79.さようなら、わが愛しの尊き日々よ
見えない手に引かれるかのように、路地の奥へと進んでいく。
この先に行くと確か、いつも帰り道のショートカットに使っている空き地に出るはずだ。
そう思った瞬間、こめかみがズキリと痛んだ気がした。
――先程から何度も感じる、この痛み。何かを思い出そうとするたびに、それを静止するかのように痛みが走る。
私はいったい何を忘れてしまっているのだろうか。とても大事なことだったような気もするし、そうでもないような気もする。
でもただ一つ言えることがある。きっと私は、それを思い出さないと一生後悔することになる。根拠はないけれど、漠然とそう思った。
なぁん、と間延びした声が響く。その猫の姿は、まだ見えない。
――今の状況が尋常ではないことくらい、私にもわかっていた。
何だかふわふわとした、夢の中に居るかのような不思議な感覚。もしもお酒を飲んでいたら、恐らくこんな症状になるのかも、などと思いながら足を進める。
時折痛みに霞む視界の端に、キラキラとした金糸が見える。
サブリミナルのように浮かんでくるそれを見て私は、不審に思うよりも先に、言葉にしがたい安堵感を感じた。
見覚えのないそれが、何故かいつも側に居たかのような、そんな気持ちになったのだ。
――私はきっと、『それ』の名前を知っている。
知っている。知っていたはずだ。なのに思い出せない。そのことが泣きそうになるくらいに苦しくて、私の胸を締め付ける。
ぎゅっと胸元で右手を握りしめながら、薄暗い路地を抜ける。猫の声は、間近にまで迫っていた。
すっと開けた視界に思わず目を細める。
日の光が眩しかったこともあるが何よりも、空地の入り口に佇む金色――金糸の髪を持つ少女の後ろ姿に目がくらんだからだ。
なぁん、と金色の少女の足元で猫が鳴く。まるで、こちらに来いとでも言いたげに。
その声に一歩踏み出そうとして、立ち止まる。
いいのだろうか、このまま進んでも。思わず、ごくり、とカラカラに乾いた喉をならす。
――これ以上進んだら、戻れなくなる。それは天啓にも似た確証で、私の足を戸惑わせる。
思考の端に、今朝の不安気な姉の姿が浮かんだ。
もしも私がここでどうにかなってしまったとしたら、彼女はいったいどうするのだろうか? 泣きわめく? それとも仕方がないと諦める?
……考えるだけで胸が痛くなる。
愛されているという自覚はある。姉を置いては行けないという情もある。ああでも、それでも。
――目の前の金色の誘惑には、抗えなかった。
ふらり、とおぼつかない足取りで歩きだす。
――名前を、呼ばなくちゃ。
彼女の名前を呼ばなくては。そうしたら、きっと振り向いてくれる。そして私の名前を呼んでくれるはずだ。私の、名前を。
あれ、名前? 私の名前って、何だっけ? 私は何と呼ばれていた?
ぐるぐると思考が揺らぐ。分からない。分からない。何も分からない。
そうしている内に、金色の後ろ姿が目の前にまで来ていた。
セピア色の情景が、突如として脳裏によぎる。
――あの日。とても寒い日の帰り道で、突如として現れた金糸の髪の少女の手を、私は取った。
確かに取ったはずだ。
強烈な違和感が胸を渦巻く。手を取ったはずなのに、なのに何故私はまだここにいる?
ありえない。そんなことがあっていいはずがない。だって、私は――もうこの世界にはいないのだから……!!
頭の芯がずきんと半鐘のようになりながらも、私はそっと透けた少女の背に手を伸ばした。否、伸ばそうとした。
「お前は、そうやってまた俺達のことを置いていくんだな」
私の顔の両脇からぬっと手が伸び、そのまま抱きすくめるようにして視界をふさがれた。
――背後から誰かが近づく気配なんて、感じなかったのに。
拘束から逃れようともがくが、相手の力の方が強く、抜け出せない。
背後の人物は、はぁ、と大き目なため息をついた。
「俺は、帰れと確かに言ったはずだ。あんな簡単な言いつけも守れないのかお前は」
「……あ、綾之ちゃん?」
「いつもそうだ。自分が好きなように相手を振り回して、こっちがどう思うかなんて考えもしない。お前は、本当にひどい奴だよ」
責めるような口調でありながらも、どこか悲痛さを湛えた声音で――綾之は吐き出すように告げる。
学校へ向かったのではなかったのか。それとも、私が言いつけを聞かずにこうしてここへやってくることを見越していたのだろうか?
信頼されていないことに落ち込んだが、彼は何も間違っていない。
「怖いもの見たさの好奇心も大概にしろ。何かあって困るのはお前一人じゃないんだ。少しは学習してくれよ」
ぐっと言葉に詰まる。確かにそうなのかもしれない。私はここに来るという気持ちを抑えることができなかった。
でも、それは本当に好奇心によるものなのだろうか?
私には、もっと別の切羽詰るような焦燥を感じたのだけれど。
だがそんな些細な違いなど、背後にいる綾之にはきっと関係がないのだろう。
「……さっさとここから出るぞ。ここには、何もいやしないんだから」
「でも、だって、すぐそこに彼女が」
「だから、誰もいないって言ってんだろ。何度も言わせんなよ」
――そんなわけがない。彼女は確かにそこにいる。手を伸ばせば届く、そんな距離に。
グイッと後ろに体を引かれるも、私の足は動かない。
この衝動を私は何と呼べばいいのだろう。ここから去ることに未練がある、という表現では生ぬるい。まるで魂を鷲づかみされているかのように、彼女の存在に引き付けられる。離れがたい何かが彼女にはあった。
私の微妙な空気を悟ったのか、綾之は語気を強めて言う。
「帰ろう。涙さんにも連絡を入れたし、きっとあの人も心配してる。それに、そのわけわかんない幽霊と涙さんのどっちが大切なんだよ」
「それは……」
もちろん姉さんのほうが大切だ。そう即答しようとしたが、何故だか言葉が出てこない。まるで、迷っているかのように。
「……でも」
――彼女は「私」を呼んでいる。誰よりも、何よりもこの私のことを望んでいるのだ。それは、はっきりとわかる。
私以外の誰かでは、きっと代替にはならない。金の少女にとって私は、替えのきかない「唯一」なのだ。
――そして、私にとっても彼女は大切な存在であったはずだ。
自然とそんな考えが頭に浮かんでくる。そう思うことに、最初に感じていた違和感はもうなくなっていた。
彼女のことを思い出そうとするたびに、ちらりと脳裏を掠める幾人もの人影。
その誰もがあったこともないはずなのに、何故だかよく見知った顔のように見えた。
誰もが、私のことを笑顔で見つめている。信頼と憧憬のこもった瞳で。
――思い出せ、と頭の中で声がする。
その聞き覚えのある声は、紛れもなく自分自身の声そのものだった。
口ごもる私に、綾之は苛立ったように小さく舌打ちをした。
「そいつが何かなんて俺にはどうだっていいけど、別にお前がわざわざ構ってやることもないだろう? 放っておけば、きっとお前以外の誰かが何とかしてくれる。危険だとわかっていることに首を突っ込むのは、それこそ馬鹿のすることだ」
そのもっともな正論に――私はゆるく頭をふった。
ちがう。ちがうよ。そうじゃないんだ。
「――きっと、私でなくちゃ駄目なんだよ」
そして私も、行かなくてはいけないと思っている。思ってしまっている。
そう気づいてしまったら、もうどうしようもなかった。
「なんだよ、それ」
「わ、分かってる。今の私が少しおかしいのはちゃんと分かってる。でも、ここで帰ってしまったら私は一生後悔することになる。……それだけはどうしても嫌なんだ。ごめん」
そう言い切った瞬間、拘束が解かれ、胸倉をつかまれてぐるりと体を反転させられた。その勢いがついたまま、綾之の方へ向かされると同時に、頬にすさまじい衝撃を受けた。
ぱんっ、と大きな音が辺りへと響く。くらりと視界が揺れ倒れそうになるも、胸倉をつかんだ手がそれを許さない。
ジンジンとした痛みとともに、じわり、と鉄錆の味が口の中に広がる。
――叩かれた。
そう気づいた瞬間、かぁっと頭に血が上った。何も、女の顔を叩くことはないだろう。
そう思い、やり返してやろうと、怒りに任せて顔を上げると、思いもよらない光景を目にした。
「え……?」
ぼろぼろと大粒の涙を流しながらこちらを見つめる綾之と目があう。時が、止まったような気がした。
ぽかん、と口を開けて彼を見やる。口の端から生暖かい血がぽたりと落ちた。
グイッと両手で襟元を掴まれ、軽く上に引っ張られる。つま先しか地面につかないところまでち上げられ、少し息が苦しくなった。
げほっ、っと小さく息を吐き出し、綾之を見上げた。
「薄々気づいてんだろ? これ以上進んだら戻れないって。お前、俺達のことも何もかも全部捨てていくつもりか?」
「そんなつもりはっ……!!」
そんなつもりは全くなかった。皆のことはもちろん大事だと思っているし、捨てるつもりなんてさらさらない。
……だが、私がやろうとしているのは、つまりはそういうことなのだろう。
「ふざけんなよ。頼んでもないのに近づいてきて、勝手に友達だとかわめきたてて知らない内に俺の隣を陣取ってたくせに。他に大切なものができたら簡単に捨てていくのか」
「捨てるとか、そんな、わたし……」
「何なんだよ。お前にとって親友なんてその程度なのかよ。お前がいなくなって俺が悲しまないとでも思ってんのかよ、バカ」
グルグルと、綾之の言葉が頭を駆け巡る。
悲しむ? 私がいなくなることで? 誰が? ――綾之ちゃんが?
――涼音綾之という男は、強い人間であると信じていた。少なくとも、私はそう信じていたのだ。
そんな彼が、私の目の前でまるで子供のように泣いている。
それは私にとってかなりの衝撃だった。
私は心のどこかで、私がいなくなったとしてもこの男はそんなに心を動かしたりはしないと思い込んでいた。
――だって、綾之ちゃんには姉さんがいる。
彼にとっての唯一無二は姉さんだ。私がいなくなったとしても、姉さんさえいればそこまで悲しむことはなんじゃないか。そう思っていたのに。
この彼の姿は、一体なんだ?
「お前がいなくなったら、おれはさみしいよ」
くしゃりと顔を歪めながら、吐き出すように綾之はそう言った。
混乱する思考の中で、私はどうするべきかを考えあぐねていた。
「何も知らないから、何も考えてないからそんなことが言えるんだ。それに、お前がいなくなったら涙さんはどうなると思う? 死人みたいな顔色をして、毎日お前の帰りを待ち続けて、飯もろくに喉を通らなくなって憔悴したあの姿を、お前にも見せてやりたいよ」
「……綾之」
「なあ、頼むよ。このまま何も知らないふりをして家に帰ってくれないか?」
お願いだから、と縋るように彼は言う。
これはきっと、彼にとって精一杯の懇願だ。プライドも本心をも何もかもをかなぐり捨てて、私に縋っている。
矜持が高い彼にここまでさせてしまった罪悪感に胸が痛くなった。
大事な親友を泣かせてまで、我を貫く必要があるのだろうか? そう思うも、私の心はやはり動かない。
胸元を掴んでいる彼の手を、ゆっくりと外しながら、私は自分にできる精一杯の笑みを浮かべた。
「綾之ちゃんはさぁ、普段の言動からは全く分からないけど、結構優しいよね」
「……いきなり何だよ」
ぎろり、と涙で赤くなった目で睨まれる。不思議と怖くはなかった。
「私が騒動に巻き込まれた、……いや、巻き込んだ時も文句を言いながらも付き合ってくれたし、勉強が分からなかったときも、馬鹿にされたけど何だかんだで分かりやすく教えてくれたし、それに」
「おい、やめろ。何でそんなこと言い出すんだよ」
「私が思っている以上に、私のこと大切に思ってくれてたんだね。嬉しいよ、ありがとう」
「お願いだ。やめてくれ。頼むから、これで最後みたいなこと言うなよっ……!!」
綾之が悲鳴のような声を上げる。本当に、察しがいい。
でも言わなくてはいけない気がしたのだ。きっと言わなくちゃ後悔する。
それに今じゃなきゃ、一生伝えることができないような、そんな気がして。
「そんな優しい綾之だから、姉さんのことを安心して任せることができる。――どうか、涙姉さんのことをこれからもよろしくお願いします」
そう言って、私は深々と頭を下げた。
――私は、姉さんには誰よりも幸せになってほしいと思っている。私のせいで、今まで姉さんには浮いた話の一つもなかったし。
厳密に言えば、姉さんの色事に無頓着な性格もあったのだろうが、それに加えてやんちゃな子供の世話があるとなっては、ろくに恋愛もできなかったことだろう。
下手にどこの馬ともしれない変な男に引っかかるくらいならば、信頼のおける親友に任せてしまった方が、私としては安心できる。
でも、姉さんも表には出さなけれど、きっと綾之のことを気にかけている。そんな気がするのだ。
――二人ならきっと大丈夫。
彼らにとって、この信頼はきっと身勝手なエゴに過ぎないだろう。所詮は全部私のわがままだ。
どうか私のことを許さないでほしい。そして時折「ああ、アイツは本当にひどい奴だな」と思い出してくれれば、それだけで私は満足だ。
ほんの小さな心の傷でいられたならば、それでいい。
ああ、本当に私は最低な人間だとも。
……私は本当に昔から何も変われていない。身勝手な子供のまま大きくなってしまった。本当に救えない。
――でも自分で選んだ道だけは、きっと後悔しないと誓えるから。
綾之は呆然とした瞳で私を見やると、悔しそうに唇をかみしめた。
「お前は、馬鹿だよ」
「うん」
「言い出したら聞かないし、それで俺が今までどれだけ迷惑したと思ってる」
「うん」
「……本当に悪いと思ってんのか、お前」
「ごめんね。親友がこんなにどうしようもない奴で。……嫌いになっちゃった?」
わざとらしく、おどけたような声音で問う。それでもしないと、泣いてしまいそうだったから。
私だって、辛くないわけじゃない。大好きな親友と離れるのは、悲しくて悲しくてしょうがない。まだまだ一緒に馬鹿をやって、大人たちに怒られて、くだらないことで笑い合っていたかった。
男女間に友情などありえないとよく人は言うけれど、それならば私や綾之が抱いているこの感情は一体なんなのだろうか。友情以外の何物でもないじゃないか。
「お前のそういうところが、むかつく。でも――」
不機嫌そうに赤い目を細めながら、綾之は右手を私に向かって伸ばした。反射的にきゅっと目をつぶる。殴られる、そう思ったのだ。
そうやって衝撃に備えるも、一向に痛みはやってこない。
不思議に思い、そろりと瞼を開けると、苦笑する綾之の姿が見えた。そのまま、ぐしゃりと彼の右手が私の頭をかきまわした。
「どうしても嫌いにはなれないんだよなぁ」
その声が、あまりにも優しかったから。耐えられなかった。耐えきれなかった。
ぼろぼろと、大粒の涙が私の頬を滑り落ちていく。
――綾之とは、ずっと家族のように一緒にいた。もしかしたら、この先本当の家族になれたかもしれない。その可能性を、私は捨てるのだ。
いやだなぁ、さみしいなぁ。
選ばなかったのは私自身なのだから、悲しむ資格なんてないはずなのに。涙が止まらなかった。
「おいおい、泣くなよ親友。お前の泣き顔不細工なんだからさ」
「うっさいよ、ばぁか」
そう言いながら、へらりと笑う。涙腺は故障したままだったけど。
綾之は軽く私の頭を叩き、とん、と私の肩を押した。
「さよならだ、七巳。さよならだ、親友。――せいぜい必死に生き足掻け」
「さようなら、親友。どうか、姉さんのことをお願いね。――ごめんね、ありがとう」
そう言って背を向けると、どん、と勢いよく背中を叩かれた。
いつもならば痛いと文句を言うけれど、何故だかこの時ばかりは涙がこぼれた。それはきっと痛みではなく、もっと複雑な感傷で、声なき声で、がんばれよ、と言われた気がしたからだろう。
そうして私は金の少女に手を伸ばす。
全てを捨ててまで手にする価値があるのかどうかなんて、今は考えない。だって、親友がこの背を押してくれたのだから。もう迷ったりなんてするものか。
すっと伸ばした指先が、少女の肩に触れる。バチリ、と静電気のようなものが全身に走った。
そうして緩やかに、少女は振りかえってこう言った。
「 う そ つ き 」




