84.天国と地上の間には、世の哲学などの思い及ばぬことが多数ある
――頭に叩きつけられるかのように飛び込んできた情報に、激しい眩暈を覚えた。
ふらり、と体を引きずるようにして髪飾りから手を離す。心臓がばくばくと激しく脈を打っていた。
ガタガタと震える体を両手で抱きしめながら、私は呻いた。
あれは――私が知るべき記憶じゃなかった。私の記憶じゃない、あれは、黒蛇――『黒曜』の記憶だ。
なんで、どうして、と疑問が頭の中を駆け巡る。
きっとこの記憶を私が知ることは、黒蛇の本意ではない。確信はないが、そう思う。ならば、いったい何故あんなものを……。
あの記憶は、きっと私が見ていいものではなかった。
他人の心の内を無許可で覗いてしまったという不快感。どんな奴にだって、自分の中だけに秘めていたい事柄があるはずだ。誰にも知られたくない、本当の気持ち。
それをみだりに踏み荒らすような真似をするのは、いくら不可抗力であるとはいえ、耐えがたい罪悪感を感じる。
だが、これで私は自分の置かれている現状をほぼ正しく理解したともいえる。
正直枷がどうとかは、話が急すぎて理解が追い付かないが、少なくとも命を取られることはないらしい。
カァ、と遠くでカラスの鳴く声が聞こえる。そんな音が聞こえてくるほどに、此処はとても静かだった。静かすぎて、背筋が寒くなる。
私はどうすればいいのだろうか。私には私の帰りたい理由があるけれど、相手には相手なりの事情がある。
……というか黒曜の記憶だと、このままあの国で過ごしていると私の命が危険みたいなことを言っていたけど、え、私死ぬの? 死ぬようなことが起こるの? もう色々なことが起こりすぎてわけがわからないよ。
鈍痛がする頭を片手で押さえながら、ぎゅっと目を閉じる。ただの人間には少々荷が重い。
――不意に、背後から強い視線を感じた。思わず振り返る。黒蛇だと、その時は思った。
だが、振り向いた先にいたモノは、予想とは全く違っていた。
「…………え?」
赤い衝立の上に、ちょこんと乗るようにしてソレ――白いカラスがこちらを見つめていた。
全身が真っ白で、嘴も白い。その両の目だけが、血のように赤かった。とてもカラスには見えない色彩でも、何となくカラスだと分かるフォルムをしている。 通常ではありえないその色が、カラスの異常さを惹き立てていた。
「アルビノのカラス? いや、そもそも何でカラスがこんなところに。……剥製かな」
それにしてはこんな人の出入りがない場所にあったというのに、妙に小奇麗だ。埃すら被っていない。
いやそもそも、幻覚の世界でそんなことを言う方が間違っているのかもしれないけど。
私が首を傾げると、白いカラスも同じ方向に首を傾げた。かくん、と白い首が落ちるように曲がる。鳥類独特のその動作が、いやに恐ろしかった。
今までいろんな異形――魔族見てきたけど、そっちは正直あまり怖いとは感じなかったのに。
和製ホラーと、外国のホラーの違いとでも言えばいいのだろうか。分かりやすい化け物と、既知に紛れ込んでくる異常とでは、恐怖の質が違う。
ぱちぱちと瞼を動かしながら、カラスが私のことを興味深そうに見やる。
「君は何故怒らないんだい?」
「しゃ、しゃべりだしたぞこのカラス!?」
私が悲鳴を上げると、カラスは不満そうに……不満そうに?グルゥと喉をならし、ばさり、と衝立の上で羽を広げた。威嚇のようだな、と他人事のように思った。
どうやら私の返答がお気に召さなかったらしい。いやだって、それ以外になんて言えと。
……私はいつの間に不思議の国に迷い込まされてしまったのだろうか。まぁ蛇も話してたし、今更だけども。
それにしても、この声。どこかで聞いたことがあるような気もするけど、気のせいかな?
カラスはその赤い目でじっと私を見つめながら、口を開いた。
「感情に干渉され、記憶を封じられ、魂まで変質させられた。それなのに何故彼らに怒りを抱かない?」
純粋に『疑問です』とも言いたげに、カラスが言う。それが黒曜と祖母のことを指しているのは、言われずとも分かった。
なんでカラスにそんなことを聞かれなくちゃいけないのか、と内心不満に思いながら、私は渋々口を開いた。
「そんなことを言われても……。結局私は私でしかないわけだし。今更『色々弄ってましたー』って言われてもどうしたらいいのか、その、困る」
正直なところ、まだ自分の頭の中で上手く整理がついていないのだ。
自分から変化を求めて成長していくのは良いことだと思う。ただ、自分の意思とは関係なく変化を与えられるのは、今まで築き上げた足場が揺らぐかのような恐怖を覚える。……いや、うん、今まさにそれをされてる状態なんだろうけど、それはちょっと下に置いておこう。話が進まない。
何といえばいいのか、結局の所、私は今の現状を嘆いてはいないのだ。
先ほどの黒曜の記憶が本物だったとして、とんでもなく非人道的なことをされていたのは確かだろうけど、私自身がそれを実感できてないのであれば、何もされていないのとそう変わりはない。
――実感がない。それ故に気にならない。傍から見ればかなり乱暴な理屈だろう。
どうせいくら過去を振り返ったところで、その過去が変わるわけではない。嘆きも悲しみも、私には無意味だ。まぁ、そういう風に思うようにされてしまっているだけかもしれないけど。
それに、もしその枷とやらを解除したら――私はどうなってしまうのだろう? 今とは違った『自分』になってしまうのだろうか。私は、そちらの方が恐ろしい。
――感情にかけられた『枷』。ただでさえ私は直情的なところがあるのに、それを外してしまったら何を仕出かすか分かったもんじゃない。私を止めてくれる人なんて、止められる人なんて、どこにもいないのだから。
でも、誰に何をされようとも、私の人生は私の物だ。それだけは何があっても変わらない。
私が歩もうとしている道を彼が邪魔するのであれば、私だって黙っているわけにはいかない。たとえ彼の行動が私の為だったとしてもだ。
最悪、命がけの実力行使になったとしても仕方がない。私は絶対にあの場所に帰ると決めたのだ。それが、綾之や姉さんに対する誠意でもある。
「それでも――ちゃんと話をしなきゃいけないとは思ってる」
私は話さなくてはならない。黒蛇――黒曜と。
もちろん対話で全てが解決するだなんて、脳内お花畑みたいなことは考えていない。でも、黙っているだけじゃ何も変わらない。
誰もかれも、相互理解というものが足りていない。今回の件だって、もっとちゃんとお互いの意思を話していればこんなに揉めないで済んだのではないだろうか。まぁ、今更言っても後の祭りだけど。
やれやれと肩を落とす私を見て、白いカラスは目を細めた。
「前向きなことを言っているようで、その実、心の中は全力で後ろ向きだ。素晴らしい矛盾だね。実に人間らしい」
どう好意的にみても、痛烈な皮肉しか聞こえない。もしかしなくても馬鹿にされているのだろうか。
……というか、このカラスは本当に何なのだろう。先ほどの黒曜の記憶にも出てこなかったし、こちらの味方ってわけでもないだろうに。
機を窺って拘束してやろうかと考えていたけど、不思議なくらいに隙が見当たらない。下手に手をだしたら返り討ちにあいそうな予感すらする。ああ、やりにくい。
「あの」
「なんだ?」
「さっきの『記憶』を私に見せたのは、貴方だよね」
別に確信があるというわけではなかった。ただ単に、状況から判断するとそうと考えるのが一般的かな、というくらいで。
――いい加減、比較的温厚な私もちょっとイライラしてきた。どいつもこいつも本題を言いもしないで「察してよ」って感じの態度をとってくるし。口があるんだからはっきり言えよ。
何でわざわざ私が全部を考えなきゃいけないんだ面倒くさい。頭の中ゆるふわパンケーキででもできてんの? その白い羽毟って丸焼きにするぞ害獣が。
おっと、ストレスのせいかちょっとだけ頭の中が過激になっているようだ。でもほら、口に出さなければセーフだし。
「……君、やっぱり枷はかけておいた方がいいんじゃない?思考が怖いよ? ――まぁ、確かに先ほどの映像を見せたのは私なんだけども」
そう続けながら、カラスは器用に肩、というか翼を竦めてみせた。
……全然セーフじゃなかった。この際心の中を読まれていることには言及しない。このなんでもありの空間で、そんなことを言い出すのは無意味だろう。
どうせ私がここでできることは殆どないし、きっと碌な抵抗も出来ない。
目の前にいるカラスも、黒曜も、確実に私よりも格上だ。単純な力比べでは敵いもしないだろう。
魔王だなんだを自称する割に、弱っちくて嫌になるな。井の中の蛙もいいところだ。
そう考えると、なんだか笑い出したいような気持ちになった。
子供の頃は『特別じゃない自分』に嘆いて泣いていたというのに、今はどうだろう。こうして『特別な存在』に干渉される自分は、やはり特別だったということだろうか。
それか、ただ単に高望みをした罰を受けているだけなのかもしれない。
太陽に近づきすぎたイカロスが蝋の羽を焼かれたように、黄金を求めた王が強欲のせいで身を滅ぼしたように、神の愛を拒んだ女が未来を変えられぬ呪いを受けたように。ああ、やはり人は無力だ。
私は薄い笑みを浮かべてカラスに問いかけた。
「私に何をしてほしいの」
「別に、何も。『真実』を知った君がどうするのか見たかっただけさ。思っていたより反応が無くてつまらない結果になってしまったけどね。――だが、うん。君のそんな顔が見られたのだから、わざわざ彼の神域に割り込んだ甲斐はあったかな」
そんな顔とは、はたしてどんな顔なのだろうか。別に変な顔はしていないと思うんだけど。
でも薄々わかってたけど、このカラスは私の味方ってわけではないんだな。話を聞くかぎりただの愉快犯だろう。
――私はこういった手合いが一番嫌いだ。余裕綽々で、こちらの気持ちなんて考えもせずに、安全圏から好き勝手にちょっかいをかけてくる。まるで『神様』のようだ。本当に腹立たしい。
カラスがおかしそうに笑う。どうせまた私の心の声を読んだのだろう。悪趣味な奴だ。
「読まれていると分かっているのに、そこまでぼろくそに言わなくてもいいだろう?」
「人っていうのは二面性がある生き物なんで。耳触りのいい言葉しか聞きたくないなら、機械でも相手にしてればいいのでは?」
「ふむ、仮にも神である私に随分と不遜な態度をとるね」
カラスの言葉に、やはりか、と奥歯を噛みしめた。なぜ私に関わる神様とやらは、こう、わりと自分勝手な奴しかいないのだろうか。
それがもし運命だというのであれば、そろそろ運命を決める神様に殴り込みをかけても許されるかもしれない。
「ふふ、運命に翻弄されるのは人間の性だが、運命には必然しか存在しない。今君がここに居るのも、そうあるべきだからだ。それは分かるね?」
「いや、分かんないけど」
「君の抗いに期待しているよ、地を這う獣の王。次は同じ立場で出会えるといいね」
「か、会話になってない!」
力の強い神様とは皆こんな感じなのだろうか。私を呼んだのが、まだ話の分かるレイチェルで良かったと心底思う。
しかも今ベヒモスと言ったな。今度はべス君関係の厄ネタなのかなぁ……。いい加減問題ばかりで胃が痛くなってくる。
「それじゃあ、またいつか。――それまで川へは来ないでくれよ」
白いカラスはそう言うと、ばさりと大きく翼を広げ空中へと羽ばたいた。その際に生じた風に、思わず目を細める。
そうして飛び立とうとしたカラスの背に――白い髪の青年を幻視した。
――あ、と小さく声を上げる。その人間離れした面立ちに、どこか見覚えがあった。忘れようにも、強烈過ぎて忘れられない記憶。
そういえばどこかで聞いたことがある声だとは思っていた。そうだ、あれは――。
「……夢じゃ、なかったんだ」
過去に臨死体験で渡りそうになった川――レテか三途の川かは分からないが、どうやら本物だったようだ。今更ながらに恐ろしい。渡らなくて良かった。
それにしても、と思う。
言いたいことだけ言って、よく分からない記憶を植え付けて、あのカラスはいったい私にどうしろというのだろうか。愉快犯だということは何となく察してはいるが、本当に迷惑極まりない。
はぁ、と大きくため息を吐く。
宝物庫の空気が、段々と暗いものに切り替わっていくのを肌で感じた。どうやら、カラスの言う『干渉』とやらが切れてきたらしい。
「さぁて、どうしたものかな……」
――寂しがり屋の神様を、どうやって説得しようか。




