71.知らなかった?運命からは逃げられないって
結論から言おう。アンリは何者かによって精神――否、魂に干渉を受けている。
ベヒモスの診断によると、その術式は精神――主に記憶に干渉しようとしていることが分かった。術式が引き起こす詳しい作用までは判断がつかないが、現状で命に別状はないらしい。
ベヒモス曰く、彼女が急に眠りについたのは、無意識のうちに術に抵抗をしようとし、肉体に余計な負荷がかかってしまったため、とのことだった。
未だに目覚める気配がないのを見るに、考えたくはないが、アンリ自身が術式に打ち勝つのは難しいかもしれない。
そもそも、本人が魔術をかけられているという自覚すらなかったのだ。あまり期待はできないだろう。
――だが、普通であれば気付かないわけがないのだ。
神であるレイチェル。超直感をもつヴォルフ。そして当事者であるアンリ。この三名の誰もが、術をかけられていることに気づくことができなかった。それだけで、事態の異常性がよく分かる。
それに、アンリの魔術に対する抵抗値は極めて高い。並みの術者からの攻撃であれば、無意識のうちに無効化できるくらいには。
そのアンリに気取られずに、魔術による攻撃をしかける。そんな芸当ができるものなど、この世界には存在しない。そのことは、レイチェルが誰よりもよく知っている。
だが、こうしてアンリが倒れたのは紛れもない事実だ。術者は必ずこの世界のどこかに存在する。
最初は例の聖遺物を盗んでいる者達が犯人かと思ったのだが、今回に限っていえば、その可能は極めて低い。何故ならば、聖遺物が使われた形跡が一切見あたらないのだ。
それに、その相手が必ずしも人間であるとは限らない。ベヒモスを通して彼女にかけられている術式を垣間見たが、あれは普通の人の子が使える魔術ではない。
レイチェルがこの世界に生まれるよりも、もっとずっと昔。それこそ神代から伝わる古の『呪い』。
それを行使できるだけの存在が、アンリの敵に回ったのだ。恐ろしくないはずがない。
神が現世に干渉しなくなって久しいが、中にはレイチェルのように人に手を貸す神も少なからずいる。
レイチェルの神としての格は低い。いくら信仰によって底上げされているとはいえ、もしも相手が名のある神であったなら、純粋な力だけではきっと敵わないだろう。
それに最悪なことに、この術の解除にベヒモスの手は借りられない。
何故かというと、現在のベヒモスには魔力の使用量に、一定の制限がかかっているからだ。彼女にかかっている術を解くためには、それこそ膨大な魔力を必要とする。
その制限を設けたのは、皮肉なことにアンリ自身だ。理由は言わずもがな、城下街の作成時に魔力の使い過ぎで倒れたことが原因だろう。
アンリの許可さえあればその制限を外すことができるが、その肝心の本人に意識が無いとあっては、もうどうしようもない。
アンリがストックしている魔石の使用を試みるも、相手の術のレベルが高度なことと、命令権限がないレイチェル達の頼みでは、通常の倍の魔力消費を必要とするらしく、手持ちの分の魔石だけでは足りないらしい。
……アンリが起きていてくれさえいれば、どうにかなったかもしれないが、それを昏倒している彼女に求めるのは酷なことだろう。
だが解呪には足りないとしても、このまま彼女の精神が蝕まれ続けるのを黙ってみている訳にもいかない。
苦肉の策として、ベヒモスには現状でできる限りのこと――術式の干渉力を弱めるなどの対応をとってもらってはいるが、このままでは手詰まりだ。
アンリに対する術式の侵食率は、無理やり切り離すには手遅れなレベルにまで達しており、今のレイチェルの力ではどうすることもできない。
限られた力を使い、ゆっくりと時間をかけて彼女にかけられた術式を解いていくしかないのだ。
レイチェルが術を解くのが先か、アンリが害されるのが先か。それは、誰にも分からなかった。
――それでも、私がやらなくてはならない。
こんな緊急事態であるからこそ、この場の者の危機管理能力の低さが浮き彫りになってしまったが、このまま何もせずに黙って見ているわけにはいかない。
――アンリの能力に頼りすぎていることくらい、ちゃんと分かっていたのに。
そう思い、レイチェルは何かを耐えるように目を伏せた。
この国は彼女という歯車が欠けただけで、容易に崩壊する。
アンリだってそれを危惧していなかったわけではない。だからこそ、常日頃から「もしもの時はよろしく」と彼女はレイチェルに頼んでいたのだ。
そんな日はまだまだずっと先だとばかり思っていたけれど、きっと、今が『その時』なのだろう。
力が弱いことは、何の言い訳にもならない。
彼女はきっとレイチェルのことを信じている。レイチェルだって彼女が簡単に敵に負けるだなんて思っていない。
それにアンリだって、戦っていないわけではないのだ。彼女は無意識下ではあるが、ちゃんと抵抗を続けている。
敵の正体も、目的も、何も分からない。でも、それが何だというのか。
かけられている術を解呪し、アンリを叩き起こして、相手を引きずりだしてしまえば、それで済む話だ。いつまでもうじうじしているままでは、助かるものも助からなくなる。
――そう、この場において、最初にショックから立ち直ったのは、紛れもなくレイチェルだった。
レイチェルは、今までずっと後悔ばかりして過ごしてきた。あの時ああすれば、こうしておけば。ずっとそんな風に思っていた。
でもアンリと出会って、共に過ごし、日々を重ねる内に、レイチェルは確かに変わっていった。
外見は何も変わらずとも、神様だってちゃんと精神は成長する。
――だってレイチェルは彼女の『立ち向かう強さ』を、今までずっと側で見てきたのだから。
レイチェルは軽く息を吸い込んで、目を閉じ精神を集中させた。
そして、拍手を一回。それだけで、陰鬱な空気が漂っていた執務室の中に清廉な気配が満ちる。
その音はユーグ以外の面々には聞こえなかっただろうが、それでもその気配だけは察することができた。
「私はこれから解呪の魔術式を組み上げるため、神殿に向かいます。ベヒモス、貴方も手伝って下さい。それくらいは大丈夫でしょう?」
レイチェルがそういうと、ベヒモスは軽く頷いて机から立ち上がった。
それを見つつ、レイチェルは話を続ける。
「解呪は私に任せて下さい。ユーグは私と共に。そして、あなた方は何よりも、この国のことを優先しなくてはなりません。それが、彼女の願いでもありますから。アンリが倒れたことに対する周りへの連絡は、お二人が行ってください。周知させるか、それとも箝口令を敷くかどうかはお任せします。私は、そういった政には疎いので」
そんな内容のことを、ユーグを通して二人に伝えてもらった。
それを聞くと、二人はハッとした顔をして、しっかりと返事をした。きっと、自分が今するべきことを悟ったのだろう。
その様子を見て、レイチェルは少しだけほっとした。
アンリに魔術がかけられていると知ったときのヴォルフの動揺は、見ているこちらが心配になるくらいのものだったから。
普段の彼からは、とても想像できないほどの取り乱しようだった。
産まれながらに『超直感』という能力をもつ彼にとっては、完全に想定外の出来事だったのだろう。
だがそもそも、極めて精度が高い彼の勘を、なぜ相手はすり抜けることができたのだろうか? 疑問は尽きない。
「恐らく、近いうちにトーリがここに来ると思いますが、その時に彼女を部屋にまで運ぶように言って下さい。……変な真似をしないように、きちんと見張ってくださいね」
トーリはきっとこの場でのやりとりを見ている。それなのにまだここに来ないということは、それなりに遠い場所にいたのだろう。
でも、もうアンリが倒れてから数十分の時間が経つ。そろそろ駆けつけてきてもおかしくはない頃合いだ。
トーリにアンリを任せるのは癪だが、ヴォルフとフランシスカの二人に、いくら体が小さいとはいえ、アンリのことを運ばせるのは少し厳しいだろう。
ここからアンリの部屋までは、それなりの距離がある。
ヴォルフは体力から鑑みて無理だとして、フランシスカは運べなくもないだろうが、やはり女性に重労働を任すのは忍びない。
そんな言葉を残しつつも、レイチェルはユーグを連れて執務室を後にし、自身の神殿へと向かった。
◆ ◆ ◆
「……いったい何時から、そんなものが仕掛けられていたのでしょうか」
ユーグが泣きそうな顔をしてそう言った。
それを聞いて、レイチェルは最近のアンリの様子を思い浮かべる。
今にして思えば、彼女は一年ほど前から、時おり「頭痛がする」と愚痴をこぼしていた。もしかしたらあれが警鐘だったのかもしれない。
――もう少しちゃんと気にかけていれば良かった。そう悔やむも、もう遅い。
『術をかけられたのは一年前から』
そうレイチェル達が判断しようとした時、今まで話に加わろうとしていなかったベヒモスがぽつりと言った。
「もっとずっと前だよ」
はっきりと、彼は断言した。
ずっと前とは、はたしていつのことを示すのだろうか。
「まさか、前の魔王を倒した際に呪いをうけて……?」
「ちがうよ。それよりも、ずっと、ずっと昔」
前を歩いているベヒモスが、ユーグの言葉を、振り向かずに否定する。
「めがみ様に呼ばれるよりも前から、ますたーの中に居たんだよ。だから、みんな気付かなかったんだとおもう」
「……貴方は、知っていたんですね。そのことを」
責めるような声音で、ユーグはそう言った。
その顔色は、ひどく青い。彼もまたレイチェルと同じように、気付くことができなかった自分を責めているのかもしれない。
だが今ここでベヒモスを責めても、何の意味の無いことくらいはユーグも、そしてレイチェルも分かっている。でも、それでもレイチェルは彼のことを許せそうになかった。
だってベヒモスは最初から全てを知っていたのだ。アンリが蝕まれていることも、何もかも。
――なぜ一言いってくれなかったのだろう。いくら問われなかったとはいえ、これはあまりにも酷すぎる。
「ごめんね。――そういう決まりだったから」
「決まり?」
「そう。だからただしい質問をされるまで、なにも言わなかった。ますたーのことはキライじゃないけど、『真の所有者』としての条件はみたしていないから、必要以上の助言は禁じられてるんだ」
「何ですか、それ。真の所有者とはいったい……」
困惑気味に、レイチェルが問いかける。
確かにベヒモスは「条件が満たされていない」と、言う時がたまにあった。だがそれにしても、『真の所有者』とは、いったい何のことなのだろうか。
ベヒモスはピタリ、と足を止めると、ゆっくりとレイチェルの方へと振り返った。
赤い、幾多の目がレイチェルを見つめる。その無言の圧力に、レイチェルは思わず息をのんだ。
「ぼくの名前は『ベヒモス』。選ばれし者――神の雛形のための供物であり、その選定者でもある」
レイチェルにとっては意味の分からない言葉を、ベヒモスは続ける。
「いままでも、いろんな奴らがぼくのことを『聖杯』『創世の怪物』『万物の願望機』とか勝手に呼んで、手に入れようとして争ってた。でも、ただ手に入れるだけじゃ、ぼくは使いこなせない」
「待ってください。ベヒモス、貴方は何を言って……」
「これは必然だよ、めがみ様」
平坦な声で、ベヒモスは告げる。
「所有者からの奪取と、二度の防衛。計三度の勝利をぼくにささげた者にのみ、神へいたる扉がひらかれる。――そう、選定者であるぼくがここにいるかぎり、ますたーは争いからはにげられない。今回のことは、べつに最初からぼくが目的だったわけじゃなくて、たぶんついでなんだろうけど。それでもまぁ、これが一度目の防衛戦だから、がんばってね」
周りが協力する分には、ぼくは口をださないから。と、ベヒモスは続けた。
でも、そんな言葉はレイチェルの耳には入ってこない。
そう。レイチェルは、この日、この瞬間まで、確かにベヒモスのことを信頼していた。
前魔王の所有物とはいえ、彼自身の意思でアンリのことを害することは決してないと、信じていた。
少々融通は利かないが、それでも大切なこの国の一員だと、そう思っていたのだ。
今までずっと、ベヒモスはアンリに協力してきたのに。あんなに楽しそうに過ごしていたのに。それなのに。
ベヒモスは、――アンリを戦わせるためだけに、術者のことを口にしなかったのだ。
「そんな、そんなのって、裏切りと同じではないですか……!!」
悲痛な声でレイチェルは叫ぶ。
「あのね、めがみ様。いくら機能が制限されているとはいえ、魔力だけでこのぼくを使用できたのは、すごくしあわせなことだとおもうよ? ぼくは便利だったでしょう? 優秀だったでしょう? ねぇ、ぼくがいないと困るよね? でもね――」
こてん、と可愛らしく頭を傾げながら、ベヒモスは言った。
「――タダより高いモノはないんだよ?」
35話をもう一度読み直すと、ちょっとだけ分かりやすいかも……?




