74.賭けをしようか。命懸けのね
トーリが彼女の名前――『ナナミ』と口に出した瞬間、背中の重圧が、ふっと軽くなった。
――ああ、やっとまともに息ができる。
体が軽くなったおかげか、大分息がしやすくなった。だが、どうして術者はいきなり重圧を解いたりしたのだろうか。
トーリはゆっくりを顔をあげ、術者のほうを見た。
「ぐっ……!! まだ、完全とはいかぬか」
術者は片手で右目を覆うように押さえ、忌々しいものを見るかのようにトーリを睨みつけながら、吐き捨てるように言った。
「――ふん。不完全な真名とはいえ、意識を浅瀬にまで呼び起こすには十分か。あの泥棒猫に知られる前にと急いたせいで、術のかかりが甘かったのもあるだろうが……。ああ、くそ。忌々しい」
術者は苦しげに息を吐き出すと、ふらふらとソファーに腰かけた。
その顔色は青く、偏頭痛をおこしていた時の魔王の様子によく似ていた。
ぼんやりとした思考をまとめながら、トーリは思う。
――『真名』それは『ナナミ』という彼女の名のことだろうか。
あの人が頑なに口にしようとしなかった、本名。それがこんな効果を持つだなんて、トーリは全く知らなかった。
運がいいというよりも、この術者はトーリが彼女の名前を知っていることを分かっていたから、あそこまで露骨な妨害をしてきたのだろう。
だが、トーリは同時に疑問に思っていたのだ。
――何故、妨害だけで済んだのか?
この術者は、きっとトーリたちのことを、羽虫程度の存在としか認識していないだろう。もしくは、体の良いおもちゃくらいにしか思っていないに違いない。
彼、もしくは彼女の力量であれば、その気になればトーリ達の命を刈り取ることくらい、ひどく簡単だったはずだ。
それをしない理由、いや、できなかった理由がある。
「魔王様は、まだ完全に乗っ取られてしまったわけではないのだな……」
トーリの思考と同調するように、ヴォルフがぽつりと呟くように言った。
この術者が一番の邪魔者であるトーリを殺さないのも、手加減をしたのも、全て――術者の中で魔王が抵抗をしているからだ。
その事実に、トーリはひどく安堵を覚えた。
――まだ大丈夫。まだ、何とかなる。
少なくとも、手遅れなんかじゃない。それが分かっただけでも僥倖だろう。
「ああ腹立たしい。理解に苦しむぞ。貴様らが『魔王』と崇めるこの娘が大切だというのであれば、我の手に委ねるのが一番幸せだろうに」
そんな世迷言にしか聞こえない台詞を、術者は不満気に言った。
「何を、言っているんだか、分からないな」
呼吸を整えながらトーリは立ち上がり、術者をしっかりと見つめる。
――この術者に委ねるのが、あの人にとって幸せだと? そんなこと、根拠もないのに信じられるわけがない。
そんなトーリの言葉に術者は眉を顰めると、ギシッとソファーに深く座り直し、見下すような目を向けた。
「そうさなぁ。貴様らはまだ知らないからな」
「知らない……? 私達が、何を知らないというのです?」
フランシスカが怪訝そうに術者に問う。
術者は少しだけ不満そうな顔をすると、面倒だという感情を隠しもせずに口を開いた。
「ベヒモスとやらが戻ってきたら聞けばいい。恐らくはそろそろ頃合いだろう。――まったく。向かう先が煉獄であるのならば、行き着く前に手折ってやるのも優しさだというのに」
言っている意味は相変わらずよく分からない。やりきれなさを感じているような、心配気な表情。
その感情は明らかに魔王に対して向けられており、悪意を読み取ることはできなかった。
そしてその体に、寄り添うようにゆるく巻きついている黒い蛇の影。その影は確かに禍々しいけれど、どこか優しげに見えた。
それを見て、トーリは悟った。
――ああ、この術者は確かに歪んでいるけれど、身勝手だけれど、価値観も全く違うけれど、それでも彼女を傷つけようとは考えていない。そんな確信にも似た思いを抱いた。
根拠はない。トーリがそう思っただけで、実際は違うのかもしれない。
だがもしもこの術者が本気で彼女のことを大切に思っているならば、――どう転んでも彼女の身の安全だけは保障される。
もちろん手放しで信じるつもりは毛頭ないが、最悪の結末――魔王の死からは逃れられる可能性は高い。
それにしても術者は、彼女をはたして何から守ろうとしているのか。
ベヒモスに聞けばいいとは言われたが、あの化物が素直に話すとは思えない。はぐらかされるのが落ちだろう。
――だが、たとえどんな理由があるにせよ、術者とトーリ達の意見はすでに決裂している。
単純な話だ。この術者は、彼女の記憶を消し、この世界を滅ぼすことを前提に動いている。
かつて彼女を虐げたこの世界を憎んでいるのか、それとも憤っているのか。
そこまで深くは分からないが、トーリ達はそれを許容することができない。それだけのことだ。
そう考えているのはトーリだけではなく、ヴォルフも同じだろう。
トーリは、顎に片手をあてて考え込むように目を伏せているヴォルフを見やった。
ヴォルフが、すっと目を開ける。その目には、いつも通りの理知的な光が宿っていた。
「確かに、お前の言っていることは間違っていないのかもしれない」
ヴォルフがまっすぐ術者を見据え、言った。それを、フランシスカが驚愕の表情でみやる。
「お兄様っ!? 何を言って……!」
フランシスカの非難の言葉を、ヴォルフが無言で片手を伸ばして制する。そして、ヴォルフは続けた。
「お前の思い通りにことが進めば、きっとあの方にとっては悪いようにはならないだろう。――だが、そんなものは、断じて認められない!!」
怒気のこもった声を、ヴォルフは吐き出す。
「『記憶を奪う』だと? 冗談も大概にしろ、下種め。あの方が積み上げたもの、手にしたもの、大切なもの、その何もかも全てを踏みにじることを、あの方が許すはずがない。そんなことをするくらいなら、きっとあの方は死を選ぶだろう。――魔王様の矜持を、穢すな」
――それは何ともヴォルフらしい言い分だった。
ヴォルフは彼女――『魔王』の意地の在り方を理解している。
もしも彼女が自身の命とこの国を天秤にかけなければならないような時が来れば、『仕方がない』と苦笑しながらその命を放り出すであろうことも。
そうなった際、新しい王を擁立し、この国を陰から支えるのが自身の役割であると、彼は本気で思っている。
だからこそ、魔王が攻撃されて倒れたと聞いたときに、あそこまで取り乱したのだろう。
言うなれば、心の準備ができていなかったのだ。魔王がいなくなるのは、もっと先の話だとばかり思っていたから。
忠臣にして献身的。普段の様子からは考えられないだろうが、この男は存外彼女のことを慕っている。
トーリが魔王に抱く恋慕の情とは違う、敬愛、もしくは畏敬の念。
それが真っ当かどうかは別として、仕える者としての立場は多少逸脱している気もするが、その想いだけは純粋だ。
「僕としても、ヴォルフとほぼ同意見だね。彼女を――ナナミさんを返してくれないかな」
彼女の名前を、言葉で紡ぐ。
それを聞いた術者は忌々しそうにギリリと歯を噛みしめると、苦しそうに息を吐き出した。
今にも倒れそうなその様子に、トーリはひやりとした。
いくら意識は術者のものとはいえ、その体は彼女の物だ。術者がどうなろうと構いもしないが、彼女に影響が出るのは困る。
そのまま倒れてしまうのではないか、とトーリは思ったが、術者は青白い顔をしながらも、嘲笑するように口角を上げた。
「これだから、――これだから人間は愚かしい。いや、いじらしいと言うべきか? まあいい、気が変わった。少々遊んでやろうではないか」
くすくすと下を向いて小さく笑いながら、術者は言う。
「愛し子はいま夢の中にいる。その夢の中で、虚構と現実が入れ替わったとき、術式は完成する。――三日間、時間をやろう。その間、我はお前たちに手出しをしない。解呪なり何なり好きにするといい。どうだ? 悪い話ではないだろう?」
「……それは願ってもないことだけど、対価は何かな?」
トーリだって、そんなに上手い話がないことは分かっている。何かを得ようとすれば、別の何かを失う。当然の摂理だ。
警戒心むき出しでそう問うトーリに、術者はゆるく微笑んで言う。
「賭けをしようと思うてな。愛し子を時間内に起こすことができれば貴様らの勝ち。起きた時点で我は手を引いてやろう。もし起こすことができなければ、一人残らず贄としてその身を我に捧げよ。ふふ、貴様らはこの我が直々に骨まで喰ろうてやろうではないか。――答えは、ああ、聞くまでもないな」
術者はトーリ達の顔を見やると、目を細めて満足気に頷いた。
それもそうだろう。術者の賭けに乗ろうと、乗るまいと、彼女の記憶が消えてベヒモスが乗っ取られれば、この世界の住人は世界移動のための贄として殺される。死に方が変わるだけで、こちらに過度なデメリットはないのだ。
「せいぜい足掻け。まぁ、結果は見えているがな」
その言葉が示すように、術者も本気でトーリ達が解呪に成功するとは思っていない。
賭け事を提案したのも、決して自身の目的を軽んじているわけではなく、この賭け事は本当にただのお遊びなのだろう。
それほどまでに、トーリ達とこの術者とでは力の差がありすぎる。
直接対峙して、思い知った。
女神と対面した時をはるかに凌ぐ威圧感。人を見下すことを、さも当然とでも言いたげな態度。
傲慢で気まぐれで、それでいて寛大で。それはまるで――話に聞く『神様』のような……。
そこまで考え、トーリは頭を振った。
まさかそんなはずがない。全ての神がこの術者のような性格ならば、とっくの昔に世界は滅んでいる。
だがそれでもこの術者は、どう考えてもあの女神よりは『格上』だ。
――幸か不幸か、相手は自身の力を慢心している。攻めるとするなら、そこを突くしかないだろう。
結局解呪は女神頼りにならざるを得ないが、トーリ達だってできることがないわけではない。
「首を洗って待っていればいい。――ナナミさんは、必ず助け出す」
トーリの決意のこもった言葉を聞き、術者は薄く笑うと、そのままごろりとソファーに横になった。
「子猫がよう吠えよるわ。餞別に教えてやろう。――お前が口にするその『ナナミ』というのはな、この娘の家名だ。諱ではない」
「……は?」
術者はそのまま目を閉じると、すぅ、と静かな寝息を立てはじめてしまった。どうやら、意識を手放したらしい。
だが、トーリの心境はそれどころではなかった。
――『ナナミ』というのは、彼女の名ではない?
彼女があの時トーリに嘘をついたとは、どうしても思えない。それはつまり――。
――あの時聞き取れなかった言葉こそが、彼女の真名だったのか。
……恐らくは、術者が聞こえないように妨害をしていたのだろう。
魔道の世界においては、名前はかなり重量な意味をもつとされている。
たとえば、制約を結ぶ際も、基本的には真名を名乗って契約するのが普通だ。こと魔王に関して言うならば、魔力に物をいわせて名を伝えず略式の契約にしてしまうほうが多いが。
あの術者は、泥棒猫――つまり女神に名を知られる前に、仕掛けを急いだと言っていた。
それはつまり彼女の『名前』を女神に知られることは、あの術者にとってはよほど不都合だったのだろう。
つくづく、あの女神はここぞという時に役に立たない。無理を押してでも聞いておけば良かったものを。トーリは聞き取れなかった言葉も、神であるレイチェルであればきちんと聞き取れたかもしれないのに。
トーリは、他の人が聞いたら不敬だと眉を顰めそうなことを考えつつ、小さく溜め息を吐いた。
自分でも少々異常だとは思うが、あの女神だけはどうしても生理的に受け付けない。顔を見るだけで腹立たしく感じてしまう。
だがいくら折り合いが悪かろうとも、今は協力しなくては前に進めない。
術者は、彼女はいま『夢の中にいる』と言っていた。それが寝ていることへの比喩ではなく、文字通りの意味ならば、術式全てを解呪するよりも、もっと良い方法があるかもしれない。
「……何らかの方法で名前を知ることさえできれば、あるいは」
何にせよ、一度女神達を呼び戻さなければ。話はそれからだ。
ヴォルフがベヒモスに連絡を取っている間、トーリはそっと眠っている魔王に近づき、その柔らかそうな頬に手を伸ばした。
その様子をフランシスカが見咎めるように見ていたが、どうやら今回は見逃すことにしたらしく、トーリの行動を止めることはなかった。そのことにほんの少しだけ感謝しつつ、魔王の頬に触れる。
寝顔は今まで見飽きるくらいに見てきたけれど、実際に眠っている彼女に触れるのは初めてだった。
彼女がトーリの目の前で無防備に眠ること自体が殆ど無い上に、たとえ寝ていたとしても、こうやって触れようとすれば直ぐに起きてしまう。
その度に『もっと寝ていてくれていいのに』と思ったものだが、今は早く起きてほしいと願っている。
――やっぱりこの人には、こうやって大人しく寝息を立てているよりも、生き生きと過ごしている姿のほうがよく似合う。
そう思いながら、トーリは呟くように言った。
「――いったい、どんな夢を見ているのかな」