113.天の力でなくてはと思うことを、人がやってのけることもある
「状況はどうだ」
神殿にある卓上に、資料や道具類を乱雑に並べながら、ヴォルフは魔王の戦いを『見て』いるトーリにそう問いかけた。
「あまり芳しくはない。かなり押され気味かな」
トーリの表情は厳しい。普通に考えれば、好きな人が傷つく様を黙って見ているのは確かに心苦しいだろう。
「ならば『加護』の使用も時間の問題か……」
誰もがあの作戦に納得はしているものの、ヴォルフの心は晴れない。
果たして女神レイチェルがこの世界から居なくなることによって、どれだけの人達が絶望することになるのだろうか。
これ以外に方法がなかったとはいえ、最後に彼らの背を押してしまったのはヴォルフなのだ。責任を感じるのも致しかたないことだろう。
そんなヴォルフに、トーリは労わるように声をかけた。
「大丈夫だよ。霊廟にはユーグとヘイゼルが控えている。何の問題もなく、儀式は完遂されるはずだ」
トーリはヴォルフが別のことを心配しているかと思ったのか、全く的外れな返答をしてきた。確かに呪いを付加する儀式のことも心配ではあるが、それはそこまで気負ってはいない。
「女神が組み上げた術式だからな。そこまで心配はしていない。むしろ気がかりなのは、その後のヘイゼルの仕事の方だ」
そう言ってヴォルフはため息を吐いた。勇者に遠距離からの一撃を加えることが出来るのは、ヘイゼルしかいない。そうは思うものの、女神の死や、外せば全てが台無しになるというプレッシャーに彼は耐えきることが出来るだろうか。
「大丈夫だって、あいつはっきり言って魔王様よりも図太いから。昨日の夜だっていきなり呼び出して作戦に組み込んだけど、びっくりするくらいいつも通りだったろう? 心配する方が損だよ」
「……それもそうだな」
城に呼び出した際に「ぶっちゃけ眠いので簡潔にお願いします」と悪びれもせずに言い切った時は、最後の切り札を彼に任せていいのか本気で悩んでしまった。今となってみれば、それくらいメンタルが強くなければ駄目なのかもしれない。
「女神の呪いは一応『敵』に対してのものと聞いてはいるが、それでも使用者に影響がないというわけでないはずだ。魔力による抵抗力や、呪いに飲まれないだけの心の強さがなければ、あの短剣に触れることすら難しいだろう。そう考えると、やはりヘイゼルが適任か……」
「敵に回すには恐ろしい精神性だけどね。あの手のタイプは戦士に向いてるよ」
魔王はヘイゼルのそのぶれない精神を高く評価していたが、それをあまり間近で見たことがないヴォルフにとっては、どことなく恐ろしいもののようにも思える。だがトーリが言うように、味方でいる内はとても頼れる仲間なのだ。変に疑う必要はないだろう。
「僕はそっちよりもアレの方が心配だったね。ほら、あの結界。魔王様が結界を張った時は冷や冷やしたよ。全部台無しになるかと思った」
「魔王様が張った結界は、『神の力』は素通りする。……『祝福』もそれに含まれていて本当によかったな」
「元々『千里眼』はあの人の魔術を突破できてたからね。今回も大丈夫だろうとは思ったけど流石に肝が冷えたよ」
やれやれ、と肩を竦めながらトーリは言った。
それと同じくらい危惧していたのは、あの結界の能力だ。あの結界は内外からの干渉をすべて零にする。それはすなわち、こちらの攻撃――最後の切り札が使えなくなることを意味する。……まぁそれも杞憂ではあったが。
「あの結界を張っているのは魔王様だからね。いざという時の為にベヒモスに破り方くらいは教えておくはずだとは思ったけど、当たっていてよかったよ」
「同等の魔力振動を与えて、転移の術を仕込めるだけの小さな穴を開ける、と言っていたがその手の類はいまいちよく分からんな。まぁ、可能であればそれでいいんだが」
何はともあれ目下の問題はすべてクリアしている。後は、ヴォルフ達の想定どうりにことが進んでくれれば助かるのだが、最後まで気は抜けない。
そんなことを考えながら、ヴォルフはふと思いついたかのように言った。
「――『祝福』とは一体何なんだろうな」
「何いきなり?」
ヴォルフの言葉に、トーリは首を傾げた。
「魔王様は戦いが始まる前に『古の神々は今を生きる人間に干渉できない』と仰っていた。ならば俺達のこの力は、一体誰が遣わした物なのか。……こんなことを言うと笑われるかもしれないが、俺は思うんだ。『祝福』を持つ俺達が、この世界の命運を担う場にいることは、きっと偶然ではないのだと」
「珍しいね、ヴォルフが運命論を言い出すなんて」
トーリがそう茶化すと、ヴォルフはばつが悪そうに「だから言いたくなかったんだ」と不機嫌そうに言った。
「まぁでも、それも強ち間違ってはないかもね」
何かのお膳立てを疑いたくなるくらい、彼女の元には優秀な人材がそろっている。まるで、彼女を『神様』に仕立て上げたいかのように。
……流石にそれは穿ちすぎか、と首を振りながら、トーリは小さく息を吐いた。
――勇者と魔王の戦いも、そろそろ終盤に差し掛かっている。
負った傷の数は彼女の方が圧倒的に多く、やはり元々の実力差が徒となっているのだろう。一方勇者はそこまで目立った傷はないものの、魔力の供給を絶たれたためか、最初よりは魔力の残量が減っているように見えた。
当初の想定よりは相手の力は削れなかったものの、そろそろ彼女も限界が近い。となると、やはり加護を使うしか方法はなくなってくる。――たとえ彼女がそれを望まなくとも。
「…………」
トーリには、少しだけ不安に思うことがあった。
もしも、最後の最後で彼女が『加護』を発動することを厭うたら――。
そこまで考えて、トーリは頭を振った。そんなことはありえない。彼女は大局が見える人間だ。いくら心では反発しようとも、必要なものの取捨選択だけは間違えない。そうトーリは信じている。
――そして、その瞬間は訪れた。
軸足を深く切り込まれ、瓦礫だらけの地面に転がるアンリ。あの傷では、いくら治癒術を重ねても、動き出すのには時間がかかる。
彼女は一瞬だけ悔し気に唇を噛みしめ、悲しみの浮かんだ表情をし、ぎゅっと目を瞑って――血にまみれたリボンを千切りとったのだ。
◆ ◆ ◆
――体は当に限界を超し、自分がどうやって動いているのかすら分からなくなる。ただ己の本能に従って凶刃を避け、相手の懐へ飛び込んでいく。
そろそろ潮時なのは分かっていた。それでも踏ん切りがつかない。
自分の血でどす黒い赤に染まってしまった水色のリボンは、まるでこの後のレイチェルの姿を連想させて、胸を重くさせる。本当は、こんなものを使わないままに勝ってしまいたかった。
別に勇者の力を軽くみたわけでも、自分の力を過信していたわけでもない。甘いことを言ってるのは分かっている。それでも一縷の望みに賭けてみたかったのだ。
確かに次善策はある。この身代わりの加護を使用したとしても、聖杯さえきちんと継承できれば、またすぐに会えるかもしれない。そう思うも、心が拒否をする。
――まるでこのリボンを解いたら、レイチェルを完全に失ってしまう様な――そんな感覚がしてならないのだ。
だが私がいくらそう思おうとも、刻一刻と終わりは近づいてくる。
くらりと視界が揺れた瞬間、死角から現れた刀に、足ごと切り飛ばされた。剣圧のせいでごろごろと無様に地面を転がる。
傷はだいぶ深い。これでは治癒術で再生しても神経の方が動きについてこれないだろう。
ほんの一瞬だけ、悩みはした。けれど、すぐに結論は出た。レイチェルがこの場にいたならば、きっと彼女はこう言ったことだろう。「もういいんですよ」と、全てを許すような声音で。
――悔しいなぁ、本当に悔しくて仕方がない。私に力さえあれば、こんな選択肢は取らないで済んだのに。私が弱いから、私が勝てないからレイチェルは死ぬことになるのだ。なんて、無様な。
――ごめんなさい。ごめんなさい。ありがとう。さようなら。
「――また、いつか」
小さくそう呟いて、私は血に染まったリボンを引きちぎったのだ。
◆ ◆ ◆
「――そう、それでいい」
レイチェルは、霊廟の中でぽつりとそう呟くように言った。
「女神様……?」
その言葉を聞きとったユーグは、不安げにレイチェルに問いかけた。レイチェルはユーグに微笑みかけながら、穏やかな声で言った。
「ユーグ。――後のことは頼みましたよ」
レイチェルがそう言った瞬間、彼女の着ている荘厳な神子服が、じわじわと紅に染まりはじめた。それと同時に、むせ返るほどの血臭が部屋の中に充満していく。
頬は裂け、手足はあってはならぬ方向へと曲がり、息を吐き出すたびにどす黒い血が口から流れ落ちていく。視界は白く濁り、手元くらいしか見えそうになかった。とてもではないが、生きている人間が正気を保てるレベルの傷ではない。
レイチェルは、己の親友はいつもこんな目にあっていたのかと、今さらそんなことを考えた。
意識を保てる間に、胸に抱えていた短剣をぎゅっと握った。
――これが私の最後の仕事。大切な親友へと送る、最初で最後のプレゼント。喜んではもらえないと思う。けれど、悲しんでくれるならそれでいい。
一年に一度くらいでいいから、私の為に泣いてくれるなら、それだけで本望だ。
レイチェルは声にならない声で呪文を紡ぐ。もはや声帯は正しく機能をしていない。彼女を形作る魔力だけが、呪文を築き上げていた。
――そんなレイチェルの様子を、ユーグは泣くのを耐えながら見つめていた。
勿論それは比喩であり、ユーグにレイチェルの姿自体は見えない。だが、見えはしないけれど、レイチェルに起こっている事態は何となく把握していた。
まるで部屋中に血をぶちまけたかのような、濃い血の匂い。ぴちゃぴちゃとレイチェルがいるであろう魔法陣の上から聞こえる、大量の水滴が落ちる音。うめき声にも似た、女神の呪文を紡ぐ声。何が行われているかは明白だった。
けれど、この光景を直接ユーグが見ることが出来なかったのは、ある意味幸運なのかもしれない。
もしもユーグがレイチェルのこの現状を正しく『見て』いたならば、発狂は免れなかっただろう。
身代わりの加護を請け負った瞬間ならば、まだいい。それだけならものすごく酷い怪我をした人くらいの認識で済んだ。だが、今のレイチェルは駄目だ。
彼女が呪文を紡ぐたびに、傷口から黒い膿が流れ出すようにして、短剣へと吸い込まれていく。それを何度も、何度も、何度も、何度も、繰り返し、レイチェルの体はぐずぐずに溶けるように、爛れていってしまっている。それは一体如何ほどの痛みなのか。とてもではないが想像がつかない。
ただ一つ言えるのは――拷問の責め苦とて、ここまで悍ましいものではないということだけ。見るに堪えないどころか、見る者を汚染するかのような混沌とした空気を身に纏っている。これが『救済の女神』の成れの果てだなんて、きっと誰も信じられないだろう。
――全身を削ぎ取られるような痛みに耐えながら、レイチェルはようやく最後の文言を唱えあげた。
ふっと体から力が抜ける。終わりの時が来たのだと、すぐに分かった。
死ぬことはそこまで怖くはない。だって、二度目のことだから。ただ、このどこへ行くのか分からない不思議な感覚だけは、二度目だろうと慣れなかった。
ぼんやりと、もう見えぬ目で前を見やる。――大事な巫子が、泣いている気がした。可哀想なことをしたと、今でも思う。
だからどうか――自分に神としての力が残っているのならば、彼らの為に願いたい。
「しあわせに、なりなさい」
それはもう、まともな言葉になんてなっていなかった。それでもユーグは音ではなく、神託として聞き取ったのか、泣きそうになりながらその言葉に頷いたのだ。
――これは『祝福』だ。自分が犠牲になるのだから、その分幸せにならないと許さないという、自分勝手な我儘だ。でも、一度くらいはいいだろう。それくらいは――許されてもいいはずだ。
そしてレイチェルは穏やかに微笑みながら、そっと意識を手放した。
それと同時にレイチェルだったものの残骸が、短剣に纏わりつくようにして、何かをの形を作り上げていった。
どす黒い色に染まった短剣は魔法陣上にふわりと浮き、祭壇の上に置いてあった竜族の島から貰ってきたご神木の枝と、今朝アンリから渡された白い羽が共に踊るようにくるくると回っている。
それらはやがて淡い光を放ち、一つに纏まったかと思うと、カラン、と音を立てて下に落ちてしまった。
ユーグはその光景を、ただじっと見つめていた。
――少し刀身が大きく見える、槍の先の様な矢じり。白く輝く矢羽。そして矢羽の手前に括り付けられひらひらと舞う聖骸布の断片。あの短剣がこうも変わるのかと、少しだけ驚いた。
ふらり、と誘われるかのように魔法陣の上へと近づき、そっとその矢を手に取った。儀式が終わったら、矢に触れずに外にいるヘイゼルを呼べと言われていたけど、その誘惑には抗えなかった。
途端に、ユーグの目からはあふれんばかりの涙が流れ出してくる。
「女神、さま……」
もう彼女はどこにもいない。この一本の矢に成り果ててしまった。そのことが、どうしようもなく悲しい。
息苦しくなるくらいに、胸が締め付けられる。どうにかなってしまいそうだった。そのままぼんやりとする目を閉じようとしたその時、頭上から声が聞こえてきた。
「やめときな。――飲まれるから」
そう言って、ヘイゼルはユーグの手から矢を取り上げた。そして、いきなり襲ってきた喪失感に、ユーグはふらりとその場に膝をついた。
「あ、僕は……何を」
「憐れんだり、嘆いたりすれば、この矢は際限なく持っているものの力を吸い上げる。さながら限度を知らない子供のように。……あー、これ本当に俺が使うのかぁ。やだなぁ」
最初の真面目な口調とは打って変わり、ヘイゼルはそう言って嫌そうに矢を見つめた。
あまりの言い草に、ユーグは不満の籠った目でヘイゼルを見つめた。この矢は女神様が命を以て作り上げた大事な物なのに、そんな言い方はあんまりだ。
ヘイゼルはそんなユーグに苦笑すると、そのまま空いている手でぐしゃぐしゃとユーグの頭を撫でた。
「さ、泣いている暇があるならさっさとあっちに向かおうか」
「……元気ですね」
嫌味ではなく、本当にそう思った。この作戦で、一番重要な役割を担うのは、間違いなくこのヘイゼルだ。それなのに、なぜこんなにも軽快でいられるのだろうか。
「ユーグは巫子としての仕事を。魔王様は王様としての仕事を。そして俺は狩人としての仕事をしようとしている。なんてことはない、いつも通りさ」
今回は急所限定じゃなくて、ただ当てればいいだけだから楽だしねー、と付け加えながら平然とイゼルは言った。
あまりのことに開いた口が塞がらない。だが、そんなヘイゼルの姿を見て、何となくではあるがユーグは少しだけ気が楽になったのだ。彼ならばなんとかしてくれる――そんな思いさえ湧いてくる。尊敬、というには少し違うが、すごい人だとは思う。
気が付いたら、ユーグはヘイゼルに問いかけていた。
「……僕達は勝てるでしょうか」
「勝てるよ。絶対に」
そうヘイゼルは断言した。彼はきっと何一つ勝利を疑ってなんかいない。あまりのことに、ユーグは目を見張った。強がりではなく、この人は本気で心の底からそう思っている。
「魔王様が命がけで戦っている。女神様も願いに殉じた。これで勝てなきゃ出来の悪い喜劇だ。――がんばったら、がんばっただけ報われるべきだって魔王様も言ってたしね。俺達はやるべきことをやって、どんと構えていればいいよ」
そう言い切ったヘイゼルを、ユーグは眩しそうに見上げた。――魔王様達がこの人を高く評価していた理由が、ようやく分かった気がしたのだ。
「そう、ですね」
そう返すのが精いっぱいだった。きっとあの優しい女神様も、ユーグ達が嘆き悲しむことよりも、前を向いて笑って生きてほしいと願っている。
――しあわせに、ならなければいけない。
だから今は信じよう。過ぎてしまったことを悲しむのは、全部終わった後で構わない。
――そしてユーグとヘイゼルは、満を持してヴォルフ達と合流したのだ。




