90.過ぎ去った不幸を嘆くのは、すぐにまた新しい不幸を招くもとだ
岩場の影に隠してある小さな船を引っ張り出して、荷物を詰め乗り込む。一人用の船ではあったが、幸いにもエリザは軽いため、二人でも船が沈むことはなさそうだ。
狭いながらも何とか体勢を整えながら交替で船を漕ぐ……とはいっても九割はシャルが漕いだのだが。
気軽な小旅行だと思っているかのように、エリザの表情は明るい。沖合いに進むにつれて、シャルの気持ちは沈んでいくばかりだというのに。
けれど、その陽気さに救われているのも、事実だった。
――それから数時間、船を南の方向へと漕ぎ続けた。いくらまだ肌寒い冬とはいえ、長い間直射日光にさらされるのは、シャルはともかく色素の薄いエリザには辛いだろう。だが、それももうすぐの辛抱だ。
島なんて何一つ見えない海の真ん中で、シャルは徐に手を止めた。空を見上げ、流されていく雲をじっと見つめる。
その雲が、ある一点において掻き消える様を見て、シャルは安堵したように息を吐いた。
――どうやら、島の場所は変わっていなかったようだ。そう思い、そっと胸を撫で下ろす。
「入り口に着いたぞ。少しゆれるから気をつけろよ」
「……ここがそうなの? 何にもないよ?」
エリザが不思議そうに首をかしげる。まぁ、そう感じるのも無理はない。だってここは見るからに何もない海の上なのだから。
シャルには、何故彼ら竜の一族がこうして隠れるようにして、何もない島に篭っているのかが理解できない。
彼らは人に虐げられるほど弱くはないし、薄汚い人の陰謀に利用されるほど愚かでもない。
シャルの母は、それを「彼らは臆病だから」と嘯いていたが、きっと実際の所、竜達は他者と関わるのが億劫なだけなんだろうと思う。長く生きている奴ほどその傾向が強いのだから、本当に救えない。
「一族以外には、島が見えないように細工されているんだ」
シャルはそう言って、自身の右手の親指に牙をたてた。ぽたりと、滴る血が船の上に落ちた。
そしてシャルは小さく何かの呪文を唱えると、その右手をゆっくりと海の中へと沈めた。一瞬の静寂の後、一陣の風が吹く。
「きゃっ」
その強風に、エリザは思わず硬く目を瞑った。体制を崩し、思わず船底に手を突いてしまった。
グラグラと船が大きく揺れる。だがシャルの呪文が終わると同時に、あれほどまでに強かった風もぴたりと止んでしまった。
エリザはふと違和感を覚え、すん、と鼻を鳴らした。
――空気の匂いが変わった。潮の香りにまじって、緑の匂いがする。エリザは、そろりと閉じた目を開いた。
「――わぁ!!」
まず見えたのは、何かを阻むように海上に聳え立つ大きな扉だった。その扉は、今は大きく開かれており、その先の全貌がよく見える。
――扉の奥には、緑豊かな大きな島が存在しており、冬の気温にそぐわない、暖かい風が島の方から流れてきていた。明らかに、島とこちらとでは気候が違う。 この島は、恐らく空間ごとこの世界から隠れてしまっていたのだ。
「この扉からでしか、竜の棲む島には入れない。まったく、面倒にも程がある」
シャルは忌々しいものでも見るかのように、門をにらみ付けた、ここにはいい思い出なんて片手で数えるくらいしか持っていない。嫌な思い出のほうが圧倒的に多いくらいだ。
――それでも、行かなくてはならない。その為に自分はここへ帰ってきたのだから。
魔王の信頼にこたえるために。そして何よりも自分自身のけじめのために。
門をくぐり、島にある小さな入り江へと向かう。
島の概観を眺めながら、シャルは思う。
――ここは、本当に何も変わらない。何の面白みもない、あの頃のままだ。
……感傷に耽る、とまではいかないが、やはりここに来ると昔のことを思い出してしまう自分に気づき、シャルは顔を顰めた。
それにきっと、もうすでに門が開かれたことには気づかれているはずだ。恐らく、門を開けたのがシャルであることもばれているだろう。
竜達は基本的には島の外へと出ようとしない。ここ数年の単位で考えれば、きっと自分ぐらいしか、この島に出入りした者はいないとシャルは思っている。
ここ最近は竜の目撃情報もほとんどないと聞くし、その予想は恐らく当たっているだろう。
そう考えると、暇を持て余した若い竜が自分達にちょっかいをかけに来るかもしれないな、とシャルは少し陰鬱な気持ちになった。
本来の姿である竜の姿に戻れば対抗は出来るだろうが、その姿をエリザに見られるのは、正直まだ心の準備が出来ていない。
引かれたり嫌われたりはしないことは分かっている。けれど、理屈と感情は違うのだ。
せっかく手に入れた居場所を失いたくないと思うのは、当然の感情だろう。居心地の悪いこの場所から逃げ出したシャルにとって、それはとても重要なことだった。
けれど、幼い頃はこの世の地獄のように思っていたこの場所が、本当はとても狭い世界だったのだと、今になって実感する。
そう思えるようになっただけでも、外に出た甲斐があったというものだ。
それに元々、シャルに島を出ることを進めたのは、彼の父親だ。島の外から来た彼だからこそ、この島の歪さを誰よりもよく知っていたのだろう。
――全身を緑の鱗で覆われた、蜥蜴人の魔族。それがシャルの父親である。
シャルの父である男は、傍若無人、残虐非道と称されている魔族にしては、ひどく穏やかな気性をしていた。少なくとも、シャルはそう思っている。
まぁ、魔族に関しての詳しい情報を知ったのは、島から出た後の話だが。島にいた頃は、魔族の評判など知りもしなかったのだから、それも無理はないだろう。
父親は無骨な外見に反して、とても博識であった。シャルの所々に特化した知識も、大体が父親からの教育によって得たものだ。その知識のおかげで、外の世界でもあまり問題がなく過ごすことができたと言ってもいい。
父は昔よく、魔族も一枚岩というわけではなく、色々な考え方を持つ者がいると言っていた。普通に人と恋を楽しむものもいるし、凄惨な殺戮を好む者もいると。
だが、外で得た魔族に関する情報は、その父の見解とはどうにも異なっているように思えた。
それはきっと、魔族にとって一丸となって倒さねばならない敵が現れたことに起因する――そう、シャルの今の主であるアンリのことだ。
颯爽と戦場に現れた、強大な力を持つ『勇者』という存在。
魔族達はその怨敵を打破するために、未だかつてないほどの団結をみせ、最後には死兵となって戦ったのだろう。まぁ、それも結局全部無駄だったわけだが。
そういう背景があるからこそ、現在の魔王であるアンリにとって『魔族』という存在は駆逐するべき対象に成り果ててしまったのだろう。その深い殺意が、自分達のような魔族の血を引くもの達に向かわなかったことは幸いである。
何故か魔王には父――魔族の生き残りの存在がばれているようだったが、出発の際何も言わなかったことを考えると、きっと黙認してくれたのだろう。
あの人は直情的にみえて、合理的な物の考え方ができる人だ。父が彼女に対し不利益な行動を起こさない限り、魔王が父に対し何かをすることはなさそうだ。
……もしかすると自分は、今までそういった微妙な事情もあって、無意識のうちに素直に魔王に接することが出来なかったのかもしれない。
島を出て家族を捨てたつもりになっていたくせに、心の中ではその縁を捨てきれなかったらしい。本当に、中途半端で困る。
――けれども、父はともかくとして、母は一体どうしているのだろうか。
シャルの母親は、言うまでもないが純粋な竜族である。それも、稀少とされる竜同士から生まれた白銀の竜だ。
そんな純血種から生れ落ちたのが、自分のような翼を持たない欠陥品だったのだから、周りの連中も文句のひとつも言いたくなるのは仕方ないのかもしれないな、とシャルは自嘲した。
だが母親自身は自分の生まれも、ましてや息子であるシャルの欠落すら気にも留めていないようだった。
過保護に接するというわけでもなく、かといって放任するというわけでもない。ある意味、『普通の親』だったのだ。
あえて他と違う所を上げるならば、彼女はシャルから見ても、閉鎖的な一族の中でもどこか浮世離れしていて、掴み所がなかったように思う。
そもそも、父親と番になったのも、長老に命じられたから、という単純なものだった。
そんな母親であったが、父親ともそれなりにうまくいっているようなので、シャルは深く考えないようにしている。馬に蹴られるのはごめんだ。
父から教わったのが知識だとするならば、母から教わったのは力の使い方だ。
たとえ翼がなくとも、竜としての力はある。そう言って彼女は淡々と己が持つ技術を息子へと伝授していった。そのおかげか、ただ単純な戦闘力でいえば、生まれて百年くらいの若い竜達の中でなら上位に食い込めるだろう。
――力さえあれば、今まで自分のことを馬鹿にしてきた連中を見返すことが出来る。母親はきっとそう思っていたのだろう。だが現実は違った。
いくら力をつけようと、知識を蓄えようと、他の竜達の態度は変わらなかった。
――竜しかいないこの島の中では、シャルと彼の父だけが明らかに異端な存在だった。
閉鎖された空間に生きる者達は、異質なものを排除したがる傾向にある。プライドの高い竜族ならなおのことだ。
結局のところ、彼らにとって翼のない生き物など、『竜』ではないのだ。そんな生き物が、我が物顔で『自分は竜だ』と言い放つ、それ自体が彼らの気に障ったのだろう。
――島を出ることを進めたのは父親だが、最後にそれを決断したのは、紛れもないシャル自身の意思だ。
母も、その決断を止めようとはしなかった。父はシャルに路銀代わりの貴金属を持たせ、背中を押してくれた。母は最期まで何も言わなかったけれど、仕方がないといった感じに悲しそうに笑っていた。
その姿に胸が少し痛んだが、それでもここにいたくないという気持ちのほうが強かった。
……もうここに帰ってくることはない。そう思っていたのに。
せっかく島に来たのだから家族には会いたかったけれど、それ以上に合わせる顔がなかった。
シャルは今や魔王アンリの尖兵だ。ある意味この島の平穏を乱すためにここにいると言ってもいい。他の竜達に、以前のように『面汚し』と罵られても、今は言い返せる気がしない。
――入り江の端に船を寄せ、エリザの手を取ってゆっくりと真っ白な砂浜に足を下ろす。
気難しい顔をしたシャルのことを、エリザが不安そうな目で見つめていた。そんな彼女に、シャルはぎゅっと手を握り返すことで返事をした。
ほう、と小さく息を吐き出す。……感傷に浸るのは、もう止めよう。迷っている暇なんて、もう自分には許されないのだから。
――たとえ、大事なひとと争うことになろうとも。
シャルはスッと視線を前に向けた。
「ただいま――母さん」
――そうしてシャルは、ようやく入り江に待ち構えていた人物に声をかけたのだ。




