83.クーリングオフ?知らない言葉だな
黒蛇の予想通り、幼子は頻繁に宝物庫へとやってきた。
大人の目を盗んでの行動だったが、何やら屋敷の方は忙しくしているようで、幼子にまで目がまわっていないようだ。黒蛇にとっては好都合だったが、それはそれで問題だろう。
幼子と黒蛇は宝物庫で、時には池の畔で色々な話をした。
そのほとんどが取り留めのない話だったけれど、幼子が時折見せる影が、どうにも気になった。
――きっとそれは、幼子が最初に話したことに起因する。
漠然とした『恐れ』。それを自分の中で上手く昇華できないでいるのだ。
幼子の親族たちは、この幼子の『危うさ』を何となく気づいていた。だが、これといって対応をしてこなかったのは、勿論わけがある。
下手にカウンセリングまがいのことをして、事故の時の記憶を取り戻してほしくないというのと、何よりも『時間が解決してくれる』と考えていたからだ。
普通の人間であれば、そう考えるのはおかしくない。心の傷を癒すのは、いつだって時間だ。下手な慰めよりも、そちらの方が効果があることが多い。
幼子も、周りからは分かりにくかったろうが、少しずつ心の整理がついていったところだった。きっと胸の内を話す相手――黒蛇がいたからだろう。
想いを吐きだし、それを聞いてくれる相手がいる。それだけで、人は楽になれる。
――だが、そんなことを知る由もない黒蛇は思ってしまった。
『どうにかしてやりたい』と。
黒蛇は幼子を見ている内に思ってしまったのだ。
『辛いのならば、苦しいならば、不安であれば――それを感じなければいい』と。
痛みにも、悲しみにも、負の感情にはひたすら鈍く。大抵のことでは激昂したりせず、余程のことがないかぎり、人の過ちも笑って許せるくらいに、作り変えてしまえばきっと幸せになれるに違いない。黒蛇は、本気でそう考えたのだ。
傲慢であり、独善的。神様の考えることは、人間には理解できないことが多い。
本人は良かれと思ってしたことでも、それが対象にとって良いことなのかは、はっきり言って微妙である。
誰もそれを止めるものがいなかったというのも、悲劇の一つだろう。
それから、黒蛇は幼子が黒蛇に訪ねて来るたびに、少しずつ感情に枷をかけていった。一定以上の情動には、制限がかかる。そんな枷を。その行いは、ほぼ成功したともいえる。
その術式が浸透するにつれ、幼子には笑顔が増え、泣くことはほぼなくなった。それは他から見ればどこか歪に見えただろうが、黒蛇には気にならなかった。――黒蛇もまた歪んでいたのだから。
いくら角が取れて丸くなったように見えても、その本質は祟り神にすぎない。まともである筈がなかったのだ。
枷をつけた弊害とでも言うのだろうか。
ふとした瞬間に枷が外れた時――その抑圧された感情は激しく燃え上がり、爆発する。さながら、発火剤のように。
元より、よく笑い、よく泣く子だった。そんな子供が自分の意思の外で、情動を抑え込まれ、腹の内にため込むことになる。
それを本人が自覚していないのだから、爆発はさぞ強大なことだったろう。
人間の中には、その枷を無意識の内に外すことができる者もいるようだったが、絶対数が少ない為、出会うことすら難しい。
黒蛇はそう考えていたのだが、数年後に幼子と適格者が出会ってしまったのは、少しだけ誤算だったことだろう。
後にその適格者と幼子は友好を築いたようだったが、時折地雷を踏み抜いてひどい目にあっていたようだった。まぁ、お互いやり返していたようだし、問題はない。
そうして時おりガス抜きが行われたとしても、無理に抑圧された感情は、変質し、幼子の中へと蓄えられていった。
それらは霊力、法力、あるいは魔力へ変換されて、器へと蓄えられる。それに合わせて、膨大な力が溢れださないようにと器の方も成長していったのだ。
もともと幼子には才能があった。まともに鍛えれば一角の霊能力者になれたことだろう。
だが幼子の親族たちはそれを選ばなかった。その才が発覚した時には、黒蛇の呪いとも言い換えてもいい術式が体中に張り巡らされていたせいかもしれない。
これ以上の変質が恐ろしかったのだろう。だが、その想いもむなしく、人らならざるモノの手が加えられた幼子は、ゆっくりと『強き者』へと成長していった。
……それが、将来幼子が茨の道を歩むことになった原因になるとは、この時は誰も分からなかったが。
そんな未来の話はともかくとして、な密やかな親交を続けていたある日、黒蛇は幼子にこう問われた。
「くろへびさんには、お名前はないの?」
何とも今更な質問だった。黒蛇が無いと答えると、幼子は笑って言った。
「じゃあ私がつけてあげる!」
――この時、黒蛇は『駄目だ』と拒絶するべきだった。
名前とは呪であり、楔でもある。名前のない神の力が弱いのは、その存在が現世に固定されていないからだ。
黒蛇はその法則を逆手に取り、あえて名を持たないことで、力を抑えている。
名を得る――それは黒蛇にとって禁忌であり、七巳の一族に対する裏切りでもある。でも、それ以上に欲が出てしまった。
名前を手に入れたら、この愛らしい幼子と一生切ることができない『縁』が結べる。それは、なんとも甘美な誘惑だったろうか。
暗い感情が鎌首を擡げて己に問いかける。今は黒蛇の側で笑っている幼子も、いずれは大人になり、どこぞへと嫁いでいく。そうなってしまえば、もうこうして黒蛇と会うことは無くなってしまうだろう。
……有体に言ってしまえば、黒蛇は寂しかったのだ。
確かに巫女の一族は己に寄り添ってくれた。だが、それは畏れ敬う神としてだ。どう足掻いても、主従の関係からは逸脱できない。
幼子は黒蛇にとって、それ以外の何かだった。もしも黒蛇が人だったのならば、この関係を『友情』とでも名付けたのかもしれない。
だが、あいにく黒蛇は良くも悪くも神であったし、祟り神という生まれ故に、他の神との交流も殆どなかった。
何度も言うようだが、黒蛇は真っ当な神ではない。もしこれ以上の『縁』を繋げば、幼子の器はおろか、魂にまで影響が出る危険性がある。
――そうと分かりながらも、頷いてしまったのはどうしてだろうか。
『心』とは、本当にままならないものであると、心底思った。
そうして幼子は――その『名』を呼んだ。
「えっとね。鱗が黒くて、目が夕日みたいに赤いから、黒と太陽で『黒曜』!」
呼ばれた瞬間、黒蛇は悟った。この『呪』からは決して逃げられないと。
いらないと、突っぱねてしまえばよかった。でも、それすらできなかった。頭の中でどう考えようとも、心が受け入れてしまっていたのだから。
幼子の笑顔を見やる。黒曜という名も、ついさっき思いついたのではなく、きっと以前から考えていたのだろう。
そう思うと、胸の奥が少しだけ温かくなった気がした。
――その日から黒蛇の名は『黒曜』となった。
語感だけで言えば、黒き太陽という意味になる。光を生み出さない、邪悪なる黒。終わりの世界。皮肉なことに、祟り神である黒蛇にはふさわしい名であった。
だからであろうか。その名がよく馴染んだが故に、黒蛇の力は日ごとに増していった。
――そして、日ごとに幼子は苦しげに咳を吐き出すようになった。
黒蛇はその性質故に、常に陰の気――瘴気を身にまとう。きちんとした教育を受けた幼子の祖母や姉ならばいざ知らず、ただ無垢なままに育った幼子にとって、黒蛇は共にあるだけで猛毒だったのだ。
――黒蛇が名を与えられえて一週間後。幼子はついに瘴気中毒を起こし倒れ、『黒曜』の関係は露呈することになった。
それからのことは、語るまでもない。
黒蛇――黒曜は今まで以上に厳重に封じられ、幼子の記憶は当代の当主によって改ざんされた。
それについては、黒蛇も納得している。仕方がないことだった。七巳の一族には、感謝もしているし、情もある。
最初に裏切ってしまったのは黒蛇の方だ。どんな対応を取られても文句は言えない。だた、少しだけ寂しさを感じていた。
だが、時折ふと思い出したかのように、幼子が池のほとりまで訪ねて来ることがあった。
そんな時は、封印の眼を誤魔化すかのように人型を取り、気配と口調を変え、幼子――もうすでに少女と呼べる年になっていたが――と他愛もない会話を楽しんだ。その記憶すら、祠を抜けたら消えてしまう微かなものだったけれど。
その僅かな親交すらも、年が経つにつれて段々と減っていった。
それは単純に本家へ来る機会が減っていたというのもあるし、体が大きくなるにつれ、ここに忍んでくるのが難しくなったのだと思う。分かっていたことだが、やはり物悲しかった。
――人には人の理があり、本来であれば己のような存在とは関わるべきではない。
それでも大切にしたかった。守りたかった。慈しみたかった。愛したかった。――側に居たかった。
その情動は、娘を想う父親のような心境からくるものだったように思う。慈愛であり、庇護欲であり、ほんの少しの所有欲。
――そんな気持ちが抑えきれなくなって、幼子の年齢が十二を越えた頃に、たった一つだけ約束を交わした。
『七巳は』
『七巳の家は俺の為の贄なんだから』
『だから、決してこの地から離れてはいけないよ』
それは――『置いて行かないで』とすら言えなかった臆病者の願い。
ああだが、幼子は確かにあの時頷いたのだ。
約束は成された。違えることは許されない。
それでも黒蛇に少しだけ残っていた良心が、幼子の全てを縛ることを許しはしなかった。約束は交わされたものの、真名を以ては契っていない。唯一残してやれた、抜け道だった。
幼子自身の意思でこの土地から遠くへ離れることはできないが、もしも――将来大人になった少女の手を引く者が現れたならば、潔く開放して祝福してやろう。そう思っていたのに。
――横合いから掠め取るかのように、幼子を浚っていったあの泥棒猫。
あの瞬間の感情を、どう言葉で表したらいいのか今でも分からない。体が燃え上がるほどの殺意と、無理やり切り離されてしまった絶望感。一歩間違えれば、封印の拘束を引きちぎって、無差別に祟りを振りまいていたことだろう。
思いとどまったのは、ひとえに幼子が悲しむだろうと考えたからだ。
帰る場所が無くなってしまったら、あの優しい子は嘆き悲しむだろう、そう思ってのことだ。
その後、微かに繋がった縁を辿り、行きついた先で見た幼子は、それはもう酷いものだった。
溢れんばかりの負の感情をその小さな身の内に封じ込み、自家中毒を起こし、その他の感情すらもすり減らしてしまっていた。
辛いことも、苦しいことも、耐えて、耐えて、耐え続けた結果、器の方が限界を超えてしまったのだ。
あの日、枷を掛けたことを後悔はしていない。あの時はあれが最善であると思っていたから。だが、その結果がアレだ。全てを諦めてしまったかのような、澱んだ瞳。
……黒蛇は、ただ幼子に幸せになってほしかっただけなのだ。
だから、ほんの少しだけ枷を緩めた――それが、幼子がかの国を出奔することになった最初の誘因であるとは、きっと黒蛇しか知らないだろう。
哀れな娘だと思う。黒蛇によってその心を縛られ、体質を歪められ、それで得た能力のせいで他の神に目を付けられ、最後には歩むべき道すら剥奪された。あの娘は、正真正銘『神の被害者』に他ならない。
――そして、またしても悲劇に巻き込まれようとしている。
このまま幼子が幸せであるならば、拙い約束など破棄してやっても良かった。だが、それすらも出来ないのであれば、この世界はもはや幼子にとって害悪でしかない。
今度こそは守らなくてはと、強く願う。だからこそ、あのような弱い神の元へなど愛しい娘を置いておけなかった。
それがたとえ――幼子の意思に反していようとも。
神とは、勝手な生き物である。
それが人の理では間違った行為だとしても、己が正しいと考えたならば、善悪など関係がない。だからこそ、人と神は関わるべきではないのだ。
そう、彼らは――生きる災害なのだから。




