38.誰がために神は祈る
神聖歴347年 長の月 某日
大陸北部の農村の村は、深刻な事態に陥っていた。
本来、小麦は秋に種を蒔き、春に収穫する作物だ。なので比較的暖かい地域においては、自国内に限定すれば飢饉は逃れられるだけの貯えはあった。そのかわり、野菜などの作物はほぼ全滅に近かったが。
だが、中には春から秋にかけてでしか麦を栽培できない地域がある。そう、冬の寒さが厳しい大陸の北部の国々だ。
今までならば、他国に援助の申し入れをすれば何とか生きながらえる事が出来た。
しかし、ここ数年続く凶作。そして今回の冷害。どの国も、備蓄などあって無いようなものだった。自分たちが冬を越すための食料を、――他の国に回す分など、用意できる訳がない。
ここままでは、村の何割が死ぬ事になるのだろうか。……考えたくもない事だった。
――村の青年、アルスは幼い弟と年老いた祖母と共に、その村で暮らしていた。
両親は、弟が生まれてすぐに魔族に殺された。まだ幼かった彼は、嘆きながらも、生きていくために必死で彼らが残した畑を継いだ。
だが、その努力はこうもあっさりと自然の力に踏みにじられる事になる。
折角、『魔王』が死んで希望の光が見えてきたというのに。
……俺達が一体何をしたというのだ。結局は死にゆく運命だったとでも言うのだろうか。そう思うと、やりきれない怒りが喉の奥までこみ上がってくる。
「――――ふざけるなよ!!」
だんっ、と作物を収穫し終えた畑に、両手を叩きつけた。自然と目に涙が浮かんでくる。
自分が餓えるのは、まだいい。でもこのままでは弟と祖母が危ない。三人もの人間が冬を越せるほどの食料を、村の連中が分けてくれるとも思えないからだ。
別に、彼らの意地が悪いからとか、そんな理由じゃない。ただ、他人の心配をしていられる状況じゃない。それだけだった。
誰かが悪いわけじゃ無い。そんなのはよく分かってる。だからこそやりきれない。
途方もない悔しさに、抑えきれない嗚咽がもれた。
「――うぅ、うあぁ、うわぁぁぁぁぁぁ!!!!」
何で、どうして俺達ばかりがこんな目にあわなくてはいけないんだ。人並みに生きていく事すら許されない程、悪い事をした覚えなんか無いのに。
……つらい、苦しい、誰か助けてよ、――――神様。
そこまで思い、アルスの顔には渇いた笑みが浮かんだ。
――いくら神に祈ったところで、彼らが俺達を助けてくれた事なんかない。奴らは何時だってただ見ているだけだ。両親の時だってそうだった。俺はそれを、悲しいくらい知っている。
ギリギリと土を握りしめ呻いていると、ひらり、と何かが目の前に落ちてきた。
――冷害の次は、季節外れの雪だとでも言うつもりか。そう憎々しげに思い、立ち上がって涙を拭って空を睨みつけた。
「…………な、」
雲一つない晴天に、白い何かが舞っていた。その不思議なほどに幻想的な光景に、目を見開く。
思わず落ちてきたそれを手に取ってみると、それはふわりと溶けた。でも冷たくはなく、どこか暖かい気がする。
……雪ではないのか?これは雪というよりも、花びらに近い形をしている。でも、何故こんなものが?
呆然と立ちすくんでいると、その空の景色がいきなりぐにゃりと歪んだ。
そして、白い花びらがクルクルと円を描くようにして、一ヶ所に集まっていく。
集まった花弁は、空高くでゆっくりと光を放ちながら形を作っていき、一つの人の形を作り上げた。
白き幾重にも布が重ねられた、荘厳な神子服を身に纏うその女性は、眼下をゆっくりを見渡すと、穏やかに微笑んだ。
――似たような光景を、以前見た事がある。そう、一年半ほど前のアンリ様の時だ。
あの時もこんな風に空に映像が映し出されていた。
アンリ様からは畏怖と憧憬を感じたが、今映っている彼女からは言葉で表せない安心感を感じる。
彼女を見つめているだけで、止まった筈の涙がまた流れてくる。悲しいのではなく、――何故か落ち着くのだ。神聖なのに、何処か懐かしく、それでいて暖かい。
『皆さん。――私の声が聞こえますか?』
その女性は、優しげな声で話し出した。
『こうして人前に姿を現すのは、もう何百年ぶりでしょうか。少しだけ、緊張しますね』
両の手を祈るように組み、その女性は恥ずかしそうに笑う。その仕草一つ一つが、あまりにも神聖なものに見えて、震えが走った。
『私の名は、レイチェル。――あなた方が《救済の女神》と呼んでいる者です。この度はとある方の力を借りてこの場に立っています。どうしても、話がしたくて』
「め、がみ、さま……?」
呆然とそう呟く。あまりにも現実離れした展開に、絶望した頭が見せた夢だとしか思えない。アルスは思わず目を擦ったが、それでも空の映像は消えない。
女神様の言葉を聞きながら、アルスは自分が知らない間に跪いていた事に気が付いた。そして、その事を疑問に思ってすらいない事に驚く。それだけ、女神様の神気に当てられていたというなのだろうか。
『今年の夏の冷害は、大陸に酷い爪痕を残しました。それは皆さんもよくご存じかと思います』
痛ましそうに目を伏せながら、女神様は続ける。
『私はまだ若輩ではありますが、それでも《救済》の名を冠した神です。皆様の力になりたいと、ずっと嘆いていました。――ですが、私の力が足りず今までどうする事も出来ませんでした』
……でも、レイチェル様はちゃんと俺達の事を助けてくれたじゃないか。
アンリ様を、『勇者』をこの世界に呼んでくれた。少なくとも魔族に怯えなくてもいい様になった。アンリ様は何故か偉い人達からは疎まれているけど、素晴らしい方なのだとこの前来た吟遊詩人も言っていた。こうやってまた自由に旅ができるようになったのは、アンリ様のお蔭だと。少なくとも、アルスはそう思っていた。
『私は今、盟友であるアンリと共に行動しています。彼女も今回の事に快く協力してくれました。
――彼女の国、ディストピアに、新しくできた私の神殿があるのです。そこに、私の声を聴くことが出来る巫子が居ます。彼は私の力を行使できる唯一の巫子です。彼の手助けがあれば、今の私でも神としての力を行使する事ができます。……でもそれはどう頑張っても国内のみにしか干渉出来ないのです』
女神様は、続ける。
『ですが、その壁を一時的に取り払う方法が、たった一つだけあります』
すぅっと顔を上げると、女神様はゆっくりと右手を差し出した。
『国を治める全ての方に願います。――――どうか、私の神殿に祈りに来てください。ただそれだけでいいのです。それだけで、多くの人が救われます。無事に、今年の冬を越せるのです。私も、アンリも、見返りなど何も要求したりしません。女神の名においてここに誓いましょう』
……これが、この話がもし本当だというのならば。彼女が本物の女神だというのなら。
俺達は、死ななくてもいいのか? 弟は、祖母は、餓えずに済むのか。だとしたら、--なんて素晴らしいのだろうか。
ぼんやりと、アルスは思う。まるで夢を見ている様な気分だった。
『一週間後に、私の巫子が神殿にて儀式を行います。その時に神殿の中に居てくれるだけで構わないのです。……この期を逃してしまうと、あと百年はこの世界に干渉する事が出来なくなります。これが、一度きりのチャンスなのです。
詳細に関しては、明日に手紙を送らせます。――――どうか、ご検討を』
女神様はそう言うと、神子服の端を両手で軽く持ち上げ、綺麗に礼をした。
礼をした瞬間、女神様の左足付近が白く輝いた。その場所から、キラキラと空に溶けるようにゆっくりと消えていく。その光景があまりにも美しくて、思わず
息を呑んだ。
それからどれくらいの時間が経ったのだろうか。太陽の位置が大きく変わっても、俺は先ほどの感動の余韻から抜け出せずにいた。
「お兄ちゃん!!」
空から目を離せずにいると、背後から声を掛けられた。弟のリヒトだった。
「さっきの見た!? 女神様、すっごい可愛かったね!!」
腰に抱きつき、興奮した様子でそう捲し立ててくる。
……あまり信心深くない俺ですら感動したというのに。感想がそれでいいのか、弟よ。アルスはそう思い、呆れた目でリヒトを見たが、直ぐに違和感に気が付いた。
よく見ると、リヒトの目が少し赤く腫れていた。もしかしたら、自分を心配させないように空元気でいたのかもしれない。
「あのね、お祖母ちゃん泣いてたよ。早く帰ろうよ」
「――あぁ、そうだな」
アルスは返事をして、リヒトの小さな手を握った。
――早く祖母の待つ家に帰ろうか。今日はきっと、穏やかな気持ちで過ごすことが出来るだろうから。
アルスはそう思い、微笑んだ。
リヒトは久しぶりに見た兄の笑顔を見て少し驚いたが、その事は顔には出さず、ただしっかりと兄の手を握り返した。――ずっと、兄が笑っていられるような日々が続けばいいな、と思いながら。
――この日、誰もが安堵した。もう飢餓に怯えなくてもいいのだと。そう考えて。
少なくとも今回に限っては何も心配しなくてもいいのだと、みんなそう思っていた。
……だが、忘れてはいけない。女神の救済を受けるためには、唯一にして絶対なる条件がある事を。
――――あの条件を呑める王は、果たして何人居るのだろうか?




