77.好き嫌いをしてはいけませんよ?
場所は変わり、神殿の奥の部屋に数人の男女が集まっていた。
その内の一人――魔王は描かれた魔法陣の中でこんこんと深い眠りについており、起きる様子は見うけられない。魔法陣の脇では、女神が両手を祈るように重ね、ぶつぶつと小さな声で呪文を唱え続けている。
そんな女神から少し離れた壁際で、二人の人物が小声で会話をしていた。トーリとユーグである。
「……あの、本当にコレ飲まなくちゃ駄目なの?」
そう言ってトーリは、ユーグが自分に向かって差し出しているカップを、嫌そうに見つめた。
そのカップの中には、何やら白く濁った液体が入っており、所々に黒い異物が浮かんでいる。どう好意的に見ても、とてもじゃないが美味しそうなものには見えない。
「はい、その、決まったことですし。どうぞ」
ユーグが複雑そうな表情を浮かべながら、ズイッと突き出すようにカップをトーリに押し付ける。その手は微かに震えていた。
トーリが仕方なくその奇妙な液体が入ったカップを受け取ると、ユーグはあからさまにほっとした顔をして、トーリから一歩後ろに下がった。
――コレを持っていたくないという気持ちは、痛いほどに分かる。そう思ったが、正直に言えばコレに対する忌避感はきっとトーリの方が上だったろう。
「ほらほら、もう時間がないのですよ? さっさと飲んでもらわなくては困りますわ」
そんなトーリの気持ちを知ってかしらずか、フランシスカが急かすように捲し立てた。
苛立って舌打ちしたい気持ちを抑えながらも、渋い顔をしてジッと手の中のカップを見つめる。
これを飲むことにより、術式が完成する。飲まないという選択肢は、もはやないのだ。
――できることなら、こんなもの飲みたくなんかない。
悩む時間があまり残されていないことは、トーリだって重々承知している。だが、それでも心の準備くらいはしたかった。
本当に他の方法はないのだろうか?
そう心の中で自問自答をするが、どう考えてもこの方法よりも確実な手段は考え付かない。考え付かないからこそ、やりきれないのだ。
トーリは絶望したかのような表情で、呻くように小さく叫んだ。
「なんで、なんで僕が、――女神の遺灰なんておぞましい物を飲まなくちゃいけないんだっ……!!」
――時は昨晩の話し合いにまで遡る。
「彼女がその術者に『夢』を見せられているというのなら、やはりこちらもその夢に干渉するより他に手はありません」
つまり魔王の夢の中に入り込んで、無理やりにでも叩き起こす。乱暴に言うとそういうことだ。
主要メンバーが集まった話し合いの中で、物理的に叩き起こす方法や、他の神々に協力を願うなど、様々な意見が出てきたが、結局の所、最後はそういった結論に収まった。
だが女神はそう言ったものの、他の面々が疑問に思ったのは『どうやってその夢に干渉するのか?』ということだった。
確かに解呪を試みるよりかは難易度が低そうだが、あと一日やそこらでその術式が組めるかどうかは、周りからの見立てとしては微妙なところだった。
話し合いに参加していた者達は、その点を不安に思ったが、女神とて何の策も考えずにそんな案を出すはずもなかった。
「――触媒に、私の聖遺物を使用しようと思います」
女神の言葉に、皆がハッと息をのんだ。
そう女神が発言するまで、誰もがその存在のことを忘れていたのだ。
上手く使えば奇跡を人為的に引き起こすことができる、神が地上に残した異物。その内の一つ『女神レイチェルの遺灰』が、神殿に安置してあることを――。
確かに女神の聖遺物であれば、魔王との親和性も高く、触媒として最適だろう。むしろ、今までそれを考え付かなかったほうがおかしいのだ。
言い訳をさせてもらえれば、先の『参拝』であのレーヴェンの王が手土産に持ってきた品物が、こんなにも早く役立つ時がくるなど、誰も予想していなかったのだろう。まさに不幸中の幸いである。
あのいけ好かないレーヴェンの王もたまには役に立つな、などと失礼なことを思いながら、トーリは女神を説明に目を向けた。
――干渉するための方法はとてもシンプルだった。
女神と魔王、そしてもう一人の三名で聖遺物を触媒にしてパスを繋ぎ、直接魔王の真相世界にまで無理やり潜り込むという、いささか乱暴な方法だ。
何人かが「それは魔王様に負担はかからないのか」と女神に問うたが、女神は「彼女であれば耐えきれます」と言い切り、それ以上の追及を許さなかった。
――だが、女神は嘘を吐いている。そう言い切れるだけの理由がトーリにはあった。
女神の言葉をユーグが代弁し、「耐えきれる」と言った瞬間、ヴォルフが女神がいる方向を見て、不満そうに目を細めたのだ。
あれも存外分かりやすい男である。恐らくは女神の「耐えきれる」という言葉が、根拠のない願望であるということを悟ったのだろう。
それでも、ヴォルフは異を唱えなかった。その気持ちは何となく予想がつく。
他に代案があるわけでもないし、何よりこれ以上議論を重ねる時間すら惜しい。たとえ多少のリスクがあろうとも、その方法が今できる『最善』だとヴォルフは察したのだろう。
――そして、何よりも重要なのが『誰が魔王の中に潜るのか』ということ。
女神はパスの中継地点としてこちらに留まり、このメンバーの中の誰かが、魔王の中に意識のみを飛ばす。その誰かの負担は何も聞かなくても察することができる。
もし適性が合わなければ、かつて女神を降ろした魔王のように、死にそうなほどの苦しみを味わうかもしれない。
だが、この場にいるメンバーは全員、魔王の為に命を投げ出す覚悟はできているはずだ。だれが選ばれようとも、何の問題もない。少なくとも、トーリはそう考えていた。
――もし名乗り出る者がいなければ、自分が立候補しよう。トーリはそう思っていたのだが、以外にも女神からの指名があったのだ。
「――トーリ。干渉する役目は貴方に任せてもいいでしょうか? 貴方の『目』なら、きっと彼女を見つけられる。それに貴方は、……認めたくありませんが、私のことを認識することができ、なおかつ彼女との関わりも深い。貴方が適任です」
そう言って、女神は深々と頭を下げた。
そんな女神の姿を見て、トーリは驚愕の表情を浮かべた。
何故、という言葉が頭をよぎる。目の前の光景が信じられなかった。
女神のこの『姿』は、この場にいる面々では、トーリにしか見ることができない。女神だってそれを知ってるはずだ。
それなのに、女神はトーリに向かって頭を垂れている。
「お願いします。私の頼みなど聞きたくもないでしょうが、それでも彼女の為なのです……!!」
きゅっと膝のあたりで両手を握りしめ、縋るような口調で女神は言う。その姿はあまりにも哀れを誘うさまで、とてもではないが『お偉い神様』になんて見えなかった。
――なんてずるい女だと、トーリは思う。断ることはないと知りながら、この女は白々しく頭を下げているのだ。
彼女に関する事柄で、トーリが首を横に振るなんて思ってもいないくせに。
だが、それでも。――女神の想いだけは、きちんとトーリに伝わった。
「いいよ。その役目、僕が引き受けた」
いつものトーリであれば、その言葉を無視し、ユーグが言い直すまで返答はしないのだが、この時ばかりはちゃんと言葉を返した。
ユーグが驚いたような顔をして、トーリを見やる。
無理もない。今までのトーリの態度を知っていれば当然の反応だ。
別にトーリは女神に気を許したわけでもないし、今後も好感を持てるとは露ほども思っていない。
――ただ、誠意には誠意で返すべきだと思ったから。いくら互いにいがみ合っているとはいえ、それくらいの礼儀は弁えるべきだ。
トーリがそう答えると、女神はほっとしたように微笑んで、ゆるりとお辞儀をした。
「それで、魔力のパスを繋ぐって、具体的にどうやるのかな? 魔法陣の中にでも入ればいいの?」
魔王はともかく、女神と一時的にとはいえ繋がりができてしまうのは少しばかり嫌悪感があるが、それは諦めるしかない。そう思っていたのだが――。
「私の聖遺物を触媒に使う。――そう言いましたよね」
女神の問いに、トーリは頷いた。
いや、頷いたのはいいのだが、正直トーリは触媒という物をあまり理解していない。魔法陣の真ん中に置かれるもの? くらいにしか理解していなかった。まぁ、魔術を生業にしていない者の認識など、その程度だろう。
――だからこそ、女神の次の言葉に度肝を抜かれたのだ。
「彼女と、トーリ。貴方達には私の一部を体内に取り込んでもらうことになります」
その言葉を聞いていたユーグが、強張った表情で「ひぇっ」っと悲鳴を上げる。……女神の言葉の意味を悟ったのだろう。
女神の言葉を聞くことができない面々は、そんなユーグを不思議そうに見やりながらも、首を傾げる。
「ユーグ。女神様は何をおっしゃられたんだ?」
ヴォルフがユーグにそう問いかける。
だがユーグはおろおろと女神のいる方を見つめながら、話していいものかと答えあぐねていた。
そんな彼らを横目に、トーリはぞわりと全身に鳥肌がたつのを感じた。
――聖遺物を、体内に取り込む。それはつまり。
トーリは頬を引き攣らせながら、呆然としたように呟いた。
「僕に、アンタの死体を食べろと?」
女神はひどく苦々しげな表情を浮かべ、ゆっくりと頷いた。
「……私だって、本来であればこのような手段はとりたくありません」
女神曰く、魔法陣を組み、正式な手順を組んで繋がりを作るにはもう時間が無いとのことだった。
それ故に聖遺物を使用し、術式を簡略化させ強制的に強固なパスを繋げるしかない、ということらしい。
それから何だかんだと暫く説明を受けたが、はっきり言って、頭で理解しても心が付いていかない。
なまじ協力すると言ってしまった手前、今更拒否することはできないのだが、それでもやはり受け入れがたかった。
――そして、一晩。魔法陣などの準備期間を経て、今に至る。
愛する人を守るためには、この女神の遺灰を溶いたおぞましい液体を飲まねばならない。そのことは重々承知している。だが、踏ん切りがつかないのだ。
手に持っているだけで感じる、奇妙な威圧感。いくらこの女神の神格が低いとはいえ、それでも聖遺物は普通の呪具なんて及びもつかない程の力を秘めている。
――これを飲み干して、己が体内が女神の力に侵される。
考えただけでも吐き気がした。
「ほら、我儘を言っていないで早く飲め。それとも魔王様のように、口に手を突っ込まれて無理やり流し込まれたいのか?」
ヴォルフが急かすように言う。
「……分かってるよ」
魔王がこの液体を口の中に流し込まれている様子は見ていて少し可哀想だったな、とトーリはぼんやり思った。
自分の意思で飲むことができないのだから仕方ないのかもしれないが、何のためらいもなくあの小さな口に手を突っ込むなんて、ヴォルフはどうかしていると思う。
彼女はああ見えて繊細なのだから、もう少し優しく扱って欲しいものだ。
そうしている内に女神の奏でる呪文が途切れ、女神がこちらをゆっくりと見つめた。……どうやら、もう躊躇っている暇はないようだ。
ギリっ、っと奥歯を噛みしめた後、顔を上に向けて大きく口を開く。鼻を片手でつまみ、口に向かって一気にカップを傾けた。
つん、と湿った土のような芳香が鼻の奥を通り過ぎる。何とも言えない力の奔流が、のどを通り過ぎ胃の中に流れ込むのを感じた。
「――ぷはぁっ!! うわ、まっず!! ……あ、れ?」
飲みきった瞬間、ぐらりと視界が揺れた。
まるで純度の高い酒を一気飲みしたかのようだ、と思ったのもつかぬ間、トーリの意識は深く沈んでいった。




