42.信仰にいたる病
――ついにこの日が来てしまった。
私室として与えられている城の一室で、ユーグは震える体を両手でギュッと抱きしめた。まるで、何かから身を守るかのように。
――いつも励ましてくれる女神様は、今は此処にはいない。彼女は、儀式に備えて神殿で祈りを捧げている。
もう既に大広間には、各国の王やその護衛が到着している。その総数三十二ヶ国。
この大陸の国の総数が五十程なので、全体の約六割が今回の儀式に参加していると言ってもいい。そしてその国とは別に、幾つかの少数民族の長が参加している。
トーリさんが、その所在をつきとめて手紙を出すことを進言したらしい。その他にも、今回の儀式に一番重要と言ってもいい役割を担ったのも彼だ。
……彼の持つ『千里眼』は、この大陸全土を容易に見渡すことが出来る。僕のただ『耳がいい』だけの力とは違って、色々な事に役立てる。それが、少しだけ羨ましかった。
それでも、魔王様はこの役に僕を推してくれた。儀式での『顔』となる役目を。
――私では駄目だから。と、魔王様は言っていた。
「私が矢面に立てば、要らぬ誤解を招く。ただでさえ色々と疑われているからね。――それにレイチェルの力を誇示するのだから、やっぱりユーグが前に立たなきゃ駄目だ。この国の巫子は、まぎれもなく君なんだから」
「……でも、本当に僕でいいんですか?僕は何も特別な事は出来ないし、その、半魔族だし、」
「儀式用の台本はちゃんと用意するさ。それにそれ以外の心配はしなくてもいいよ。ずっと私が側に居るから、連中に下手な事は言わせない。
――だからユーグは私の隣で笑っていればいい。何を言われたとしても、怯えず、屈せず、堂々としていればいいんだよ。
それにさ、この世界で私の隣以上に安全な場所は存在しないでしょう?」
魔王様は、最後にそう言って悪戯気に笑った。
その時の事を思いだすと、不思議と体の震えが治まっていく様な気がする。
――あぁ確かに、彼女の隣程安全な場所は無いだろう。そして、安心できる場所も。
思わず、口元に笑みを浮かべた。
あの人は、何時だって僕を支えてくれている。その事実が嬉しくて、少しだけ情けない気分になる。
……支えられているだけなのは、嫌だなぁ。足手纏いになんか、なりたくはないのに。
そう思っていると、コンコン、と部屋をノックする音が聞こえた。
それに、はいと返事を返す。開けられた扉から、そっと誰かが顔を出した。
――魔王様だった。
黒を基調としたドレスを身に纏い、薄くではあるがその顔には化粧が施されていた。
いつもはストレートな黒髪も、今は緩やかにカーブを描いていて女性的な空気を纏っている。
その姿が自分の知っている魔王様と別人のように思えて、少し戸惑う。確かに美しいけれど、僕はいつものラフな格好の魔王様の方が好きだと何となく思った。
「準備は出来た?そろそろ時間だけど」
「はい、大丈夫です」
装いの準備だけならば、だいぶ前に出来ていた。出来ていなかったのは心の準備だけだ。
「じゃあ行こうか。――ふふ、これもある意味初陣だね」
負ける気はしないけど、と魔王様は続けた。
初陣。そういえばヴォルフさんが、「今回の集まりは、国始まって以来の正式な外交になる」と言っていた。
……王様どうしの戦いかぁ。魔王様の戦っている姿は見た事が無いけれど、きっと格好いいのだろうな。今回はそういう集まりではないのは分かっているが、そう考えると少し可笑しかった。
「魔王様が負ける所は、ちょっと想像できないですけどね」
「いやぁ、いつもヴォルフとかにはボロ負けしてるけどね。でもこういう場でこそ、修行の成果が出せるってもんだよ。それに立ち振る舞いはシスカからレクチャーを受けたからね。どう?淑女っぽい?」
そう言って魔王様は、スカートの裾をもってくるりと回った。確かに可愛らしいが、ちょっとその、淑女はそんな事はしないんじゃないかと思う。
でもそれを口に出すことが忍びなくて、思わず魔王様から顔を逸らしてしまった。
「え、なんでそこで目を逸らすの?」
「いえ、僕の口からはちょっと……」
「えぇ……、何だよもう。――……まぁそれはそれとして、着いたよ」
「………………。」
目の前にある大きな扉を、僕はゆっくりと見上げた。いつもは何とも思わないその扉も、今は何処か排他的な雰囲気を纏っている。――まるで、此処から先は通さないとでも言いたげに。
恐ろしくないと言えば嘘になる。この先に居るのは各国の一番偉い人達なのだから。
今さら『自分は半魔族だから』などと弱気な事を言い出すつもりは無いけれど、僕の失態で魔王様の評価が下がるのだけは、絶対に嫌だった。それだけは、何としても避けなければ。
思わず握りしめた右手に、そっと彼女の左手が添えられた。温かい、手だった。
指先から伝わる体温に、言い様のない安堵感を感じる。
魔王様は僕が不安そうにしていると、いつも頭をなでたり、こうしてそっと手を握ってくる。その度に、僕は顔も覚えていない母親を幻視してしまう。
もし母親がいたならば、同じようにしてくれたのではないかと、そう考えた事もあった。
でも、そんな事があるわけがない。望まれない子供を愛する親なんていないのだから。
それを思い知るたびに、僕は彼女の優しさに依存してしまう。だからこそ、僕はこの手を振り払われるのが、この世で一番恐ろしい事だと信じて疑わないのだ。
「大丈夫」
魔王様はそう言って、いつものように笑った。
「魔王様……」
「胸を張れ、俯くな。――ここは私たちの支配領域なんだから。……ほら、何を怖がる事がある? 堂々としていればいいさ。そうだろう、我が国の巫子よ」
そう芝居がかった口調で、魔王様は僕に告げた。
こういう時の魔王様は、実は本人も緊張しているのだと、女神様が前に言っていた。あの口調は、自身を鼓舞するための暗示なのだとも。
本当は、自分に正直でとても分かりやすい人の筈なのに、肝心な時に本心を語ろうとしない。自分の中だけで解決しようとする。なまじ力が強大だから、それでも何とかなってしまっているのが現状だ。でも、本当はそれじゃいけない筈だ。
――不器用な人だなぁ、と思う。
でもそんな人だからこそ、僕はずっと一緒に居たい。今はその背中を追いかけるだけだけど、力は及ばずとも、いつかはその背を支えてあげられたらと思う。それだけが、僕の望みなのだから。
たとえその先に何があろうとも、決して諦めたりなんかはしない。絶対に。
――雛の刷り込みの様だ。
魔王様はかつて僕にそう言った。でもそれが何だというのだろうか。たとえこの気持ちが刷り込みであろうとも、僕がそれを願っているのなら何も問題ない筈だ。
そう考えたら、今回の事なんて大した事が無い。だから、きっと大丈夫。
「行きましょうか、魔王様」
僕はそう言って笑った。出来る事なら、上手く笑えていればいいと思う。
◆ ◆ ◆
神聖歴347年 長の月 十二日
――奇しくもこの日が、王国ディストピアが『国』としての活動を正式に開始した日として、歴史に刻まれる事となる。
――この日起こった『奇跡』については未だに議論の的となっているが、当時の記録としては『巫子が女神の力を行使した』と伝えられている。
だが、後の調査によりそれは不可能であったと巫術の専門家は語っている。それこそ、巫子自身が神そのものでない限りは無理であると。
多くの専門家は、魔王アンリが『奇跡』を実行し、巫子とは体の良い代役だったのではないかと予想しているが、実際の所『誰』が『何』をしたのかは正確には判明していない。
ただ一つ言える事は、この出来事により人間側の半魔族の迫害意識が極端に減った事だけは確かだった。
今週中には次話投稿できるかも……?




