23.ある女の心情
――フランシスカは目の前の光景に焦りを覚えていた。
彼女が逃亡先に、かの悪名高い魔王が治める国、――『ディストピア』を選んだ事に大した意味は無い。
半魔族とか、人間だとか、そんな事は考えていなかった。あの時の彼女の頭の中は、父の事と兄の事、何も出来ない自身に対する嫌悪感で一杯だったから。
『力』がある癖に、何も出来なかった自分。使用を兄に止められていた、――そんな事は言い訳にもならないだろう。そうフランシスカは思っていた。
純粋に役に立たないと思われていたのか、ただ心配されていたのかはわからない。でも、力を使っていればきっと何かが変わっていた筈だ。……今更何を言っても遅いのだけれど。
――『家族』が居ない世界に、生きている意味なんてない。
フランシスカはあの魔王の宣告を思い出していた。『立ち入るものは、絶対に許さない』確かにそのような事を言っていた。ああならば、――それも構わない。
だから、彼女は愚かにも思ってしまった。あの国に侵入した挙句、魔王に手を出せば、――きっと自分の事を殺してもらえると。
挑発も反抗も魔眼の使用も全部、――遠回りな自殺のつもりだった。この国の人たちにとっては迷惑極まりなかった事だろう。
でも、対面した魔王があまりにも普通に見えたから。
――だから馬鹿な私は期待してしまった。もしかしたら、彼女は私の話を聞いてくれるのではないかと。――ああ、なんて浅ましい考えだ。
虫がいい話なのは彼女自身も分かっていた。分かっていたけれど、もうフランシスカはどうしたらいいのかがわからなかった。
だって、魔王は自分を殺してくれなかったから。此処に死のうと思って来たというのに。……でもこんな考えはくだらない八つ当たりに過ぎない。本当に私は救えない愚か者だ。
だがこの国、いや、この魔王だけが唯一、兄を助け出せる可能性がある。それだけは確かだった。
だからこそ、最初は少し自棄にもなりはしたが、交渉の段階まで持ってこれたのは、素直に奇跡だとフランシスカは思った。
きっとこの温厚な魔王であれば、兄とも良好な関係を築くことが出来るだろう。そんな未来さえ、夢想した。……あくまでも、引き受けてくれればの話だというのに。
だがしかし、その思いも束の間、魔王は黙りこくって何も反応を示さなくなった。
それどころか、魔王はフランシスカの目の前で頭を抱えだしてしまっている。何も聞きたくないとでも言いたげに。
予想外の事態に、フランシスカはもう本当にどうすればいいのか分からなかった。そもそも、魔王がこんなにも人間臭い行動を取るなんて思いもしなかったから。
だが魔王は暫くそのままの体勢でいたかと思うと、突如前触れもなくゆっくりと起き上がった。
ふらふらと、ゆらゆらと、幽鬼のように立ち上がる。
そしてフランシスカをその暗い視線で捉えると、ニコリと笑って見せた。
――――瞬間、彼女の背筋におぞましいほどの寒気が走った。
別に先ほどの様に凄んでいるわけでもない。殺気が混じっているわけでもない。
どう見てもただの笑顔だというのに、何故こんなにも恐ろしいのだろうか。
「ま、魔王様?」
「林檎、」
「え?」
「林檎美味しかった?――ほら、食べたって報告があったからさ」
「あ、ええ、お腹が空いていたのでつい」
「あれはね、私が品種改良した林檎なんだ。普通のよりも甘かったでしょ?自信作なんだよ」
「そ、そうですの。ええ、とても甘くて美味しかったですけれど……」
「えへへ、よかった。流石は罪の果実と呼ばれるだけあるよね。そりゃあ、イヴだってつい食べちゃうはずだよ。ん?あぁこれは言ってもしょうがないか。ごめんね変な話しちゃって」
魔王は笑顔を崩さない。その声音も、特にフランシスカの窃盗行為を責めたてる様子もない。ただの自慢話の様にしか聞こえないのに。――それが余計に不気味だった。
「でもさぁ、個人的にはずっとそんな風に好きな事をしていられたら良かったんだけど、人が増えたらそういう訳にもいかなくてさぁ。人生って中々難しいよねぇ」
「あの、」
「だから、――君は私が遊んで暮らせるように尽力してくれるんだよね?」
魔王が笑顔でフランシスカに問いかける。否定など、許さないとでも言いたげに。
「それは、勿論でございます」
フランシスカは、そう答える事しか出来なかった。――それしか、答えられなかった。
だがそれにしても、トントン拍子に話が進んでいく。それもフランシスカにとってかなり有利な方向へ。――だが、嫌な予感しかしないのは何故だろうか。
何か取り返しのつかない事が起こっている。そんな気がした。
「良かったぁ。これで交渉成立だね。――他の連中は私が黙らせておくから心配はいらないよ。後でしっかりと打ち合わせをしようか。
あ、でも念のため魔眼の事もあるし、制約だけは掛けさせてね。そうしないと納得してもらえないからさ」
「はい、それで構いませんわ」
制約といっても魔眼の使用禁止と虚偽の報告の禁止くらいだろう。それ以上の制約は術者にかなりの苦痛を伴った反動が来ると聞くし。
命を懸ける制約はショック死の危険もあるとされ、今では禁術とされている筈。いくら魔王といえど、使う筈がない。そうフランシスカは考えていた。
「それじゃ、制約を掛けるから復唱してね?」
「はい」
これは夢なんじゃないのだろうか?こんな自分に都合がいいようになるだなんて。でも、これでお兄様は助かる。――助かるのだ。そう、フランシスカは喜んだ。
だが、後でいっぱい兄に怒られるのだろうと思うと、フランシスカは少しだけ憂鬱になった。
――でもまた兄と一緒に居られる。それならば私はどんな場所だって構わない。あぁ、本当によかっ――、
「――【自らの主観において、魔王、及びディストピアを裏切る行為をした場合、自身の兄を殺して己の命を絶ちます】はい、復唱」
「え?」
「ん?聞こえなかった?もう一度言おうか?」
魔王が不思議そうに首を傾げる。聞こえなかったわけではない。聞こえていたからこそ聞き返したのだ。
「しょ、正気でございますか?そんな生死のかかった制約を掛ければ貴方にも反動が――、」
「?たかだか四肢をもがれる程度の痛みだよ?何をそんなに騒ぐの?」
何か問題あるの?とでも言いたげに魔王は言う。
――見誤っていた。この人は、いえ、このお方はどんなに優しく見えようとも結局は『魔王』でしかないのだ。
様子が一変したのは、明らかにあの瞬間だ。
……もしかしたら、私はとんでもないものを起こしてしまったのかもしれない。
そう思い、フランシスカは引き攣った笑みを浮かべた。
「あぁ、因みにこの『裏切り』っていうのは深く考えなくてもいいよ。悪意をもって行動を起こさない限りは許してあげるから。私って優しいよね。そう思わない?
――ふふっ、でも助かるよ本当に。私は政治関係には本当に疎いからねぇ」
――だからさ、と魔王は続ける。
「これからは私の為に死ぬまで尽くしてね!!」
子供の様に無邪気に、楽しそうに、嬉しそうに魔王はそう言ってのけた。
得体の知れない焦燥感がフランシスカを支配する。――この人は、危険だ。
――ああ、このお方は私如きが関わっていい存在ではなかった。
――触れてはいけないモノだったのだ。
◆ ◆ ◆
結局、フランシスカは逆らえずにその制約を結んだ。元より逆らうつもりはあまり無かったのだが、これで完全に首輪を繋がれた形になる。
ただ恐ろしかったのは、その術を掛ける時に、魔王の表情が少しも崩れなかった事だ。まるで、こんな事は日常茶飯事だとでも言いたげに。
その後、城の中にある個室に案内され、しばらくは此処から出ずに生活するように言いつけられた。その時のフランシスカはもう疲れ切っていて、魔王の言葉に頷く事しか出来なかった。
フランシスカは、ぼふん、と柔らかなベッドに腰掛け、思わず両手で顔を覆った。
「お兄様。私、少しばかり早まったかもしれません……」