75.夢の世界でまた会いましょう
――胎児のように膝を抱えて丸くなり、ふわふわとした意識の狭間を漂う。まるで、ぬるま湯に浸かっている時のような安心感がそこにはあった。
誰かの手が、私の頭に触れる。慈しむかのように優しい手つきでさらさらと髪を弄んだあと、そっと壊れ物を触るかのように私の頬に触れた。その手はひんやりと冷たくて、どこか心地よかった。
その誰かは言う。もう目覚めなくていい。辛いことも、苦しいこともすべて忘れてしまえと。切々と、訴えるように語りかけている。
その声が何故だかひどく懐かしくて、なんだか泣きたいような気持ちになった。
何か大切なことを忘れているような気もするけれど、そんな思いはぼんやりとした思考の中に沈んでしまう。
――このまま流れに身を任せてしまおう。起きる必要なんて、ないじゃないか。
そう思ってしまうくらい、ここは居心地が良かった。
だけれど、――名前を呼ばれた気がしたのだ。
聞いたことがあるような、そうでもないような、若い男の人の声。眠かったから無視してしまおうと思ったけれど、その声の主があまりにも必死だったから。
だから私は、――目を開けたのだ。
◆ ◆ ◆
――目を開けると、自分にそっくりな顔が、逆さまに私を覗き込んでいた。
ひゅっと、呼吸が詰まる。
いきなりのことで、寝起きの頭ではまともな判断ができない。だが、間違いなく私はこの時恐怖を感じていた。
さらり、と相手の垂れ下がった髪が私の頬を撫ぜる。そのこそばゆい感覚に、私はひくり、口の端をひきつらせた。……あ、あれ、夢じゃ、ない?
「――っうわぁ!?」
その事実に、ぶわっと体中の汗腺が開き、思わず悲鳴を上げてベッドから転がるようにして逃げ出す。当たり前だが、勢いが良すぎて落下した。ドシン、と強かに打ち付けた腰が痛い。
ぼんやりとしていた寝起きの思考が、痛みによって急激に覚醒する。
――ああもう、なんで朝からこんな目に!!
痛みと怒りにふるふると震えながら、私は落下の原因となった人物を涙目で睨み付けた。
「姉さん!! 起こすならもっと普通に起こしてよ!!」
「私はこれから起こそうとしたんだけれど……。貴女が勝手に驚いて落ちたのに、そんなこと言われても困るわ」
そうして私の姉――七巳 涙は呆れたようにそう言った。
「そうかもしれないけどさぁ、あんなふうに覗き込む必要なんてないじゃん」
ドッペルゲンガーか何かと思った。心臓に悪いにも程がある。
実家が神仏関係だからって、ホラーが得意だと思わないでいただきたい。霊感とかはまったくないから、そういう展開には慣れていないのだ。
「だって貴女、年々私に似てくるんだもの。ちょっと気になるじゃない」
姉の言うとおり、七つ上の姉と私はよく似ている。まぁ、姉妹なんだから当然なのだろうけど。
覚醒していない寝ぼけた頭では、ぱっと見で自分の顔だと見間違えてもおかしくはないが、それはそれで複雑な気分だ。歳の差は結構あるのに、あまり容姿に差異がないし。
姉が童顔なのも原因の一つだが、同じ血を引いている自分も、七年後も同じ顔なのかと思うと面白みがない上に、このままだと姉のように成人を超えても補導される可能性が高いということだ。それは流石に恥ずかしいなぁ……。
それにしても、高校生にもなってベッドから転がり落ちるという失態は、年頃の女の子には受入れがたい。しかも腰から落ちるだなんて。
こんなこと、親友にばれたら指を指して笑われるだろう。想像するだけで胃がキリキリする。
苦い顔をしている私の頭を、軽くぽんぽんと叩きながら、姉は言った。
「はやく学校に行く準備をしないと、お友達が迎えがきてしまうわよ?」
迎え、という言葉に一瞬首を傾げたが、すぐにその理由を思い出した。
……ああいけない、やっぱりまだ寝ぼけている。
ちらり、とベッドの脇にある時計を見る。あと四十分もすれば、姉の言うとおり親友が家のチャイムを鳴らすことだろう。
別に約束をしているわけではないし、何というか親友の目的は私じゃないので、そこまで気に病む必要はないのだけれど。
「迎えというか、あれはむしろ姉さんに会いにきて……いや、なんでもない」
これは私が伝えるべき事柄ではないだろう。下手に拗らせて馬に蹴られるのはごめんだ。
言いよどむ私を見て、姉は怪訝そうな顔をしたが、大したことではないと判断したのか、すぐに気を取り直したように言った。
「まぁいいけど、朝ご飯はどうする? たまには私がつくろうか?」
「……えぇ、勘弁してよ。学校に行けなくなっちゃう」
私がそう言って大げさに首を振って拒否すると、姉は不満そうに口を尖らせた。
……善意で申し出てくれているのは分かるが、彼女の料理の腕ははっきり言って最低だ。一歩間違えば救急車が必要になってくる。いや、冗談ではなく本気で。
曰く、メシマズには大きく分けて三つの種類があるという。
一、不器用。二、味音痴。三、いい加減。
姉はその三つの内、どれにも当てはまらない。手先は器用だし、美味しいものを美味しいと判断できる感性もある。それに加え、私なんかよりもはるかに効率的に物事をこなしてみせる繊細さもある。
それなのに不味い。レシピ通りに作っても不味い。なぜかレトルトですら不味い。ぶっちゃけ呪われてんじゃないの?と聞きたくなるくらいには不味い。見た目は完璧なのに。まさに死の罠としか言いようがない。
だが当の本人は料理すること自体は嫌いではないようで、たまにお惣菜に自分の手料理をさっと混ぜたりしている。そのせいで私は何度か病院のお世話になっているのだが。
前に病院食って結構美味しいよね、と姉に言ったら泣かれた。いや、泣きたいのはこっちだ。
そんな経緯もあって、残念ながらそんなものを朝から食す勇気は持ち合わせていない。
未だ不満そうにしている姉を、着替えるから、と言って部屋から追い出す。
姉はしぶしぶと扉に手をかけながら、ふと思い出したといった風に、振り向いて私に言った。
「そう言えば、寝言で『レイチェル』って名前を言ってたけれど、新しいお友達? 外国の子かしら」
私はその問いに、不思議そうに首を傾げながら答えた。
「――誰それ?」
◆ ◆ ◆
身支度を整え、朝ご飯を手早く用意し、カバンに教科書を詰める。まぁ、ほとんど置き勉しているので中身はスッカスカだけど。
普通の高校生なんてみんなそんなもんだろう。宿題は自力で片づけているだけ私はマシな方だ。なお、正解率はお察しである。
さて、朝ご飯といってもマーガリンを塗ったパンだけなのだが、時間の余裕がない朝に凝った料理なんて私ができるわけもなく。それに、私も姉ほどではないが、料理が得意ではないし。
昔は口に入れるのも戸惑われるレベルだったが、命に係わる事柄だったので必死に練習した。それでも中の下くらいの腕前にしかならなかったけど。……ま、まぁ食えるだけマシなのかもしれない。
――ああ、あと二十分もすれば迎えがきてしまう。ちょっと急がなければ。
そんなことをぼんやりと思いながら、トーストを口に詰め込み、牛乳を一気に飲み干す。
「ちょっと。行儀が悪いわよ」
姉の言葉に、小さく聞こえないようにため息を吐く。
……確かにちょっとアレだったかもしれないけど、別に誰が見ているわけでもないだろうに。家の中くらい気を抜いてもいいじゃん。外では気を付けてるし。
そう思わなくもなかったが、そう言い返すと、それこそお説教が始まってしまい遅刻しかねないので、私は適当に反省したふりをし、頭を下げた。
「ごめん。次からは気を付けるね」
「もう、いつもそう言って口ばっかりなんだから」
そう言いつつも姉は少しだけ不満そうだったが、どうやら今回は見逃してくれるらしい。
ほっと胸を撫で下ろしつつも、私は皿を洗う為に台所へ向かった。
台所に入り、はぁ、と肩を落としながら、蛇口のレバーをあげた。
冬場の朝の水は肌を切り裂くような冷たさで、とてもじゃないが触りたくない。
温水になるまで待とうと考えながら、出しっぱなしの水を何となしに眺める。
「反発したいわけじゃないけどさぁ、もうちょっとゆるくてもいいんじゃないかな……」
水を流す音にまぎれさせ、そう小さく呟いた。
幼い頃に両親を事故で亡くしているためか、姉は私に対し少し口うるさい。
滅多に帰ってこない豪気な祖母に変わり、細々とした世話を焼いてくれたのは、紛れもなく姉さんだ。
恐らくは私が外で恥をかかないように、気を使って口を出してくれているのだろうが、高校生にもなってくると段々それが億劫になってくる。
反抗期というわけではないけれど、なかなかその辺りに折り合いが付けられない。
もう子供じゃないのに、と思う気持ちと、世話を掛けているという引け目。
両親が亡くなった当時、中学生だった姉が、どんな思いで私の世話を焼いていたのかは分からない。
でも、普通の子供よりもやんちゃだった私の面倒をみるのは、きっと大変だっただろう。
もちろんそれには感謝しているし、それと同じくらい、姉の時間を奪ってきたという罪悪感もある。
本人はそんなに気にしてなさそうだけど、そういった引け目もあり、私は姉に強く出れないのだ。手料理だけは何を言われても絶対食べたくないけど。
「……あれ?」
そこまで考えたところで、どうしようもない違和感が私を襲った。
――違う。
漠然と強くそう思うものの、それが何かが分からない。
何かが間違っていることは確実なのに、全く見当がつかないのだ。まるで、大がかりな茶番に付き合わされているかのような不快感。
そのせいなのか、朝食を食べたばかりの胃の中が気持ち悪い。何なんだ、いったい。
心の中で悪態をつきながらも、気分が悪くて思わずその場にしゃがみ込む。ああ、吐きそうだ。
ぐらぐらと視界が揺れ、警鐘を奏でるように、ズキズキと頭が痛み出す。こんな風に頭が痛むのは、初めてだった。
……でも、――この痛みを、私は知っている?
痛みに翻弄されながらも、どうしようもない既視感に苛まれる。
ああ、そうだ。やっと分かった。私はこの頭痛のせいで×××××――。
そう思った刹那、私の視界は暗闇によって刈り取られた。
◆ ◆ ◆
光が一切差し込まない暗闇の中で、黒い狩衣を着た男が一人座り込んでいる。
その男の瞳だけが、赤く輝いていた。
その膝には件の魔王と呼ばれている少女が穏やかに寝息を立てており、警戒している様子はまったく見受けられない。
「……まったく。強情なやつめ」
男は柔らかに微笑みながら、少女の頭を撫でた。まるで壊れ物を触るかのようにそっと、大切そうに。
「彼方と此方。どちらの方が大切かなど、もう分かりきっているだろうに」
そう言って男は、夢へ惑わすための術式を再度紡ぐ。血生臭い事など何も知らなかった頃の、優しい夢を見れるように願いを込めて。
失ってしまった物と、新しく得た物。それを天秤にかけるような真似をさせれば、この優しい少女は心を痛めることだろう。
だからこそ、全て忘れてしまえばいいと、男は思う。どうせこの世界に留まったところで、あの醜悪な獣のお遊びに巻き込まれるだけだ。
そんなことでむざむざ命を落とすくらいならば、何もかもをなかったことにして、自分の手の中に閉じ込めるほうがずっとマシだろう。
だが、男の庇護を受ければ、きっと人の理からは外れてしまう。そうなればたとえ家族の元へ戻ったとしても、長くは共にいられないはずだ。
歳をとらない『人間』なんて、どこにもいないのだから
――そうだとしても、二度と会えないよりはいいだろう。
そう思い、男は嘆息をもらした。
男は少女の生家――七巳家に縁深い者だ。
男は知っている。少女がいなくなったという報を受けて、少女の縁者達がどれほど嘆き悲しんだかを。
それを哀れに思うのと同時に、男は許せなかった。
――アレは自分のものなのに、と、腸が煮えくり返るような怒りが抑えられない。
大切なものを横合いから掠め取られるような真似をされて、男が黙っているなどありえない。
元より、男の矜持は山よりも高い。
そんな男が、お気に入りを異界の格下の神なんぞに良いようにされて、ただで済ますわけがなかったのだ。
少女に繋がっている縁をたどり、精神体のみをこちらに飛ばしたが、少々具現化まで予想外に時間がかかってしまった。
本来であれば、まだ時期尚早であったが、そうも言ってられない事態が発生したのだ。
男の現世への干渉が強くなる度に、少女にかけられた枷が外れていく。男が少女にかけたいくつかの制限。それは、自身の名前を言わないことであった。
人という生き物は、名乗り合うことによって縁を繋いでいく。
この世界の住民が少女の真名を知らないということは、少女に繋がる縁も薄いということだ。
繋がっている縁が深ければ深いほど、引き離された時、魂が負う傷は深くなる。それを考えると、あの女神の罪深さは言うまでもないだろう。
あのトーリという猫が聞いた時はまだこちらの干渉力が勝っていたが、今は違う。
今ならば、あのレイチェルという女神であれば少女の名を聞き取ることができるだろう。それくらいに、男の強制力は弱ってしまっている。そうなってしまえば、少々こちらの分が悪い。
「ふん。――それに加え『神喰の巫女』か。なかなか業が深い」
あの力なき女神からは、己が力とは別に歪んだ蛇の神気を感じた。
つまりはそういうことだろう。蛇を司る男にとっては、とんと相性が悪い。
自力の差を考えれば、その程度は男にとっては些細なことであった。
「まぁ、好きに仕掛けてくればいい。――どうせ最後に選ばれるのは、此方だからな」
そう言って、男――祟りを司る蛇神は静かに笑った。




