76.冷静と情熱と価値観と道徳とかそんなのの間
アンリが再び眠りについたその後、フランシスカが女神を呼ぶために慌ただしく執務室から去っていった。
その背を見送ったヴォルフは、苦しげに咳きこみながら少量の血を吐き、その場にしゃがみ込んでしまった。
ぜぇぜぇと荒い息を吐きながら、ヴォルフは眉を顰めた。
――あの術者のことを深く探ったあたりから、胸のむかつきが収まらない。最初は壁に叩きつけられたせいだと思っていたが、これは明らかにおかしい。
そう思い、手の中に吐き出した血を見て、ヴォルフはその原因を何となく悟った。
普通の血の紅とは違う、どす黒く濁った黒色。空気に反応して変色したにしては、あまりにも混沌とした色をしている。
これはどう考えても外部からの干渉によるものだ。
「……それ、魔力汚染じゃないか。大丈夫なのか?」
ヴォルフの背後から、心配そうにトーリが声を掛けた。
――魔力汚染。以前に聞いたことがある言葉だった。確か一部の魔族が有していた、瘴気のようなものが原因だったはずだ。
つまるところ、人にとっては毒物と一緒である。体調がおかしくなるのも納得だった。
だがそれにしても、とヴォルフは思う。
術者に干渉されたのは、弾き飛ばされたあの一度だけだ。果たしてあの程度の接触でここまで影響を受けるものなのだろうか?
同じように干渉を受けたトーリやフランシスカは、魔族の血を引いているが故に、瘴気に耐性があったのだろうか。
そして体が丈夫ではないヴォルフはその影響が極端に出てしまった、ということなのだろうか。だがそうだとしても、症状が重すぎる気がする。
けほっ、と小さく咳をする。
しゃがみ込んだ当初よりかはだいぶ落ち着いてはきているが、それでも胃の辺りがまだじくじくと痛む。
トーリはヴォルフの背を労わるように擦りながら、深刻そうな顔をして言った。
「お前が今回の件を察知できなかった理由が、今分かったよ」
「……何だって?」
「なんてことはない。ただの防衛本能だと思う。――お前のその『超直感』は、対象の真理を覗く物だ。強い穢れの元を深く探れば、その分だけ相手の魔力に侵される。だからこそ、自分の力量を超える存在に対しては無意識のうちに能力を閉じていたんだろうね」
つまりそれは、ヴォルフのもつ力が術者のそれに押し負けたということだろう。それ自体については特に思う事はない。単純にヴォルフの方が弱かった。それだけのことだ。
だが少し深く探るだけで、身体を汚染するほどの穢れを持つ存在が魔王の中に潜んでいる。そう思うとゾッとした。
――深淵をのぞく時、深淵もまたこちらをのぞいている。
化け物に深く関わると、同じ化物に成り果てるか、もしくは命を落とす事になる。魔王の世界には、そういった格言があるらしい。そんなことを、何故か今思い出した。
「今回はもうその力は使わない方がいいよ。今はまだそれだけで済んでいるけど、これ以上深く探ると、それこそ命を落としかねない」
それは、忠告であり、助言でもあった。トーリ自身、ヴォルフのことを心配しての言葉だったのだろう。
だがその厚意に対し、ヴォルフはゆるりと首を横に振った。
「それは約束できない」
この賭けの結末がどう転ぶにせよ、魔王が時間内に起きないことにはヴォルフ達の命はない。それならば、この期に及んで命を惜しむのは悪手でしかないだろう。
命をチップに賭けをするというのは、つまりそういう覚悟を決めなくてはいけないということだ。自分可愛さにやるべきことをしないなんて、ヴォルフの矜持が許さない。
「……お前にもし何かあったら、この人は泣くよ」
「それがどうした」
王を生かすために臣下が犠牲になるなんて、別に当たり前のことだろう。その程度のことで狼狽えられては、後々苦労をすることになる。
そう当たり前のように言い放ったヴォルフを、トーリは呆れたような目で見つめた。
「ヴォルフのそういうところ、僕はあまり感心しないけど」
「俺から言わせてもらえば、お前は少し感情的すぎるがな」
別に普段は仲が悪いわけではないが、こういう細かい部分では馬が合わない。
ヴォルフにとって、彼女という存在は王であり、自身の所有者である。
故に優先順位は彼女の命――というよりも今回の場合はこの世界への残留になるわけだが、それを一番に考えるのは当然のことである。
その過程で何らかの犠牲がでて、魔王が悲しむことになったとしても、それは仕方がないことである。
トーリとて、ヴォルフが言っていることの理屈は分かっているはずだ。
だがヴォルフがどういう考えを持っていようとも、彼はいつだって魔王の気持ちを最優先に行動する。
一概にそれが悪いとは言わないが、政務を司る者としてはその考えを肯定することはできない。
飴と鞭、というわけではない。ただ単にヴォルフは公私の区別は完璧につけるべきだと思っているだけだ。
「もしもそういう事態になったならば、お前が慰めてやればいいだろう? それにあの方は強い人だから、きっとすぐに立ち直れる」
「……お前達が思っているほど、あの人は強くないぞ」
トーリはそう言って、不満げにヴォルフを睨みつけた。
彼が言った『お前達』という言葉に含まれているのは、一体誰なのだろうか。
いや、きっと恐らくはこの国の住人のほぼ全てを指すのだろう。
それにトーリに言われずとも、そんなことはヴォルフとて把握はしている。
「だが、強くあろうとはしてくれている。本人が『そう思われたい』と望んでいるのだから、騙されてやるのが優しさというものだろう」
以前にフランシスカと似たような話をしたが、その際に「お兄様は『優しさ』をはき違えています」と言われたことがある。
別にヴォルフとて、必要に駆られれば彼らの言う『優しい態度』がとれないわけではない。
ただヴォルフとしては、トーリのように甘やかし、ユーグのように魔王の全てを肯定するような『優しさ』は、魔王に対してはあまり有益ではないと考えているだけだ。
今の魔王に必要なのは甘えを断ち切る厳しさであり、できれば逃げ道は用意しない方が良い。そう考えている。
そもそも、そういった甘やかしを含んだ態度はヴォルフには向いていないし、魔王もヴォルフにそんんな態度をとられたいとは思っていないだろう。
周りからは殺伐としているように見えているのかもしれないが、ヴォルフと魔王の関係は、今の形が一番互いにとって心地よい距離なのだ。
「ま、いいけどね、別に」
そう言ってトーリは視線を逸らした。これ以上の議論は不毛だと悟ったのかもしれない。
あの術者は賭けの猶予を三日と定めた。
恐らくは今日を含めて三日、しかも三日目の時間の区切りを定めていなかったので、向こうの気分次第では二日目の夜が明けたらその場で終了という可能性もなくはない。
そう考えると、実質の猶予はおよそ40時間前後。
……弱音を吐くつもりはないが、それでも厳しい戦いになるかもしれない。そう思い、ヴォルフは深いため息をついた。
「本当にあのお方はなんでこう、厄介な連中にばかり目をつけられるのか……」
「確かに。ほんっと、鬱陶しい奴らばかりだよね」
ヴォルフの独り言のような呟きに、トーリが同意するかのように、もっともらしく頷いた。
そんなトーリを、ヴォルフは胡乱気な瞳で見つめた。
果たしてトーリには、自分がその『厄介な連中』の一人であるという自覚があるのだろうか。
いや、恐らくは自覚済みなのだろうけれど、こうも飄々とした態度をとられては今更指摘もしにくい。
そういうヴォルフはどうなのかというと、確かに好意のベクトルは違うが、自分自身も少々変質的な感情を魔王に向けていることは自覚していた。
――だが、それでもトーリほどひどくはないだろうと高をくくっていた。
一方、トーリもヴォルフに対し、同じようなこと思っていたとは、今のヴォルフには知りようもなかった。まぁ、つまるところ団栗の背比べである。
「そろそろ呼びに行った連中も戻ってくるみたいだし、覚悟を決めようか」
「……そうだな」
ヴォルフの心の中に一抹の不安がよぎる。
――もしも魔王自身が『目覚めたくない』と願ってしまったら、どうなる?
ヴォルフは魔王の事を信じているが、それでもその可能性が無いわけではない。
ヴォルフの知る魔王は、責任感もあるし、真っ当な倫理観を持ち合わせている。
そんな彼女がこの国を斬り捨てる様なことを望むとは到底思わないが、それでも元の世界に残してきた家族のことを考えると、揺らぐことはないとは決して言えない。
それらを天秤にかけた時、無意識に家族の方に傾いてしまえば、こちらの分が悪くなることは確実だ。
それでも自分達の方を『選んでほしい』と願うのは、果たして傲慢なことなのだろうか?
ヴォルフとて、魔王と妹のどちらかを選べと言われたら、自身に与えられた立場を鑑みて魔王を選ぶが、土壇場で躊躇わないとは言い切れない。
魔王とはいえ、所詮は人間だ。それを、まるで神様のように揺らがずにいてほしいと願うのは求めすぎというものだろう。
そこまで考え、ヴォルフは小さく首を振った。
――傲慢でもエゴでも構わない。今さら何をゴチャゴチャと考えようとも、ヴォルフ達の命運は魔王の目覚めにかかっている。
……結局のところ、彼女の選択と女神の手腕に縋るより他にないのだ。
その後、ガルシアや魔術に明るい者達をくわえて一晩かけて行われた話し合いの終盤で、女神がとんでもない発案をして場が混乱することになるのを、今の彼等は知る由もなかった。




