82.神話は決して美しい話ではない
その黒蛇はいわば幼子の家が代々祀っている神の化身である。――いや、祀るというよりも、封じていると言ったほうが正しいかもしれない。
――日ノ本の神に、『大物主』と呼ばれる蛇神がいる。奈良の三輪山に祀られる、国造りの神話に登場した神の一柱だ。
時の帝は、日ノ本に疫病を巻き散らかす蛇神を三輪山に祀り、尊き巫女の祈りをもって、祟りを鎮めたと言われている。
黒蛇はその『大物主』の封じ切れなかった『祟り神』としての側面が形作られた存在である。いわば分霊と呼んでもいいだろう。
だが、その黒蛇はただの分霊と呼ぶにはあまりにも禍々しすぎた。
存在するだけで災厄を巻き散らかす、生きた災害。見境のない呪いの塊は、各地に点々と存在する土着神なんぞよりも、よほど脅威だったことだろう。
そしてその黒蛇は、祟りを封じ切れなかった責任を取らされた巫女が、その血統をもってして、この地へと縛り付けたのだ。
巫女はその家名を『七巳』と定め、二千を超える年月をこの地で過ごしてきた。百を超える代替わりを経て、今に至る。
今でこそ、表向きは始まりの巫女のことを主祭神として祀ってはいるが、まさかその裏で祟り神を祀っているとは誰も思いはしないだろう。
はっきり言って、巫女にとっては、とんだ災難だったことだろう。
だがいくら古くから在る神の分霊とはいえ、当時の黒蛇は神としては生まれてまもない赤子同然。それも自分たち人間の不始末故に生まれてしまった存在なのだ。
まるで贄のようだと嘲られる時代もあったが、それすらも一笑のもとに切り捨ててきた。どう言われようとも、巫女にとって黒蛇は恨むべき対象にはなりえなかったのだから。
――だが何よりも不幸であったのは、その祟り神の方だろう。
封じられ、まるで悪鬼羅刹が如く扱われてはいるが、黒蛇は別に祟りを起こしたくて起こしているわけではない。
『祟り神』として生まれいでた故に、『そうあるべき』という概念が先行し、自分自身では抑えがきかなかったのだ。
要らないモノをかき集めて造られた、邪神。その性質は確かに悪なれど、心はひどく純粋だった。
――黒蛇は自身が『祟り神』であることを、疎んだことはなかった。
人が人であることを疑問に思わないように、黒蛇も己が成り立ちに疑問は抱かなかった。
力をつけ過ぎたら困るという理由で真名を与えられず、碌に身動きが取れない不自由な生活を強いられようとも、だ。
そんな哀れな神を、巫女の一族はこれまでずっと、祀ることによって封じ続けた。
日々祈りを捧げ、少しでも慰めになるようにと毎年祭りを開き、時には絢爛豪華な貢物を献上する。そんなことを、二千年もの間途切れずに続けてきたのだ。
一族にも見返りが無かったわけではない。黒蛇の祖『大物主』は豊穣の神でもある。
祭り上げ、祟り神としての性質を鎮静化することにより、同等とはいかないまでも、飢饉を避けるくらいの加護を受けることは可能だったのだ。
だが、それはあくまでも黒蛇が『加護を与えたい』と思わなければ成立しない。
二千年もの間、果たして黒蛇は巫女の一族のことをどう思っていたのだろうか。
時には怒りを抱き、時には哀れに思い、時には情を抱いていたのかもしれない。
そもそも、黒蛇が本気で彼女たちのことを祟ろうと考えていたならば、その血筋はとうに絶えていたことだろう。
それを優しさと断ずるか、妥協と称するべきかは、今は判断がつかない。
ただ一つ言えることがある。彼らの間には、確かに『絆』があったのだと――。
◆ ◆ ◆
黒蛇と幼子が出会ったのは、まだ肌寒い三月のとある日だった。
黒蛇は普段は祠の奥深くにて、眠りについている。祭りや神事が無い限りは基本的には起きてはこない。そういう決まりだった。
――だが、声が聞こえたのだ。
感情をおし殺すかのような、悲痛さを湛えた嗚咽。それは、かつて己を封じた清らかな巫女の声によく似ていた。
アレは可哀想な女だったと、今では思う。
尊き血筋に生まれ『日ノ本最高峰の巫女』と謳われながらも、祟り神を封じるために贄として差し出され、血を繋ぐために好きでもない男と契らされた。
巫女としていくら神託を紡ごうとも、その全てを上の兄に利用され、最後には切り捨てられた。本当に、哀れで惨めな女だった。
悔しかっただろう。辛かったことだろう。それでも巫女は己の前ではしゃんと背筋を伸ばし、毅然とした態度で接していた。 可哀想なくらい、誇り高い女だった。
――かの者への同情と、ほんの少しの好奇心。
ただそれだけの理由で、黒蛇はゆっくりと動き出した。封じられてはいるものの、神社、および神域の敷地内から出なければ、動けないわけではない。少々体に負荷はかかるが、そんなものは些細なことだった。
祠を出て、己の瘴気で濁った池を通り過ぎ、泣き声が聞こえる宝物庫へと向かう。
――そこで、黒蛇は出会ってしまった。
始まりの巫女によく似た面立ちのその幼子は、お世辞にも綺麗とはいえない泣き顔をさらしていた。
ぐすぐすと鼻をすすり、必死で嗚咽が漏れるのを耐えるその姿が――あまりにも小さく見えたから。
じわり、と白い紙に墨が広がっていくかのように、湧き出てくる不可思議な感情。
『この生き物は己が守らなくては』漠然と、そう思った。
――それを人は、『庇護欲』または『父性』と呼ぶ。
だがそんなことを黒蛇は知る由もないし、教えてくれる者もいない。
生まれてしまった衝動を抑えきれず、黒蛇は幼子に声を掛けてしまった――それが、最初の間違いだとも知らずに。
◆ ◆ ◆
「――どうした、そんな兎のような目をして。天狗にでも追われたか」
黒蛇がそう問いかけると、幼子は泣くのも忘れて、馬鹿みたいに大きく口を開けて呆けていた。
まあるい目からは、淵に溜った雫がほろりと零れ落ちた。その顔が、あまりにもおかしかったので、黒蛇は穏やかに笑って見せた。
それから――幼子と黒蛇は色んな話をした。
両親が死んだこと。とても恐ろしいと感じたこと。これからどうしたらいいのか分からないという、漠然とした不安。子供特有の訳のわからない話だったり、ハッとするほどに真理に近い考察だったり。それらを、黒蛇はじっと聞いていた。
単純に話を聞くのが新鮮だったというのもあるし、話しかけたはいいものの、どう扱っていいか分からないという戸惑いもあった。
そんな黒蛇を気にもせずに、幼子はしゃべり続け、一時間もしたころには、疲れてその場で眠ってしまった――この、得体のしれない祟り神のすぐそばでだ。
それに黒蛇がどれだけの衝撃を受けたのか、きっと幼子は一生知ることはないだろう。
畏れられることも、敬われることもあった。時には罵倒されることもあった。
だが、この幼子はどうだろうか。初めに黒蛇が現れた時は驚いたようだったが、今では安心したように黒蛇の傍で眠りについている。微かに微笑みすら浮かべて。はたして子供とは、こんなにも警戒心のない生き物だったろうか。
そっと尾を伸ばし、幼子の頬に触れる。自分の硬い鱗とは比べ物にならないくらいに柔らかく、脆そうだと思った。
それから――黒蛇はそっと祠の近くに幼子を運び、浅い眠りにつくことにした。何となく、この子供はまたあそこに来ると、そう考えたからだ。
幼子が秘める潜在能力は、始まりの巫女と匹敵するほどの輝きを持っていた。それ故に、黒蛇の目に留まったのだろう。
そう――一族の誰よりも、幼子は己の『贄』として優秀だったのだ。
七巳の一族が黒蛇を祀るのは、義務であり、権利であり、本能でもある。
『――ああ、また会いたい』と、黒蛇が願ったならば、それが叶わない筈がない。
――この気持ちを、何と呼べばいいのだろう。
麗らかな春の日差しを受けた時のような、胸の奥が温かくなるような穏やかな気持ち。
迷い子に手を差し伸べる女神とやらは、こんな気持ちなのだろうか、と思いながら黒蛇は丸まって浅い眠りについたのだ。




