80.忘れたわけじゃない。ただ思い出せないだけ
その恨みがましい声が聞こえた瞬間、視界が歪んだ。
周りの景色がぐにゃりと溶けるように、黒に染まっていく。私はそれを、ひどく冷静な心で見つめていた。
先ほど少女の肩に触れた時、何かが切り替わる気配があった。嫌な予感で終わってくれれば良かったものの、どうもそうはいかないらしい。
――ようやく掴んだと思ったのに。
目の前にいるこの歪んだ笑みを浮かべる少女は、私の知っている「彼女」ではない。それだけは確かだった。
「……お前は、誰だ」
私が硬い声音でそう問うと、少女の形をした異形は、うっそりと笑った。
異形はゆるりとした足取りでこちらへと近づき、そっと右手を私の頬へと伸ばした。私はそれを黙って受け入れた。否、受け入れざるを得なかった。
――体が動かない。そう思った時にはもう手遅れだった。
見えない鎖に拘束されたかのように、身動きがとれないのだ。
ぐっと息がつまる。私は自分のことを決して弱いとは思っていない。こと呪術に関して言えば、むしろかなり強い方であるという自覚がある。
……その私が、抵抗すらできない。それは、私にとってかなりの衝撃だった。
「――お前は知っているはずだ。七巳の娘よ」
それは少女の姿とは似つかわしくもない、低い男のような声だった。
異形は私の焦燥も知りはしないで、するすると私の頬を撫でながら続ける。
「忘れているのか、それとも忘れさせられているのか。どちらにせよ、お前は思い出さなくてはならない――それが、七巳に生まれた娘の背負う業なのだから」
そう言われた瞬間、ズキリと頭が痛んだ。
顔をしかめた私を見て異形はクスリと笑うと、そっと息がかかるほどの距離に顔を近づけて言った。
「――我が見せた夢は、楽しめたか?」
「…………」
私は黙り込むしかなかった。
薄々おかしいとは気づいていた。気づいていたけれど――気づきたくなかった。私はきっとどこかで『これは現実ではない』と察していた。
ゆっくりと、落ち着きを取り戻すかのように息を吐きだす。
深い霧が晴れたような――目隠しが取れたような、そんな感覚。……ようやく思い出したのだ。レイチェルのことも、今までの自分のことも。
……どう考えても、今回の下手人はこの目の前にいる異形だ。得体のしれない異形に記憶をいじられていたなんて、ぞっとしない。
記憶を操作されていた。心の隅ではそうだとわかっていても、私にかけられた目隠しを取ることが出来なかった。きっとあれは私自身の『後悔』の権化だ。
別れも言えずに居なくなってしまったという悔いが、私の足を躊躇わせたのだ。
……もう一度あの頃をやり直したいだなんて思っていない。
ただ私は、寂しかったのかもしれない。唯一の姉妹と、無二の親友。彼らを失うことなんて、あの頃の私は考えてもいなかったのだから。
矛盾しているのは分かっている。でも、なんだかあそこはよく知っている場所の筈なのに、何故だかとても懐かしくて。いつも通り日常が、狂おしいほどに愛おしくて。離れがたいと、そう思ってしまったのだ。
――でも、私は選んだ。選んだのだ――『現実』を。
――そう、私は『魔王アンリ』。生まれ育った世界から離れ、女神の手を取り、正義の味方に成りそこなった自称魔王。それが私という人間だ。
ぐっと手を握りしめる。爪が掌に刺さり、じわり、と痛みが広がった。だが、その痛みのおかげで、ほんの少しだけ体が自由になった。
――頬を撫でる異形の手を叩きはらい、挑むように相手を睨み付ける。
「さっきまでのアレは、作り物の世界だったってこと?」
自嘲の笑みを浮かべ、吐き出すようにして言う。そうだとすれば、なんてお笑い草だろうか。
幻覚の世界の中で、泣いたり怒ったり笑ったり。全部、この異形の掌の上でのお芝居だったというのに。……まるで私が馬鹿みたいじゃないか。
――ああ、たとえそうだとしても幸せな夢だったと思ってしまうのだから、本当に救えない。
あれはまるで、私の願望を映したような夢だった。私のことを忘れないでほしいと願う、身勝手なエゴだ。
――そんな優しい夢を振り切り、私は今ここにいるというのに。
そんな私に、異形はレイチェルの姿をしたまま、穏やかに微笑んだ。
「作り物でもあり、真実でもある。――あれは結局のところ、ただの『投影』にしか過ぎない。だが、それがあやつらの意識の残滓を用いた物である限り、本来のモノとはそう変わりはないだろう」
あれ程の精度のモノを作り上げるのは大変だった、と異形は嘯くように続けた。
投影。それはいったいどういうことなのだろうか。そんな私の困惑に気づいたのか、異形は得意げに続ける。
「そのままの意味だ、娘よ。アレはお前に連なる縁から汲み取った、奴らの意識、感情、想いの写し。たかだか世界を渡ったくらいで、一度繋がれた縁は切れん。お前が望もうと、望まざろうともな」
その言葉を、かみ砕くように頭の中で反芻する。
――不思議な感覚だった。誰かもわからない異形の言うことなのに、それがどうしようもなく『真実』であると私は心の中で確信してしまっている。まるで、そうあることが当然であるかのように。
――あれは、二人の本当の想い。
姉の懇願も、親友の慟哭も、全部現実に有り得たかもしれない事実。そう考えると、色々なことがストンと胸に落ちた。
私はあの二人が強い人間であると信じていた。いや、今でもそう思っている。
――私が失踪したくらいで、どうこうなるだなんて微塵も思っていなかったのだ。そんなことくらい、きっと時間がたてば乗り越えられるだろうと、そう思っていた。それと同時に、少しは心配してくれていたらいいな、とも。
じわり、と視界が微かに歪む。なんだ、私は自分が思っていたよりも、二人に大切にされていたんじゃないか。
ぐいっ、とやや乱暴に涙を拭う。いつから私はこんなに涙もろくなってしまったんだろう。情けない。
ひりひりする眼を開けながら、じいっと異形を見やる。
――記憶を操作されたこと自体には、そこまで怒りは感じていない。
とんでもないことをされていたという自覚はある。だがそれ以上に――懐かしいと思ってしまったから。たとえ仮初の戯曲だったとしても、胸が締め付けられるほどに幸せだったから。良い夢がみれたと感謝したいくらいだ。
でも、果たしてこの異形はいったい何なのだろうか。尊大な言葉の端々に、どこか私に対する親しみを感じる。異形は私の事をよく知っているようだったが、私の記憶にはこんなことができるような奴は存在していない。
――だが恐らく、いや、きっと私はこの異形が何なのかを知っている。異形が言うように、忘れてしまっているだけなのだろう。
でも私にはわからない。はたしてこの異形は私の『味方』なのだろうか?
確かに敵意も悪意も感じず、暴力だって振われていない。なおかつ、不可思議な親しみすら抱かれている気がする。だがしかし、それが私にとって有利に働くとは限らないのだ。
――人は自分が理解できないものを恐れる。それはいわば本能であり、私だって例外ではない。
この異形がどんな考えを持ってこのような場に私を連れてきたのか、皆目見当がつかない。
『分からない』ということは、私にとってひどく苦痛であり、忌避感を抱くだけの理由があった。
知らず知らずの内に、私は異形から離れるように後ずさっていた。目の前の生き物が、ただただ怖かった。
そんな私を見て、異形は笑う。
「なぁに、怯える必要はない。怖いことなんて、何もないさ」
「…………。」
「信用できない、といった顔だな。ふふ、仕方がないか」
異形はすっと目を冷たげに細めると、袖で口元を隠しながら言った。
「我とこの女の何が違うのやら。――所詮はどちらも荒魂に過ぎんというのに」
その言葉を皮切りに、異形――レイチェルの姿見がずるずると溶けるように崩れていく。その光景はあまりにもおぞましく、目を背けたくなるような嫌悪感を抱いた。
――だというのに、何故だか目が離せない。私はただ呆然と立ち尽くしたまま、異形が崩れていくさまを見つめていた。
残骸は地面に落ち、黒い霞となって空気に溶けるようにして消えていく。そして最後の欠片が溶ける頃には、辺りの空間は真っ暗な闇に包まれてしまっていた。
◆ ◆ ◆
少女が幼い頃にした約束。
それは子供同士がするような、幼くて拙い約束だった。
それを今も異形は大切に守り続けている。
たとえ少女が己を忘れていたとしても――。




