78.夢の世界でまた逢いましょう
白い部屋の壁に、子供が描き散らかしたかのような乱雑な絵が描かれていた。私はただ椅子に座ったまま、その絵をじっと見つめている。
所々にある黒と赤の色使いがどこか暴力的で、パッと見は乱暴そうな印象を受けるが、周りを取り囲む淡いパステルカラーの花々がどことなく優しげで、奇妙な調和を保っていた。
それを見て私は「ああ、これは『私』なんだな」とぼんやり思った。何故そう思ったのかは分からない。ただ、何となくそう感じたのだ。
そんなことを考えていると、部屋の隅から一匹の黒い大きな蛇が、のっそりと巨体を引きずりながらやってきた。その口には、白いペンキがついたローラーのような物が銜えられている。その奇妙な組み合わせが、何故だか微笑ましかった。
黒蛇は徐に壁画に近づくと、ベタリと端から順にその絵を白いペンキで塗りつぶしはじめた。
私はそれが何だかとても勿体ないことのように思えて、思わず蛇に声をかけた。
「ねぇ、なんで消しちゃうの?」
私がそう問うと、蛇はゆっくりと振り返り「お前には必要のないモノだからだ」と低い声で答えた。
――必要のないモノ。果たして、本当にその言葉は正しいのだろうか。
だって絵が消えていく度に、私の心は言いようのない感情で埋め尽くされる。苦しいような、辛いような、泣き出したくなるような、そんな気分に。
「やめて。消さないでよ……」
――それはきっと、私にとってはとても大事な物のはずだから。絶対に失ってはいけないと、心の中で誰かが叫ぶ。
ふらふらと立ち上がり、蛇を静止しようと両手を伸ばした瞬間、――バケツの水をぶちまけたかのように、白濁の濁った水がペンキの塗られた壁に向かって降りそそいだ。
ドロドロと溶けるように、白い塗料が水と一緒に床に落ちていく。
水しぶきがこちらにもかかり、思わず閉じた。その時まぶたの裏側に、金色の髪をした女性が浮かんだ。
「――×××××?」
気付いたらそう呟いていた。自分自身の言葉なのに、何を言ったのか理解が出来ない。
首を傾げながらも、降りそそいだ水のせいでびしょ濡れになり、憤慨したかのように尻尾を床に叩き付けている蛇に、私は近づいた。
ああ、そもそもこの黒蛇は一体何なのだろうか?
「あなたは誰?」
◆ ◆ ◆
――ピンポーンと、玄関のチャイムが鳴る音が聞こえる。
ハッと息をのみ、辺りを見渡す。白い部屋も、壁画も蛇も、何も見当たらない。
「白昼夢ってやつ? ……疲れてるのかな」
軽く深呼吸をして立ち上がる。何だったんだろう、今のは。
それに、なんだか大事なことを思い出しそうな気がしたんだけれど、それも気のせいだったのだろうか。
不思議に思ったが、深く考えるとまた気分が悪くなりそうだったので、取りあえず気にしないことにした。今は少し時間がない。
「ああ、早く玄関に行かなくちゃ」
遠くでガチャリと玄関の扉の開く音が聞こえる。
恐らくは、台所から出てこない私を見かねた姉が外に出て対応をしているのだろうが、あまり遅くなるとまた怒られる。
でも、と私は思う。
――私が遅れて行った方が、友人は嬉しいのではないだろうか?
そもそも、友人が私のことを迎えにくるようになったのは、決して私に会いたいから等という殊勝なものではなく、ただ単に『想い人』に会いたいという不純極まりない理由によるものだ。いわば私のことはついでである。
友人の心境を考えると、もう少し遅れて行ってもいいかな、とも思うのだが、もしかしたら余計なお世話なのかもしれない。
やれやれ、と肩を竦めながら、玄関へと急ぐ。
別に私は友人が姉に対し邪な気持ちを抱こうが気にしないが、こうも毎回当て馬のように扱われるのはそろそろ気が滅入る。
――あいつもさっさと素直になればいいのになぁ。
そんなことを思いながら、私は洗った皿を適当に片づけると、カバンを持って急いで玄関へと向かった。
◆ ◆ ◆
外に出ると、姉と友人――涼音綾之が仲良く談笑していた。心なしか、ピンク色のオーラがその場に溢れているような気がする。
思わず、歩みが止まる。……あの場に割って入るのは、毎朝のことながら気が重い。
出そうになったため息を何とか抑え込みながら、私は一歩前へと踏み出した。
「ごめん、遅くなって」
私が片手を上げながらそう言うと、友人は柔和な目をこちらに向けて穏やかに微笑んだ。
「おはよう、七巳」
「うん。おはよう、綾之ちゃん」
私がそう言ってへらりと笑うと、友人は一瞬剣呑な瞳をこちらに向けたが、すぐに先ほどの調子に戻り、姉の方に向き直った。
「七巳も来たことですし、そろそろ行きますね」
「ええ、行ってらっしゃい。妹をよろしくね」
姉がそう返し、小さく手を振ると、友人はほんのりと頬を赤らめて嬉しそうに笑った。
「はい。行ってきます、――涙さん。ほら、七巳。行くぞ」
「はいはい。じゃ、行ってきます、姉さん」
そう言って踵を返そうとすると、袖口を引っ張られるような感触がして、思わず立ち止まった。
「姉さん? どうかした?」
俯いたまま制服をつかんで動かない姉を不審に思いながらも、そう問いかける。すると姉はハッとした顔をして、手を離した。
「ごめんなさい、つい」
「いや、別にいいけど。……何かあったの?」
私がそう聞くと、姉は少し迷ったようなそぶりを見せると、ばつが悪そうに口を開いた。
「……何だか、このまま貴女が戻ってこないような、そんな気がして」
「何それ? 気のせいだよ気のせい。ちゃんと帰ってくるから心配しないでよ」
「本当に?」
「当たり前だよ。だって、私の帰る家はここなんだから」
私がそう言うと、姉はホッとしたような顔をして笑った。
ならいいの、と言いながら、姉は友人に会釈をしてゆったりとした足取りで家の中へと戻って行く。
何だか今日の姉は、いつにもまして様子がおかしかったけれど、もしかしたら怖い夢でも見たのかもしれない。『私が居なくなる夢』とか、そんな夢を。
そんなやり取りのあと、「じゃあ行こうか」と言ってこちらを見もせずに歩き出した友人に、私は小さくため息を吐きながらついていった。ああ、コーヒーが飲みたい気分だ。もちろんブラックのを。
互いに会話の無いまま、並木道を歩く。
無言のまま道を曲がり、私の家が見えなくなった頃、友人はくるりと私の方に振り返ると、先ほどまでの柔和な雰囲気とはうって変わって、憮然とした顔でこちらを睨み付けた。
――また始まったよ……。
私は軽くこめかみを押さえながら、友人――涼音綾之という男を見やる。
「ちょっと。被った猫が剥げてるけど?」
「うるさい。――それに、俺の名前は『あやの』じゃなくて『あやひさ』だっていつも言ってんだろーが、このド阿呆」
字面だけ見たら女と間違うような名前ではあるが、彼は一応立派な男性である。
それをコンプレックスと知りながら、煽るようなことをした私にも非はあるが、少しくらいのいじわるは許してほしい。
「だってそっちで呼んでもどうせ怒るじゃん。苗字も女の子っぽいからヤダ、って文句いうしさぁ」
「名前呼びのせいで、お前と俺が親しいって涙さんに勘違いされたらどうするんだよ」
「あ、あれ? 私達親しいよね? 友達だよね?!」
両手でわざとらしく泣きまねをし、「ひどい! 私とのことは遊びだったのね!」と声を上げると、後頭部をそこそこ強い力で叩かれた。痛い。
どう見てもいじめである。私はたぶん泣いていい。
私が非難の目で綾之を見つめると、彼はばつの悪そうな顔をして、目をそらした。
「……俺はお前のことを、その、親友だと思っているが、それとこれは話が別だ」
「うわ、ひっどいダブスタ……」
この男、綾之は誰が見ても分かるくらいに、私の姉――涙に恋をしている。
それ自体は別に個人の勝手だし、好きにすればいいと思うが、毎回こんな風に巻き込まれるのは私だって面倒だ。
そもそも、コイツのひどい猫かぶりのさまを見続けるのは、普段とのギャップがありすぎて、はっきり言って気持ち悪い。正直ドン引きである。
「ほんとうにさぁ、いい加減私の迎えを名目に姉さんに会いに来るの止めない? 毎朝家族の新婚夫婦みたいなシーンを見るのって、結構キツいんだけど」
「そ、そんな、新婚だなんて……!!」
綾之はそう言うと、恥ずかしそうに片手で顔を隠し、そわそわと体を揺らしている。予想外の反応すぎて、流石の私もビックリである。
私の友人がこんなに恋愛脳なわけがないっ……と、頬をひきつらせながらも、このままでは面倒なのでひとまず止めを刺すことにした。
「そもそも告白すらしてないんだから、新婚なんて夢のまた夢だろうけど」
「…………」
「痛い痛い! 無言で頭を掴むの止めて!!」
「世の中には言って良いことと、悪いことがある。それは明らかに後者だ」
「だからといって実力行使はやめよう? ねっ? ……ちょ、痛たた!!」
食い込んでる! 指先が食い込んでる!
涙目になりながら、なんとかその手を引きはがし、綾之を睨み付ける。まったく、私がこれ以上馬鹿になったらどうしてくれる。
彼とはもう八年くらいの付き合いになるが、向こうは恐らく私の性別を女だと認識していないと思う。いや、間違いなくしていない。
そもそも、私と綾之が親しくなるまでの過程で、何度か流血沙汰を挟んでいるという時点でお察しである。
まぁ、何だかんだで私もやられたら倍返しでやりかえすから、お互い様なんだろうけど。
……それにしても、姉と私への対応に差が有りすぎではないだろうか。顔だってほぼ同じなのに。胸囲的な意味で格差はあるけど。
そう少しだけ理不尽に思ったが、すぐに頭をふって否定する。
――まぁ、それも当然か。好きな人と、気の置けない友人とでは、見せる顔が違っても仕方がない。
私も別にこいつに優しくされたいなんて、まったく思っていないし。考えただけで鳥肌が立つ。今の微妙に殺伐とした距離感が私達にはお似合いだ。
……いや、それでも仲はいいんだけどね。うん。
「はぁぁ。姉さんのこと、そんなに好きなの」
「……初恋なんだよ、悪いか」
「悪くはないよ。むしろ見る目があるって褒めてやりたいくらい。けど、性格を偽ってまで好かれたいのかな、って思ってさ」
猫をかぶって、言動を偽って、本当の自分をひた隠しにする。それは、傍から見てるととてもじゃないが楽しそうには見えない。私だったらそんな面倒な真似はしたくない。
「ふん。あれはあれで俺の本心なんだよ。恋もできないお子様には、一生分かんないだろうけどな」
ふてぶてしくこちらをジト目で見ながら、綾之は言う。
まぁ、言ってることは別に間違っていないけど。まさにその通りなので、返す言葉がないし。
そんな不機嫌そうな横顔を見つめながら、私は彼と初めて会った時のことを、ぼんやりと思い出した。
小学校中学年の頃に私の所属するクラスにやってきた、季節外れの転校生。まわりの噂によると家庭の事情がどうの、などと言っていたが、その頃の私はその辺りの事情はとんと興味が無かった。正直、ちょっと頭が足りていなかったのかもしれない。
転校初日、いかにも「不機嫌です」と顔に書き、人を寄せ付けないオーラを纏う彼に私はたいして考えもせずに言ったのだ。
『なんでそんなにつまんなそうな顔してるの? 嫌なことでもあった?』
その後のことはあまりよく覚えていない。青痣をいくつも作り、姉にひどく怒られたことだけは何となく覚えているけど。
思慮の足りない私の言動が彼を怒らせたのであろう、ということは分かるが、何にせよ、ファーストコンタクトは最悪だった。
それから何を思ったのか、いや何も考えていなかったのか、私は綾之に構い続けた。懐かない野良猫のような彼が気に入ったのかもしれない。
あの頃の私は本当に怖いもの知らずで、純粋な子供だった。
気がつけば、彼とはいつも一緒に居たように思う。
斜に構えて、世間を馬鹿にして、時折暴力的で、その割には世渡り上手で、頭がビックリするくらい良くて、ほんのちょっとだけ寂しがり屋の男の子。気まぐれにちょっかいをかけているうちに、少しずつ親しくなっていった。その間にあった数度の流血沙汰には目をつぶることにする。
他にも友達は沢山いたけれど、私の起こす行動に文句を山ほど言いながらも、最後まで付き合ってくれるのは彼だけだった。
そのことが本当にうれしくて、うれしくて、私は彼のことを精一杯の想いをこめて「親友」と呼んだのだ。
それは紛れもなく友愛で、家族に抱くような親愛でもあった。
そんな彼が、私の姉を好きになった。そのことを彼から告げられた時、私が抱いたのは紛れもなく歓喜であったと思う。
大好きな姉と、大切な友人が結ばれる。なんてすばらしいことだろうか。
そう思ったからこそ、私は綾之を応援することにし、いまでもこうやって影から手を貸しているのだ。残念ながら効果はあんまりないけど。
……それにしても恋か。どうにもそういうものは、想像することはできるが、さっぱり理解ができない。
はっきり言って私は、愛だとか、恋だとか、その手の類には無縁の人生を送ってきた。いや、むしろわざと避けてきたのかもしれない。
何故だろう、と首を捻る。今までそんなこと疑問になんて思わなかったけれど、こうして気づいてしまうと余計に気になってくる。
よく分からないけれど、何となく拒否感があるのだ。
ああ、でもきっとそれは、その二つが『死に至る病』だからだろう。だってそのせいで×××さんは私の目の前で―-。
「誰かを深く愛するというのは、死に至る病と一緒だよ」
気が付けば、無意識のうちにそう口に出していた。自分が言ったことを反芻し、首をひねる。自分でもなんでそんなことを言ったのかわからない。
病? 何それ? 私は人魚姫か何かか? いやいや、そんなわけないだろうけど。
怪訝そうな私に、綾之は呆れたような目を向けた。
「なんだそれ」
「……なんだろう?」
私がそう返すと、彼はいつものおふざけだと思ったのか、私の頭を軽く小突いてきた。地味に痛い。今朝だけですでに3hitだぞいい加減にしろ。
でも、本当にどうしたんだろう。今日の私はなんだかおかしい。
「また変な夢でも見たんじゃないのか。お前、この前も勇者とか女神がどうのこうのって言ってただろ」
「そんなこと言ってた?」
まったく記憶にない。なんだそのファンタジーたっぷりな単語は。世界を救っちゃう系のRPGか何かか。
「ちなみに魔王役はお前だった」
「死亡フラグしかないじゃん、それ」
「そうだな。いざという時のために辞世の句は考えておけよ、魔王様」
「トラウマものの言葉を考えておくわ」
魔王なんて、将来勇者に淘汰される未来しか見えない。そんな役回りしか浮かばないんだけど。
――だが不思議なことに、何故だかその『魔王様』という呼び名がしっくりきた。
そんな風に呼ばれたことなんて一度もないのに、まるでいつもそう呼ばれていたかのように、よく馴染む。決して、悪い気分ではなかった。
「魔王って呼び名は、私よりも綾之ちゃんの方が似合うと思うけど」
「そうか。ひれ伏してもいいぞ」
そう言って、綾之はふふん、と小馬鹿にしたように笑った。
ちょっとイラっとしたので軽く蹴飛ばしたら、普通に避けられた。この野郎。
駅前に着いたら腹いせに「魔王様ぁ~」とか叫んでやろうかな、と思ったが、それはそれで私にもダメージがいくので断念する事にする。流石に一時のノリでプライドを投げ捨てるのはやめた方がいいだろう。
やれやれ、中学の頃だったら恥も臆面もなく出来たのだけれど。歳を重ねると世間体とかを気にしなくてはいけないし、色々と煩わしい。大人になるということは、こんなにもめんどくさい。
曰く、神様は人間を作る時、初めは黄金で作ろうとしたが、量が足りなくて泥を混ぜたそうだ。つまり人間は大きくなればなるほどに、泥の比率が増えていく。
その泥というのが、私が感じているこの煩わしさならば、そう感じるのは私が成長している証拠なのかもしれない。
そんなことをつらつらと考えながら、どうでもいいような話を続けていると、どこかで子猫が鳴くような声が聞こえた。
思わず立ち止まり、辺りを見渡す。
「どうした?」
「いや、どこかで猫が鳴いてるような気がして。……あ、いた」
薄暗い路地の奥に、赤毛の小さな猫を見つけた。蜂蜜を溶かしたような金の目が、しっかりと私のことを見つめている。
猫は「なぁん」と、ひと鳴きすると、踵を返してこちらを振り返り、まるでついてこいとでも言いたげに尻尾を振った。
私は誘われるかのように、ふらり、とその猫の後を追って足を踏み出した。
いや、――踏み出そうとしたつもりだった。
「どこへ行くつもりだ」
綾之は私の腕を掴み、眉を顰めながら強い口調で言った。
私はその場でたたらを踏み、綾之を見上げながら不思議そうに言葉を返した。
「だって、ほら。あそこに猫が」
私はそう言いながら、路地にいる赤毛の猫を指差した。猫は相変わらず、こちらを見つめて佇んでいる。
綾之は私の指先に沿って路地の奥を見つめ、険しい表情を浮かべた。その瞳が、困惑に揺れている。友人の珍しい表情に、私は少しだけ慌てた。
「えっ、なに? どうかしたの?」
「七巳」
綾之は真剣な顔をして私の名を呼んだ。
「俺には、何も見えない。――あの路地には、猫なんていないんだ」
「まさかそんな。変な冗談言わないでよ」
「本気で言ってるのか?」
「だってあんなに目立つ赤毛なのに、見えないわけないじゃん。綾之ちゃん、今日ちょっと変だよ?」
「――つっ、変なのはお前の方だろう!?」
綾之が声を荒げる。その剣幕に、私はびくりと肩を揺らした。まさか、怒られるとは思っていなかったのだ。
綾之は怯えた私の様子を見て、ハッと息を飲むと、「ごめん」と小さな声で謝った。
そんなやり取りをしているうちに、赤毛の猫はどこかに消えてしまった。
綾之に言わせてみれば、猫なんて最初からいなかったらしいが、私にはどうしてもそうは思えない。
神社の娘だというわりに、今まで一度も心霊現象に出くわしたことが無かったけど、もしかしたら今回のコレが初の未知との遭遇かもしれない。なんて、心の中で茶化すものの、内心は穏やかではなかった。
自分の見えている物が、他人には見えていない。
それは、――まるで世界が揺らぐかのような衝撃で、背筋が凍った。
呆然と立ちすくむ私を心配に思ったのか、綾之は「今日はもう帰った方がいい」と、帰宅を進めてきた。
「でも、学校が」
「学校には俺から連絡を入れておく。……涙さんにはメールしておくから、もうさっさと帰れ」
「連絡って、綾之はうちの生徒じゃないでしょ?」
「お前の担任とは話したことがあるから大丈夫だ。いいから帰れよ。……お前、ひどい顔色だぞ」
綾之はいかにも心配です、と言いたげに眉を下げた。いつもは心配なんてまったくしないくせに。そんなに私はひどい顔色をしているのだろうか。自分ではよく分からない。
「……分かった。そんなに言うなら帰るよ」
「ああ、今日はもう寝てろ」
何だかんだと面倒だし、小うるさいところもあるが、綾之は私にとって良い友人である。
放課後に夕飯を作りに寄ってやるから、と言い残し、綾之は駅に向かって歩いて行った。
時折降りかえってこちらを見ていたが、私が追い払うかの様な仕草を見せると、ため息を吐いてその場から去って行った。
綾之の背中を見送り、私はもう一度猫がいたはずの路地を見つめた。
帰る、と言ったけれど、やはり気になる。
綾之の気遣いを無駄にしているという罪悪感はある。それでも、何故か先に進まなくてはいけないような気がするのだ。見えない力に背を押されているかのような、ふわふわとした感覚。
――人ならざるモノの恐ろしさは、祖母からよく聞かされていた。
何も見えない自分には関係ないと聞き流していたけれど、それでもある程度の警戒心くらいは持っていたはずだ。普通であれば、「進んでみよう」だなんて考えるはずがない。けれど。
なぁん、と路地の奥から声が聞こえる。
その声に、奇妙な既視感を感じた。だから、私は。
「――行こう」
綾之や祖母が怒る顔が浮かんだけれど、生まれてしまった好奇心は、私には殺せそうもなかった。
――そうして、私は薄暗い路地に向かって足を踏み出したのだ。




