73.寝起きが悪い奴はたぶんカルシウムが足りてない
警戒するような険しい目をしてこちらを睨み付けるトーリに困惑しながらも、フランシスカはこれからどうするべきかを考えた。
女神様は、トーリが魔王が何者かの魔術によって倒れたということを把握している、と言ってはいたが、そうなるとあの反応は少しおかしいのではないだろうか?
もしかすると、あの様子をみるに、現状を正しくは把握できていないのかもしれない。
そうでなければ、『離れろ』だなんて、嫉妬に塗れた言葉を言い放つはずがない。
「まったくもう。この非常時に何をおっしゃっているのですか?」
「いいから離れっ、ぐっ……!!」
フランシスカが呆れたように言うと、トーリは焦ったように何かを伝えようとしたが、苦しそうに胸を押さえて蹲ってしまった。
――そんなに無理をして走ってきたのだろうか?
フランシスカはそう思い、不思議そうに首を傾げたが、もしもこの時フランシスカが後ろを向いていたならば、きっとトーリが蹲ってしまった理由が分かったはずだ。
トーリが離れろと言った瞬間。魔王が伸ばした右手をトーリの方へ向け、そのまま何かを押しつぶすかのようにゆっくりと手を下におろすようなそぶりをした。魔王が得意とする、無詠唱魔術。その一つが発動していたのだ。
だがその発動の瞬間、フランシスカとヴォルフの目線はトーリの方を向いていたため、魔王の動向など誰も見てもいなかった。
もしもこの場に女神がいたならば、魔王の魔術によってトーリの言葉が強制的に遮られたのが分かっただろうが、いま女神はここにはいない。
妨害を受けているトーリも、原因不明の息苦しさのせいで、そのことを伝えることができずにいた。
そんなことを知る由もないフランシスカは、トーリの様子を不思議に思いつつも、魔王のいる方へ向き直ろうとした。その時。
「――え?」
魔王の方に向かって差し出されたままだったフランシスカの手を、魔王の柔らかな手がしっかりと掴んでいた。
フランシスカが驚いて、小さな声を上げたその刹那。
ぐいっ、とそのまま手を引かれ、フランシスカは成すすべもなく、ソファーに寝ている魔王の上に倒れてしまった。
勢いよく倒れたものの、魔王によって衝撃を殺されたのか、体に痛みはなかった。むしろ、直撃を受けた魔王の方が心配である。
「魔王様!? いったい何を……」
ヴォルフがそれを見て、焦ったような声を上げるも、魔王はそちらを見向きもしない。
「あ、あの、魔王様?」
フランシスカが、困惑と一抹の不安を抱きながら問いかけると、魔王はにこりと微笑んだ。わけが分からずに、思わず体の動きが固まってしまう。
魔王はそんなフランシスカの様子を気にもせずに、左手でフランシスカの腰を抱き寄せ、右手でその頬をするりと撫ぜた。
その手の感触に、ぞくりと肌があわ立ったが、それは本能的な恐怖によるものだった。
――これは、いつもの戯れではない。
そう悟ったフランシスカは魔王から離れようとしたが、動こうにも腰を押さえられてしまっては身動きが取れない。
その様子を見ていたヴォルフが、いくら魔王とはいえ、流石にこれはおかしいと思ったのか、近寄ってフランシスカを抱き起そうとしたが――。
「邪魔だ。――退いていろ」
魔王はそう言うと、ひどくつまらなそうな視線をヴォルフに向け、指先をついっと壁の方に払う仕草を見せた。
すると、ヴォルフはまるで見えない手に弾かれたかのように、壁へと打ち付けられてしまった。
「っつ、ぐっ……!!」
勢いこそはなかったものの、背中を強かに打ち付けたせいか、ヴォルフはひどく苦しそうに咳きこんだ。
「お、お兄様っ!?」
「おや。男の子のくせになんとも軟弱な」
魔王は呆れたようにそう言って、フランシスカから手を離し、トンっとフランシスカの胸を押した。その勢いで、ぺたんと床に尻餅をつく。
咄嗟に立ち上がろうとしたが、まるで縫いつけたかのように足が動かない。
魔王は右手をついて、ゆっくりと上体を起こすと、座り込んだままのフランシスカの顎をくいっと持ち上げ、検分でもするかのようにまじまじと楽しげに眺めだした。
それだけであれば微笑ましいが、まるで子供のような好奇の視線な中に混じる、与えられたおもちゃに対し『どんな風に遊んでやろうか』とでも思っていそうな、一抹の危うさ。
目の前にある見知った姿が、何故だかとても恐ろしく見えた。
言い知れぬ恐怖に身を震わせながら、フランシスカは思った。
――これは、私の知っている魔王ではない。
あの優しい魔王が、理由もなくむやみに誰かを傷つけるような真似をするはずがない。何よりも、兄の虚弱さを知っている彼女であれば、尚更だ。
フランシスカの、本能よりももっと深い部分が警鐘を上げている。これは違う。
――こんなおぞましいモノが、魔王であるはずがない。
「――貴方は、だれ?」
フランシスカは、気が付くとそう呟いていた。
その言葉を聞いた魔王――否、敵の術者はくすりと笑った。
「何だ、ようやく気が付いたのか。ふふふ、異国の花もなかなか愚かで愛らしいものだなぁ」
そう小ばかにしたように言うと、術者はけらけらとおかしそうに笑った。
憑依。意識の乗っ取り。それを称する言葉はいくらでもある。
そんなことはあり得ないだとか、非現実的だとか、そんな常識は魔術という技術の前では通じない。
魔術というものは、使いようによっては奇跡さえ引き起こせることを、フランシスカは知っているのだから。
「……どこの何方かは存じ上げませんが、貴方、いったい誰に何をしているのか分かっていますの?」
「それを答えてやる義理はないのだがな」
カタカタと震えそうになる自身を叱責しながら、冷や汗ひとつ見せないように、強気の態度で挑む。
フランシスカは自身の顎に添えられた手を強かに叩き落とし、目の前の敵を睨み付けた。
「我らの王を害しておいて、何たる言いぐさ……!! 名前くらい名乗ったらどうなのです」
「ほう、只人風情が烏滸がましくも我の名が知りたいと。そうさなぁ、戯れに当ててみるといい。見事に当ててみせれば、この体から出ていくことも考えなくもないぞ?」
フランシスカの物言いなど、まったく気にも留めてないかのように、くすくすと術者は笑う。
からかわれている。そう思うものの、対抗手段が見当たらない。
――だが一手、たった一手読み間違えれば、文字通り魔王の首が飛ぶ可能性がある。
フランシスカは、いま魔王がどんなに危うい状況にいるのかをよく分かっていた。
もし、この術者が魔王の命を奪うことを目的としているのならば、それはきっととても簡単だ。端的に言ってしまえば、その舌を噛みちぎればそれで済む。
そんなことをせずとも、ヴォルフを弾き飛ばしたような魔術を用いて、その首を落としてしまえばそれで済むだろう。
まだそれを実行していないということは、この術者は他に目的があるということに他ならない。
――フランシスカは、自分がこの術者に対して何も成す術がないことを自覚している。魔王の体から術者を追い出すこともできなければ、魔王を強制的に気絶させる力もない。
故に、今フランシスカにできることはたった一つ。そう、時間稼ぎをするより他にないのだ。
「魔王様の体を使って何をなさるおつもりですか。返答によっては、私達とて容赦は致しませんわっ……!!」
無論言うまでもなく、この言葉は虚勢である。
向こうだって、フランシスカ達が魔術師相手に対抗できるなんて、露ほども思っていないことだろう。
だが、それでいい。実力差も分からぬ愚か者であると思わせておけばいい。
先ほどこの術者はフランシスカのことを、まるで馬鹿な愛玩犬でも相手にするかのように笑って見せた。
――そう、己の力を驕っているからこそ、付け込む隙がある。そういった手合いは、総じてプライドが高く、相手のことを見下す傾向があるのだから。
魔王風に言えば「王者の余裕」、兄に言わせればきっと「愚者の驕り」と答えることだろう。
だからこそ、こちらがキャンキャンと無謀に吠えているうちはきっと行動は起こさない。相手が、フランシスカの愚かさを面白がっているあいだは、だが。
「そこまで身構えずともよい、健気な花よ。我はこやつを傷つけるつもりは毛頭ないのだからな」
「そんな話を信じろと?」
「だがなぁ、我とて好き好んで愛し子を傷つけるほど酔狂ではないのでな。やることさえ終われば直ちに解放してやろう。無論、傷一つ付けずにな」
「目的もおっしゃらないくせに。そんなことで信頼してもらえるとでも?」
「ほう? ならばどうする。我を追い出してでもみるか?」
術者はそういって、にやにやと悪戯気に笑う。出来ないことを分かっているくせに、底意地が悪い。そして何よりも。
――彼女じゃないくせに、彼女みたいに笑うな。
その表情が魔王のそれと酷似していて、フランシスカはなんとも不快な気持ちになった。
「そう言ってられるのも今のうちだけですわ。貴方なんて、すぐに追い出して差し上げますから」
女神が部屋を出てから、まだ一時間も経っていない。
そんな短い時間で、この術者の魔術を解呪できるだなんてフランシスカも思ってはいない。
――でも、信じなければ心が折れる。
もう無理だと、助からないと、手遅れだなんて思いたくはない。敵が手の届く場所にいるのに、みすみす魔王を失うだなんて考えたくもなかった。
「あの泥棒猫がこそこそと動いているようだが、あんな紛い物にできることなどたかが知れている。期待はしない方がよいぞ」
「泥棒、猫……?」
それは、もしかして女神様のことだろうか? 少なくともトーリのことではないだろう。
――そういえば、トーリはいったい何をしているのだろうか。
いくら疲れていたとしても、そろそろ回復してもおかしくはない頃合いだ。それなのに、こちらに近づくことはおろか、声を上げることもない。
ひやり、と背中に嫌な汗が流れる。
まさか、兄に続いてトーリまでも無力化されたのだろうか。振り返って確かめようにも、いまこの術者から視線を外すわけにはいかなかった。
「うん? 人の物を勝手に盗む者を『泥棒猫』と呼ぶのだろう? 取り返しに来て何が悪い」
「ま、待ってくださいまし。いったい何のことですの?」
「この娘は産まれ出でたその瞬間から、我の所有物だと決まっていた。それを横合いから掠め取りおって……。決して、許しはせぬぞ」
すっと目を細めながら、術者は剣呑な声を上げる。
その言葉を聞いて、フランシスカは悟った。
――ああ、この人は。この術者は、魔王様の同郷の者だ。血で血を洗い、魔獣が跋扈し、鬼が住まう世界の住人だ。
震えが走るような悍ましさも、この強力なまでの魔術も、それならば納得がいく。
だが、この術者は今なんといった? 魔王のことを『所有物』だと言わなかっただろうか。
「なに、ことが済めばちゃんとこの体も返してやる。お前達はただ、ゆるりと時が経つのを待てばよい。――直に全てが片付く」
この術者が、魔王に対しどんな術をかけているのかは未だに分からない。
傷つけないとは言ったが、それはとてもじゃないが信用できないし、何よりも、嫌な予感が拭えない。
「――片付く? 待っていろ? 笑わせるなよ、侵略者」
そんなか細い声が部屋に響いた。
「――ようやく、分かった。お前は魔王を支配し、ベヒモスの権限を奪い、世界を渡るつもりだな?」
「お兄様っ!!」
ふらふらと危うげに立ち上がりながら、ヴォルフはしっかりと術者を見つめた。
◆ ◆ ◆
トーリは自身の上から圧し掛かる、見えない重圧に潰されそうになりながら、フランシスカと魔王の体を乗っ取った術者のやり取りを見ていた。
別に傍観していたわけではない。動こうにも、動けないのだ。
レイチェルが言っていたように、トーリはこの場で起きたことをきちんと把握していた。
いや、彼らよりも早く答えにたどり着いていた、と言っても過言ではない。
そう、トーリには見えていたのだ。
――魔王の口から這い出た黒い蛇が、彼女の体に巻きつくその瞬間を。
誰もその蛇を見ることができなかった。あの女神ですらも。
その理由は分からないが、あの蛇がよくないモノであることは一目瞭然だった。
――あんな、この世の邪悪を煮詰めたかのような禍々しいモノが、良い存在であるわけがない。
そう思ったトーリは、ここまで一切の休憩を挟まずに全力疾走をしてきたのだが、本来であれば、あと十分ははやくここにたどり着ける筈だった。
それが叶わなかったのは、何者かによる妨害があったからだ。
道を駆けるたびに、黒い影でできた手に足を捕られる。まるで、その先へ向かうのを拒むように。
今にして思えば、術者からの妨害だったのだろう。そのせいで、到着が遅れてしまった。
早く着いていた所で、この状況がどうにかなったとは思わないが、それでも今のこの無様な状況よりはマシだったろう。
なぜ術者がこんなにもトーリのことだけを妨害するのかは分からないが、無理に動けば体がちぎれる。事実上の詰みだった。
ふらふらと立ち上がったヴォルフを霞んだ視界の端に捕らえながら、耳を澄ます。
どうやら彼はトーリのように拘束はされなかったようだ。
なぜ、と疑問に思うも、襲いくる痛みによってその思考は中断される。このままでは、負荷によって骨が折れるかもしれない。
「――ようやく、分かった。お前は魔王を支配し、ベヒモスの権限を奪い、世界を渡るつもりだな?」
ヴォルフのその言葉を聞いた瞬間、トーリは時が止まった気がした。
――あの人が、自分を置いていく? そんなこと、認められるわけがない。
嫌われるくらいならまだいい。でも、自分の目が届かない所に消えてしまうだなんて、今まで考えたこともなかったのだ。
「分かっているならば話が早いな」
悪びれもしない術者の言葉に、ヴォルフが忌々しげに返す。
「だが魔王様は言っていた。『ベヒモスには世界を渡る力がある』と。そして、そのためには莫大な犠牲が必要だとも。魔王様の魔力を以てしたところで、その力が足りるとは思えない。――お前は魔王様ひとりを連れ帰るためだけに、この世界を犠牲にするつもりなんだろう?」
「そんなっ……!!」
フランシスカが、有り得ないとでも言いたげな、非難のこもった瞳で術者を見つめる。
その視線を受けて、術者はまるで理解できないとでもいいたげな表情をし、かわいらしく小首を傾げた。
「ふむ。その通りだが、――それの何が悪い?」
さも当然、といった風に術者は語りだす。
「そもそも、我の庇護下にない人間など、いまさらどうなっても構わん。それに間接的とはいえ、我の役に立てるのだから光栄に思うべきだろう?」
「そのような真似を、魔王様がお許しになると思っているのですか……!?」
フランシスカが叫ぶ。
術者が言った内容は、魔王が最も嫌うやり方だ。術者と魔王の関係性は分からないが、そんなことを仕出かして、友好関係を築けるとは到底思えない。
だがトーリは、そのことを術者が認識していないとは到底思えなかったのだ。
「だから今こうして私が動いているのだ。――この国のことも、この世界のことも、そしてお前たちのこととも、全部忘れてしまえば何の問題もないだろう?」
術者は、魔王の顔でうっそりと微笑む。
――魂への干渉。それはすなわち、彼女の意識を操ろうとしているということだ。
手法を変えれば、記憶の操作など造作もないだろう。
トーリはぼんやりとした頭で考える。
あの人が、自分のことを忘れてしまう? 疎まれたことも、和解したことも、名前を教えてもらったことも、一緒にご飯を食べたことも、思い出のなにもかもが全部なかったことになる。
でもその代わりに、彼女が経験した苦しみも、返り血の温かさも、肉を断つ感触も、怨嗟の声も、同じ人間に疎まれる嘆きも全部忘れられる。
そうすればあの人はきっとトーリのことなんて、一生思い出さずに幸せに生きていくに違いない。
トーリは他の連中とは違い、仲間意識というやつが極端に薄い。魔王がそれを是とするならば、何千、何万の人間の命が失われようとも、眉ひとつ動かさない自信がある。
トーリのことをずっと覚えていてくれるならば、彼女の幸せを願い、送り出すことも許容できなくはなかった。
でも、存在をなかったことにされるなんて、そんなのは嫌だ。あまりにも辛すぎる。たとえ悪しき記憶だってかまわないから、心の片隅くらいには残しておいてほしい。
それがエゴだとは分かっていたが、それでも全てをなかったことにされるのは死んでもごめんだ。
――いや、そもそも、あの術者の話を鵜呑みにする方が間違っている。
スゥッと、ぼんやりとした思考がクリアになっていく。
あそこにいるのは、まぎれもなく彼女の敵だ。彼女を昏倒させ、あまつさえ、その体を好き放題にしている怨敵だ。信用なんて、出来るはずがない。
だが、自分に何ができる? 彼女の為に何をしてやれる? 押しつぶされて動けないまま、彼女が去っていくのをただ黙って見ていることしかできないのか? 本当にそんなことを許してもいいのか?
「……嫌だ」
掠れた声で、ぼそりと呟く。こんな小さな声では、きっと誰にも届かない。
たとえ何もできなくても、離れることなんて絶対に嫌だった。
子供のような駄々だと自分でも思う。それでも、置いて行かれるくらいなら死んだ方がマシだ。
「嫌だ。嫌だいやだ……、おいていかないで――『ナナミ』さん」
――トーリがその名前を口にした瞬間、術者の表情が確かに歪んだように見えた。