくれた。
その後、父に母の豹変振りを問うと、何故だか分からないが、笑いながら頭を撫でまわされた。わけが分からない。しかもそれを見て、エリザが微笑ましそうに笑っていたのが納得いかない。でも、そんな光景を見て少しだけ心が温かくなったのは、きっとシャルが以前よりも丸くなった証拠だろう。
暗い夜更けに、一人になった部屋で、シャルは思う。
――わけの分からないことばかりだけど、一つだけ確かなことがあった。
この島は、いや、竜族達は変わろうとしている。それも、割といい方向に。けれど、それを成そうとしているのが自分の母親であるというのがいまいち腑に落ちないが。
だが果たしてその変化が、魔王にとって良い報告となりえるのだろうか。それは、この話を持ち帰ってみないことには分からない。
島に滞在した六日間の間、シャル達はニルヴァーナと今後のことの話し合いをしたが、結局のところ細かい部分はニルヴァーナが直接魔王と詰めていかなければどうしようもないのだ。
最後の日に、シャルがニルヴァーナに、国に帰ったら魔王を連れてもう一度ここに来ようか? と提案すると、彼女は静かに首を振ってこう答えた。
「いいえ――私がそちらへ向かうわ」
「長が島を空けて大丈夫なのか?」
シャルは不思議そうにそう聞いた。島を空けるということは、すなわちこの祠を空けるということだ。
もし彼女の不在時にここを制圧されたら、その瞬間に長の座は入れ替わることになってしまう。
「平気よ。取られても取り返せば良いだけの話だもの」
「……そうか」
何だか上手く言えないが、複雑な気持ちになった。自分の母はいつの間にこんなに好戦的な性格になったのだろう。
シャルのいなかった数年の間に、一体どんな革命が起こったのだろうか。父にそう問うても、結局に何も答えてはくれなかったが、そんなにものっぴきならない事柄があったのだろうか。
「地図は先に渡した書状に描いてあるが、母さ……長殿はいつぐらいに来る予定なんだ? こちらとしては、出来るだけ急ぎのほうがいいんだが」
結局のところ、魔王自身にもどれくらいの猶予が残されているのかが分からないようだし、いつ敵が来るのかは分からないが、対策を練るのであればきっと早いほうが良いだろうとシャルは思う。
問われたニルヴァーナは、少し考え込むかのような仕草をみせて、こう答えた。
「じゃあ、三日後はどう?」
「……ん?」
「だから、三日後」
「……ここから国まで、飛んで行ったとしても有に一日はかかるのにか? 急いだほうが良いと言ったのは俺だけど、それはちょっと早すぎだろう。いくら魔王様にだって準備とかあるだろうし」
それならば、シャル達と一緒に転移陣を使って帰ったほうがいい気もする。
だが、それだと流石に城の面々も混乱するだろうし、何よりもあまり竜族側に外交のアドバンテージを持たせたくなかった。
「急いだほうがいいって言ったのは貴方じゃない。……それに、話したいこともあるから」
「一応聞いてはみるけど、その日程で無理そうならこちらから連絡を入れるから、それまで出発はしないでくれ」
「ふぅん、分かったわ」
そう言って、ニルヴァーナは少しだけ不満そうに頷いた。
「確かに急がせたのはこちらの方だけど、随分と食い下がるな」
シャルがそう言うと、ニルヴァーナは少しだけ表情を曇らせた。
「……こう言うのもあれだけど、協力の話を聞いたときから、ずっと嫌な予感が消えないの」
「嫌な予感?」
「信じるも信じないも貴方次第だけど――きっと貴方達が思っている以上に、残された時間は少ないと思うわ」
私の勘なのだけれどね、と言いながら、彼女はため息を吐いた。
――普通であれば、ただの勘だと笑い飛ばしていたかもしれない。だがそれを言った相手は、紛れもない竜族の長なのだ、嫌でも気になってしまう。
シャルは不安を隠すように、右手を強く握り締めた。
「……それもちゃんと伝えておく」
そんな不吉な予感を胸に残したまま、シャル達は魔王の待つ国へと帰還したのだった。




