81.世界の中心が見つけられない
暗闇の中に一筋の光が見える。私はその輝きに向かってゆっくりと歩き出した。
ぼんやりとした気持ちで、黙々と足を進める。
階段を上がっているような、下がっているかのような、ふわふわとおぼつかない道を歩きながら、私は小さく息を吐いた。
早くここから出て皆の元へと帰らなくてはいけない――。
それが一番の優先事項であり、その意思を曲げるつもりはない。だが、後ろ髪を引かれるかのように、異形の言った言葉が胸に突き刺さる。
『うそつき』
異形は最初に、私に向けてそう言った。
その言葉に心当たりはない。でも、もしかしたらそれすらも忘れてしまっているだけなのかもしれない。そうなると、はっきり言って手詰まりとしか言いようがなかった。
「……わけがわからない」
ぽつりとそう零す。私はそんなに察しが良い方ではない。むしろ人の感情に関しては鈍い方ではないかと思う。
私に何かを求めるのであれば、きちんとはっきり言葉に出して言ってくれないと、どうしたらいいのかわからない。
思わせぶりな言葉で散々煽ったあげくに、暗闇の中に放置するなんて、いったいあの偽物は何がしたいんだ。
思わず舌打ちが出そうになったが、ぐっとこらえる。
この前も行儀が悪いとヴォルフにねちねちと叱られたばかりだ。少しずつでいいから気を付けていかなければ、後が怖い。
まるで小姑のようだな、と思いながら、ふと自分の頬に触れてみる。
そういえば、あの異形の手はひんやりとして熱を感じなかった。そういう生き物だと言ってしまえばそれまでなのだろうが、あの独特の温度には、何となく覚えがあった。
触れた瞬間にこちらの熱を強かに奪い、段々と同じ温度に変わっていくあの感覚。そんな動物のことを、私は知っている。あれはまるで――蛇に触れた時のような感覚だった。
そう思い当った瞬間、視界が弾けた。
「うわっ」
小さく声を上げて、さっと片手で視界を覆う。幸いなことに物理的な衝撃は感じなかった。……なんて心臓に悪い。
恐る恐る、明るくなった瞼を開いてみる。
「ここは確か、ええと――あれ? どこだっけ……」
ぐるりと辺りを見渡す。よくよく観察してみると、私は広めの和室のような場所の真ん中に立っていた。畳ではなく板張りの床で、どことなく湿った匂いがした。
いつの間に移動したんだ、ということにはもう突っ込まない。どうせここも現実ではなく、あの異形が作り上げた幻想の場所なのだろう。
部屋の所々には古めかしい朱い衝立が置かれ、いくつもの木箱が点在している。中には刀のようなものまで飾られていた。倉庫か何かだろうか。
――その置物のうちの一つに、ふと目が留まった。何故だか目がそらせない。
綺麗な瑠璃色の石で作られた大きな蛇の彫り物が、じっと私の方を見つめている。その蛇の尾には、子供が付けるようなリボンがついた髪飾りが付けられていた。
不意に感じた既視感に、思わず首を傾げる。
――あれって、昔私が失くしたお気に入りの髪飾りではないだろうか。
近づいて、その髪飾りを見やる。赤いリボンに、小さく「Ryu」とあまり綺麗ではない刺繍が入っている。それが呼び水になり、じわじわと当時のことが頭に浮かんでくるような気がした。
確かこの髪飾りは、私の誕生日に姉がプレゼントしてくれたものだ。手を絆創膏だらけにしながら作ってくれた、世界に一つだけの髪飾り。
いつも欠かさず身に着けていたんだけれど、いつの間にか失くしてしまったのだ。正確な日時までは覚えていないけれど、確かあれは――両親のお葬式の前後にはすでに無かったような気がする。
……もし、この髪飾りが今でも『この場所』にあるとするのであれば、きっと私はここに来たことがあるのだろう。
でも、断言はできない。何故ならば――私はその前後の記憶が殆ど無いに等しいのだから。
失くしてしまった記憶。失くしたはずの髪飾り。奇妙な符合だった。
「………………。」
そっと、髪飾りに手を伸ばす。そこに――答えがあるような気がしたから。
◆ ◆ ◆
――昔話をしよう。いや、なんてことはないただの過去語りだ。
前にもどこかで言ったような気もするが、私の両親は二人とも事故で亡くなっている。交通事故だったらしい。この「らしい」というのは、その事故の前後の出来事を私がよく覚えていないからだ。
私がその時のことを姉や祖母に聞くと、彼らはそろって「知らない方がいい」と口を閉ざした。暗に「思い出すな」と言われているような気がした。実際、思い出さない方が良いのだろうと、私も思う。
葬儀の席での親族達の言葉から推測するに、私の両親は信号無視の暴走トラックに轢かれて命を落としたそうだ。――それも、私の目の前で。
覚えていたらトラウマでは済まなかっただろうな、と思うのと同時に、両親の最後の姿も覚えていられないなんて、という寂しさも感じる。
だが人の口に戸口は建てられないもので、その時の詳しい出来事は、すぐに私の耳に入ってしまったのだ。
――その時私と両親は、広めの横断歩道の上を渡っていた。横断歩道の中程で私が走り出し、信号機の下で「はやくー!」と急かしていたらしい。
そんな私を見かねたのか、父が苦笑しながらこちらへ駆け寄ってきた――その瞬間、とんでもないスピードを出した大型トラックが横合いから母に向かって突っ込んできたのだ。
……そのトラックの運転手は、飲酒をしたうえで車に乗り、アルコールが回った頭で運転した結果、アクセルとブレーキと間違えたのだろう、と警察は言っていたそうだ。つまり両親は、純然たる被害者に他ならない。
トラックが視認できた時点で、位置から考えると、父は助かってもおかしくはない場所にいたそうだ。
そう、ほんの少し歩道側に――私の方へと避けていれば助かった。そんな位置に父はいた。それなのに助からなかった。
父は、母に折り重なるようにして絶命していたという。それはつまり、事故の瞬間に、父は母を助けようとしたのだろう。結局は最悪の結果になってしまったけれど。
――もしも私が一人で先走らずに、二人の手を引いて道を渡っていれば、未来は変わっていたのだろうか?
運が良ければ皆助かっていただろうし、一つ間違えば皆死んでいた。一概に「たられば」を語るのは、あまり良いことではないだろう。
所詮時間は不可逆に過ぎず、起きてしまったことを「ああしていればよかった」と悔やみ続けるのは、はっきり言って不毛な行為だ。
まぁこの時点で私が得た情報は、伝聞のそのまた伝聞なわけで、どこまで信憑性があるのか分からないけども。
その話をしていた時「あいつは奥さんを守ろうとしたんだな」と親族の男の人がぽつりとこぼしていた。
私自身はよく覚えてはいないが、父はとても聡い人間だったという。
きっと父だって、自分が駆け付けたところで、どうにかなるなんて思っていなかったはずだ。
――助けられないと、助からないと頭では分かっていても、父は母の元へと駆けることを選んだのだ。たとえそのせいで自分が死ぬことになろうとも、愛する人が助かることに一縷の望みをかけて。
――それを人は『美しい愛』だと評する。
端からみれば、素晴らしい美談のように聞こえたことだろう。でも、私は――それがとても恐ろしいことのように思えて仕方がなかった。
『愛』が、誰かを大切に思う気持ちが、人を殺す。自ら死を選ばせる――それはまるで『死に至る病』のようではないか、と恐ろしく思った。
……十にも満たない子供だった私が、何故そんなことを思ったのか今でもよく分からない。破天荒な性格の割に、どこか臆病なところがあったのだろうか。
ああきっと、この時私は――どうしようもない程に歪みを抱えてしまったのだ。
あの年頃の子供であれば、何か疑問に思うことがあれば両親や周りの大人に質問するのが普通だろう。だが、出来なかった。何も聞けなかった。ただただ、その疑問と恐怖を身の内に抱え込むことしか出来なかったのだ。
――自分でない『誰か』に頼るのが、昔からどうにも苦手だった。
それは決して『頼ることで迷惑をかけたくないから』という殊勝な気持ちなんかではなく、ただ単に幼いながらにも一人前に高かった私の矜持が原因だろう。
子供の頃の私は、自分で言うのもなんだが、それなりに優秀な子供だったように思う。特別な説明を受けなくとも、大抵のことなら難なく一人でこなせたし、飲み込みの良さだけなら、同年代の子供達よりも頭一つ抜けていたと自負している。
それだけならいわゆる『手のかからない子』で済んだかもしれないが、それ以上に好奇心が強く、無駄に高い行動力を持ち合わせていたため、両親は気が気でなかったことだろう。
でもそんな私のことを、大らかな両親はいつも許してくれたし、他の大人たちも「仕方がないなぁ」と呆れながらも優しい目で見守ってくれた。
……だから、きっと勘違いをしてしまったのだ。
――自分は特別な人間である、と。
子供特有の、理屈が通じない万能感。私の小さな世界で、私は無敵の存在だった。
それ故に、自分の行動を制限されることを殊更嫌がった。あの頃の私にとって、『大人に頼る』ということは自ら敗北宣言をするのと同義だったのだ。
何てことはない、子供の意地だ。愚かな子供の我儘だ。
そんな不器用な子供だったから、突発的に起こった、自分ではどうすることもできない理不尽な事故を、真っ直ぐに受け入れることができなかったのだろう。
――そして私は嫌というほどに思い知ったのだ。『自分は特別な人間なんかじゃない』と。そんな当たり前のことに、気が付いてしまった。
もしも私が本当に『特別な人間』だったなら、両親があんな目にあう筈がない。それこそ、物語のヒーローのように颯爽と両親のことを救えていたはずだ。そう本気で思ってしまった。
いずれは、気付くはずのことだった。
そういった精神的挫折を積み重ね、人は大人になっていく。でも、そのことに気づいてしまうには、最悪のタイミングだった。
――私は、そこまで大人になれなかったのだ。
両親を失った絶望への追い討ち。自分自身の土台がガラガラと崩れていく感覚。世界の中心は、私じゃなかった。
辛かったり、怖かったり、悲しかったり、不安だったり――一人では抱えきれないそれらの負の感情がキャパシティを超えてしまったから。だから、記憶に鍵をかけ、自分なりに心を守ろうとしたのだろう。
――ああ、そうだ。認めよう。私は逃げたのだ。現実からも、自分の感情からも、何もかも。尻尾を巻いて負け犬のように逃げ出したのだ。
幼い私は、ふらりと親戚が集まっている広間から抜け出すと、人の気配が薄い方――祖母が住む本家の反対側にある神社の方へと向かった。
ぐちゃぐちゃになった思考を抱え、私は呻いた。慰めも何もいらないから、誰もいない所で一人になりたかった。そうでないと、壊れてしまうと思ったから。
誰もかれもが忙しそうで、私のことなんて目に入っていなかったから、簡単に抜け出すことができた。
――祖母の家、つまり本家のことだが、何か重要なことが起こると、大抵のことはこの本家にて執り行われる。
私の母は祖母の一人娘――いわゆる跡取りだったので、葬儀やその他もろもろのことがこの本家にて行われることは当然のことだった。
私も直系の孫故に、この本家には、毎週休みの度に母に連れられて訪れていた。
特に何をするというわけではなかったけれど、広くて古い家はそれだけで冒険のし甲斐があったのだ。だが、それだけで済まないのが子供の冒険心だろう。
母と祖母が二人で話している時、私に対する監視の目が薄まる時がある。そういう時、私は本家に隣接している神社にこっそりと忍び込むのが好きだった。
いけないことをしているという自覚はあった。でも、駄目と言われていることほど、心躍るのも事実なわけで。数年後、祖母に本殿への出禁を言い渡されるまで、私のひそかな冒険は続いたのだ。
その部屋――宝物庫の存在を知ったのは、本当に偶然だった。
本殿の奥にある、小さな祠の裏手の門を潜り、澱んだ池を通り過ぎ、その先にひっそりと佇んでいる、苔が生えた小さな蔵。幼い私には、それがおとぎ話に出てくる魔法使いの家のように見えたのだ。
蔵には何故か鍵はかかっていなかった。不用心だと今では思うが、あの場所はそれなりに入り組んでおり、普通に向かおうとしても、たどり着くことすらできないだろう。
きっと、祖母もそれを分かっていたから、うっかりして鍵をかけ忘れてしまったのかもしれない。もしくは――誰かがこっそりと鍵を外したのか。
だが、そんなことは私にはどうでも良かったし、気にもしなかった。ただ、自分だけの秘密基地ができたようで嬉しかったのだ。
――だから、無意識のうちにそこへと逃げ込んでしまうのは、ある意味必然とも言えた。
そして――そこで、私は出遭ってしまったのだ。宝物庫の天井から垂れ下がるようにして降りてきた、その存在に。
「――どうした、そんな兎のような目をして。天狗にでも追われたか」
――そう言って、紅い目をした大きな黒蛇は、私の泣き顔をするりと覗き込んだのだ。




