50.君 知りたもうことなかれ
光がある所には、必ず影ができる。だが、多くの人は光にばかり目を取られ、影を見ようともしない。
――これは魔王が選ばなかった、とある少年達の物語。
選択の天秤が掲げた側の末路など、誰も気に留めたりはしない。
奇跡の裏で起こった悲劇を、とくとご覧あれ。
◆ ◆ ◆
――『女神の奇跡』より、半月後。とある北国の農村にて、幼い少年が草原で野花を摘んでいた。
季節はもう秋の中頃を過ぎ、草木はその緑を失いつつあった。申し訳程度に小さな花が咲いているばかりで、華やかな物はもう残っていない。
その小さい花を黙々と摘みながら、少年はふう、と息を吐いて空を仰いだ。夏の曇り空と違い、それはとても美しい秋晴れだった。その事実に、少年は思わず眉を顰める。
――今更晴れたって、何の意味もないのに。
そう気落ちしつつも、少年は視線を地面に向ける。
「――せめて、束になるくらいには見つけなくちゃ」
そう呟いた少年の声は、震えていた。よくよく見てみれば、彼の瞳は泣き腫らしたように赤く、哀れなまでの悲痛さを湛えていた。
「よし。これくらいでいいかな。……ちょっと、不揃いだけど」
片手で漸く束になる程度の花を集め終えた少年は、自嘲の様な笑みを浮かべながらその花を見つめた。
――ごめんなさい。そう少年は心の中で呟いた。
少年の名は、リヒト。アルスという青年を兄に持つ、この村に住む少年だ。
リヒトは花束をしっかりと握ると、草原の奥の方に走って行った。暫く走ると、そこには小高い丘があった。そのすぐ側には、三つほどの小さな土の山が見える。 その内の一つは、最近作られたようで、周りとは土の色が違っていた。
リヒトはぎゅっと下唇を噛み、その手の中の花束を土山の前に置いた。
「ごめんね、お祖母ちゃん。ほんとはもっといっぱい摘んできたかったけど、あんまり咲いてなくて……。」
リヒトはそう言うと、そっと土山に触れた。
――なんだか、温かいや。
土山は日差しを浴びて、じんわりと熱を持っていた。……リヒトが最後に触れた祖母の身体は、あんなにも冷たかったというのに。
その時の事を思いだし、リヒトはまた泣きたい気分になった。
――半月ほど前、この大陸に『女神の奇跡』が降り注いだ。勿論リヒトも空に映し出された映像を見ていた。それを見たリヒトは、――僕らの畑も麦で一杯になったんだ!! そう思った。
リヒトは居ても経ってもいられずに、無言のままの兄を置いて畑の方に向かって走り出した。――顔を青くして呆然と立ち尽くしている兄の姿に気づかないまま。
――彼は覚えてなかった。女神が出した条件を。
――彼は気付かなかった。巫子が最初に告げた国の名の意味を。
――彼は知らなかった。己が国の愚かさを。
「――――え?」
そうして、リヒトは見てしまった。
今朝見た時と何も変わらない、自分達の畑の姿を。
……僅かながらに均衡を保っていた日常が崩れるのはあっという間だった。
自棄になった大人たちは村の食料庫を襲い、邪魔をする人間を殺し、略奪を重ね、最後には村に火を放った。
不幸中の幸いか、彼等兄弟の住む家は村から少し外れた場所にあり、その狂乱に巻き込まれる事は無かった。
だが、あの日見た村を焼く紅い炎を、リヒトは生涯忘れる事は無いだろう。
数日後、アルスが村の様子を見に行ったのだが、そこにはもう誰も残っていなかったとリヒトに語った。
彼は蒼い顔をして、「お前は絶対に村には行くな」とリヒトに言いつけた。
兄が何を見たのかを、リヒトは知らない。
――そしてアルスも、自身が見たものを弟に言うつもりは無かった。
全身が焼けただれた誰とも分からない死体や、無残な姿で息絶えた少女、首を刈り取られた幼子など、知らない方がいいに決まっている。
その日からアルスは毎日村に通った。
死体を埋め、廃墟を漁り、自分達の生活に役立ちそうなものを拾って帰る。そんな日々が続いた。アルスは心が折れそうになったが、それでも自分たちが生き残るためにはこれくらいしか手段がない。
燃え残った家から僅かばかりの食料を発見したが、それでもまだ三人の家族が冬を越す分には到底足りなかった。迫る死の季節に、焦りばかりが募る。
――ごめん、ばあちゃん。これだけしか集まらなかった。
アルスが祖母にそう告げると、彼女は何かを決意したかのような表情で、「貴方達だけは、私がどうにかするわ」と言った。
アルスはその言葉に首を傾げた。確かに祖母は野草の知識もあり、平時であれば冬の森でも食料を調達できる達人だが、今年の冷害は森にも猛威を振るった。秋の実りは少なく、獣だって中々見つからない。
だが彼は、祖母の言う事だからと、彼女の言葉を信用した。心に僅かばかりの疑念を残しながら。
恐らくは、随分と前から彼女は決心していたのだろう。アルスは今でも、その事に気が付けなかった自分を責めている。
――次の日、彼の弟が泣きながら部屋に飛び込んで、嗚咽を溢しながら告げた事実に、彼は祖母の言葉の真意を悟った。
アルスはふらふらと、祖母の部屋に向かった。
部屋の中では、祖母が簡素なベッドに仰向けに、両手を祈るように組んで眠っている。その顔は、恐ろしい程に白い。
震える手でふれた彼女の頬は、悲しい程に冷たく、受け入れがたい現実を見せつけられた。
ベッド脇の床には、見覚えのある草が散乱していた。祖母が以前「これは毒だから口にしてはいけないよ」と耳にタコができるほどに言っていた物だった。
――それから。
――それから祖母を埋葬するまでの記憶が、アルスは定かではなかった。現実感が無く、酷く曖昧な世界に自分が居る様な気さえしいてた。
短い間に色々な事が起こりすぎた。
――女神の奇跡。
――国の裏切り。
――村の崩壊。
――無残な死体の埋葬。
――そして、祖母の自殺。
アルスの心を壊すのには、十分な出来事だった。
それでもギリギリ正気を保っていられたのは、弟が居てくれたからだった。
リヒトが居なければ、きっと自分は駄目になっていた。アルスは本気でそう思っていた。
そして、逆にリヒトはそんな兄を見て、「今度は自分がしっかりしなきゃ」という使命感を抱いていた。
祖母は、自分達を生かすために死んだ。ならば、――絶対に死ぬわけにはいかない。そうリヒトは決意した。
泣いて、泣いて、泣いて、泣きながら祖母を両親が眠る丘まで兄と運んだ。そうして、何の会話も無いまま、黙々と土を掘り祖母の亡骸を横たえる。祖母の遺体は見た目よりもずっと軽く、その事が余計に悲しかった。
その後、覚束ない足取りで家に帰り、土くれが付いたまま二人で昏々と眠りについた。
リヒトが次の日起きた時に、死んだように眠り続ける兄の胸に耳をあてて、思わず鼓動を確認してしまったのは仕方ない事だろう。
起きる様子も無い兄を置いて、リヒトは丘の近くにある草原へ向かった。
――せめて、お花くらいは供えてあげたい。そんな思いを抱いて。
だが、再度この簡素な墓を目にすると、また涙が止まらなくなった。昨日あれだけ泣いたというのに、まだ足りないらしい。リヒトはそんな自分を叱責したが、堰が外れたように涙が溢れていく。
「……う、うぇ、うわぁぁ、ひっぐ、うぅ」
耐えきれずに、嗚咽が漏れた。
何もかもが悲しくて仕方がない。
祖母が死んだことも。祖母が死を選んだ理由も。村の惨状も。国の選択も。自分達の現状も。これからの生活も。全てが悲しかった。
――しっかりしなくちゃいけないのに、どうしたらいいのか分からないよ。
その問いに答える者は誰も居ない。だってこの村にはもう誰も人が居ないのだから。
「そこで泣いているのはだぁれ?」
ふいに、そんな声が聞こえた。
――誰も、いない筈なのに。そう思って、リヒトは勢いよく振り返った。
そこには、一人の女性が立っていた。
黒いローブを身に纏った、桃色の髪をした優しそうな女性だ。見覚えが無いので、村の人間ではない。
彼女は心配そうに眉を下げ、リヒトに問いかけた。
「どうしたの? そんなに目を赤くして。……何か悲しい事でもあった?」
「あ、え、」
リヒトは突然の事に上手く反応が出来なかった。
無理もないだろう。彼の目の前に立っている女性は、どう見ても普通の平民ではない。
この村に訪れた旅人は今まで何人も見てきたが、彼女の様に身綺麗な者は居なかった。それだけで、彼女が特異な事は見て取れる。
そんなリヒトの動揺を知ってか知らずか、女性は気にせずに話を続ける。
「ねぇ、よかったら私にその悩みを相談してみない?」
「――え?」
女性の突然の言葉に、リヒトは思わず疑問の声を上げた。そんなリヒトをみて、女性は穏やかな笑みを浮かべて言った。
「私はドロシー。――この国の隣国、『オズ』の魔法使いよ」
◆ ◆ ◆
「そう、お祖母様が亡くなったの」
「……うん」
リヒトが全てを話終えると、彼女は辛かったわね、と言ってリヒトの頭を撫でた。その手の温かさに、リヒトはまた少し泣いた。
「私がこの村に来たのはね、」
彼女がぽつりと話し出した。
彼女、――ドロシーは、昔に世話になった人物を探してこの村までやってきたのだと、リヒトに告げた。
あの『儀式』でこの国の名が呼ばれなかった事を心配に思い、自分の住む国に来るように誘いに来たのだという。
それを聞いたリヒトが、村が壊滅状態である事を話すと、彼女はとても落胆したようだった。
ドロシーは、残念だわ、と呟くと、リヒトをじっと見て考え込むような仕草をした。
その視線を受け、リヒトは居心地が悪そうに身をよじらせた。綺麗な女の人に見つめられるのは、少し気恥ずかしいものがある。
「貴方のお兄様は、今何歳かしら?」
彼女は唐突にそんな事を言った。リヒトは不思議に思いながらも兄の年齢を思い出す。
「今年で十五歳になるよ。それがどうかしたの?」
「……そう、これも何かの縁かもしれないわね。ねぇ、貴方達が良かったらの話だけどこの村を出る気はないかしら?」
そうして、ドロシーはリヒトに『魔王の国』への移民を進めた。話によると、彼女はオズの国でそれなりに偉い位置にいるらしく、移民に関して数人程度なら推薦の枠を取れるとの事だった。
「この村には、……いえ、この国にはもう未来が無いわ」
その事は、薄々リヒトも気づいていた。国は、民を助けるつもりが無い。兄がそう溢していた。現に他の村人は村を捨てて逃げた。
でも、こんな重要な事を一人で決めるわけにもいかない。
そう思ったリヒトは、兄が眠る家へドロシーを連れていく事にした。
――――結論から言うと、兄はその話を受けた。
手詰まりだったのは兄も一緒だったらしい。
幸いな事に、リヒトも兄も半魔族にそこまでの嫌悪感は抱いていない。アルスに至っては、今回の村の一件で、むしろ人間に対し猜疑心を抱いている節があった。
ドロシーは良い人だ。自分に何の関わりもない子供に、こんなにも親切にしてくれる。
でも、リヒトは思うのだ。
――なんで、後一日早く来てくれなかったんだろう。
一日。もしも彼女が、祖母が生きている時にこの場所に訪れたならば、もしかしたら祖母は死ななくて済んだかもしれない。もっと他の解決方法があったかもしれない。
それは考えても仕方がない事だと分かっていたが、それでもそう考えずにはいられなかった。
◆ ◆ ◆
それから数日後。兄弟はドロシーが寄越した馬車に乗り、オズの国への道程を進んでいた。
家から持ち出した荷物は、本当に僅かだった為、二人乗りの馬車でも十分に余裕がある。初めての馬車というのはとても魅力的だったが、リヒトはとてもじゃないがはしゃぐ気にはなれなかった。
――もうあの家に帰る事は無いんだろうな。とぼんやり思う。
さみしいけど、仕方がない事だと割り切るしかなかった。
話によると、希望者は半月後に魔王が国まで魔術で迎えに来てくれるとの事だった。あまりのスケールの大きさに兄弟は気後れしたが、それでもこの選択を取り消すつもりは無かった。
一応移民をするには魔王側からの面談が有るとの事だが、「君達なら大丈夫」とドロシーに太鼓判を押された。
ドロシーは先に帰路に着いたのだが、彼女は餞別に、と小さな紅い綺麗な石が付いたペンダントをリヒトにくれた。曰く、安全祈願のお守りらしい。
「絶対に手放しては駄目よ? これからきっと役に立つから」
そう再々念を押して、ドロシーは帰って行った。
リヒトはそっとそのペンダントに触れてみる。紅い石を中心に、銀色の細かい細工が取り巻いている。紅い石からじわりとした熱さが指に伝わり、不思議な気分になった。
「ねぇ、おにいちゃん」
リヒトはふと思い立ち、兄に話しかけた。
「……何だ?」
ぼんやりと外の景色を眺めていたアルスが振り返る。
連日における荷物の選定や、家の掃除等で疲れているのだろう。その顔には色濃い疲労が見て取れた。
言いたい事は山ほどあった。これからの不安だとか、お墓を置いてきた事への罪悪感とか、他にも色々。それでもリヒトは、その全ての言葉を飲み込む。
――兄も、自分と同じように不安を抱えているなら。それならば、リヒトが言うべき言葉はたった一つだ。
リヒトはいつもの様に、何も考えていない風を装って無邪気に笑って言った。
「――これからも、一緒に頑張ろうね!!」
――リヒトは知らない。
彼の言葉に、今までどれだけアルスが救われてきたのかを。
「あぁ、頑張ろうな」
アルスは泣きそうになりながら、そう返した。
しっかりとリヒトの手を握り、嗚咽をかみ殺す。
――こいつだけは、俺が守らなくては。
そう、深く心に刻んだ。何があっても、弟の事だけは自分が守らなくてはいけない。もう、たった一人しかいない肉親なのだから。
そうして、少年たちはオズの国へ急ぐ。この先に何があってもその手を離さないと誓って。
◆ ◆ ◆
「存外上手くいくものねぇ」
そう言って、女は笑った。
女の名はドロシー。先に帰路に着いた彼女は、一人部屋で酒を煽っていた。
「なぁんにも知らないで、私なんかを信用して、――――ホント、可愛い子達」
クスクスと、ドロシーは笑う。
――彼等は知らない。ドロシーが何日も前からあの村に居た事を。
彼女は兄弟が不在の間、彼らの祖母にある提案を持ちかけた。
『彼等を移民に出すつもりはありませんか?』
勿論、移民の条件は話した。老婆は面談が有る事を心配に思ったようだが、ドロシーは彼等ならば面談を通過するである事を確信していた。
特に、あの弟の方は素晴らしい。魔王に近づけさせるには、理想的な『善良な子供』だった。
移民に関しては、老婆もほぼ賛成していた。だが、ドロシーはふと気が付いたかのように悲しげに言って見せる。
『でも、貴女を置いて出ていくなんて、彼らはきっと言わないでしょうね……』
その言葉の効果は絶大だった。
それからは淡々とあの村の未来を語りながら、ゆっくりと老婆を追い詰めていった。別に死ねと言ったわけではない。ただその選択肢を選びやすくしただけだ。
ドロシーは悩む老婆に、三日後また来ると伝えてその場を後にした。
結果はこの通り。
賢明な老婆は死を選び、憐れな兄弟はドロシーの手を取り移民を選んだ。
「既に『種』は仕込んである。後は条件が揃うのを待つだけ」
冷害による風評被害で、人間側と魔王を争わせる計画は失敗に終わったが、こうしてあの国に立ち入る口実ができたのは不幸中の幸いだった。
だが、自分自身があの国に行くわけにはいかない。ドロシーは魔法使いとして学びに行くことは可能だったが、あの忌々しい超直感の持ち主に目をつけられるわけにはいかなかった。
――計画の成就まで、魔王に自身の存在を気取られるわけにはいかない。
ドロシーは天を仰ぎ、うっそりと笑みを浮かべた。
「あぁ、勇者様。もうすぐ、もうすぐ貴方にお会いできます……!!」
高らかな笑い声が部屋に反響する。狂ったように笑う彼女は、正気を失っているようにも見える。
――ドロシーという女の素性をオズの国の住人は知らない。彼女はいつの間にかこの国の中核に入り込んでいたからだ。だが、それを誰も疑問に思わない。
事が成されるその日まで、きっと気が付くことは無いだろう。彼女こそが、――全ての元凶だなんて。
――様々な思惑を乗せ、日々は流れゆく。その先に何が待つとも知らぬまま、人々は歩き続ける。立ち止まる事を許されぬままに。
第四章終了です。




