111.不幸を治す薬は希望より外にない
――夢を見ている。ただ漠然とそう思った。
ふわふわとおぼつかない思考の中で、明るい光の差す方へと足を進める。不思議と危険だとは思わなかった。――だってここはとても懐かしい気配がしていたから。
道が開けて、木や草が生えた獣道に出た。私は真っ直ぐに足を迷いなく進める。
その先に小さな茶室のような建物があった。
まるで私はかって知ったる人の家とでもとでも言うように、下にある小窓から茶室の中に入った。真新しい畳の匂いが、とても心地よかった。
「――よく来たな」
そう言って茶室の主――黒曜は私に笑いかけたのだった。
なれない正座をし、手渡された茶を啜る。とんでもなく苦くて咽そうになった。
「いよいよ明日か」
「……うん」
少しだけ俯き、返事をする。勝ちたいと思っているし、勝つつもりで挑む。けれどどれだけ私が意気込んでいたとしても、確実に勝てる保証なんてどこにもないのだ。
「そう下手に悩んでも、なるようにしかならん」
「まぁ、そうだろうけど……」
身も蓋もない言い草に、私は肩を落とした。まさにその通りなんだろうけど、そんなはっきり言わなくてもいいじゃないか。
そんな私に、黒曜は問うように言った。
「――お前は待つのだろう? あの弱き女神のことを」
その言葉に、私はしっかりと頷いた。待つさ。ずっと。――たとえ何年かかろうとも。
私のその様子に、黒曜は小さく溜息を吐いた。
「変な心配をせずとも、あの聖杯を使えば霊体の復活くらい容易いだろうに……何だその顔は。何か言いたそうだな」
「いや、その手があったのかと思って」
黒曜の言葉は、私にとってまさに青天の霹靂だった。
「霊核さえ消えていなければ、あの杯を使えばどうにかなるだろう。――良かったな」
「……うん。少し気が楽になった」
――勝てば、生き残ればレイチェルを失わなくてすむかもしれない。そう考えると、心が軽くなった。
「さぁ、そろそろ帰るといい。お前の仲間が目覚めを待っている」
「――ありがとう。ここに呼んでくれて」
私がそう言うと、黒曜は穏やかな目で私を見つめた。
「なに、気にするな。それに礼なら後でいい。――また会いに来てくればそれでいいさ」
勝てよ、とは言われなかった。けれど、彼が言いたかったことは確かに伝わった。
「うん。――またね、黒曜」
今生の別れになるかもしれない。それはちゃんと分かっていた。
けれど私は、まるで遊びの約束をするかのような気安さで、そう告げた。
別に気負うことはない。迷わずにただ真っ直ぐに突き進めばいい。――そうすればきっと、結果は付いてくるから。
「ああそうだ、これをもっていけ」
茶室を出ようとした時、黒曜に何か白いものを手渡された。
「……羽根?」
「拾い物だがな。良かったら持っていくといい。――そうだな、矢羽にでもするといいだろう」
その唐突な言葉に、私は首を傾げた。よく分からないけれど、取りあえず貰えるものは貰っておく。
大きな一枚羽根は確かに矢によく合いそうだった。でも私は多分使わないだろうし、後でヘイゼルにでも渡すように誰かに言っておこう。
そんなことを思いながら、私は茶室を後にしたのだった。
◆ ◆ ◆
――獣道を歩いていく愛し子の背を見送りながら、黒曜は憂い気に溜息を吐いた。
「我がしてやれるのはこれくらいだ。後はあやつらが上手くやるしかない」
愛し子の気持ちが上向きになるようにお膳立てはしてやった。後は他の連中が策を成し遂げるまで、あの優しい嘘が露呈しないようにすればそれでいい。
けれど、全てが終わった後、愛し子があの女神と合間見えることはもう二度とないだろう。
――黒曜は彼らが愛し子に黙ってやろうとしていることを、完全に把握していた。彼は儀式によってレイチェルの霊核が完全に失われてしまうことを知っていたのだ。
黒曜はそのレイチェルの決断に敬意を表していた。だからこそ、その決意が無駄にならないように、愛し子に嘘を吐いたのだ。正確には嘘ではなく、本当のことを言わなかっただけなのだが。
――女神レイチェルの復活は、どんな奇跡を使おうともありえない。それこそ黒曜や天津神を越える上位存在でもなければ、呪いを無効化することすら難しいだろう。
あの聖杯がどれほどの力を持つかははっきりは分からないが、たとえあの聖杯を継承したとしても、神霊の霊核の再生は出来ないだろう。時の流れが不可逆なように、壊れたものならば兎も角、失われたものは元には戻らない。
――叶わぬ願いにすがる愛し子が本当に哀れだと思った。
けれど黒曜は何も伝えなかった。ただただ彼女の勝利を願い、背中を押した。今はただ、愛し子の生還を祈るばかりだ。
恨み言なら後でいくらでも聞こう。黒曜はたとえ彼女の心が傷つこうとも――彼女に死んでほしくなかったのだ。
――自分がやれることはした。そしてあの羽根。
「――上手く使うといい。あれはまさに『神の落とした羽根』だからな」
正直処分に困っていたとある神の置き土産を思い出しながら、黒曜は静かに目を伏せた。今更騒ぐことはもうありはしない。――後はもう祈ることしかできないのだから。
◆ ◆ ◆
「――朝か」
清々しい、とは言えないがそれなりに悪くはない目覚めだった。右手に握られた白い羽根が、さっきの夢が現実だったことを証明している。
起き上がって伸びをし、動きやすい戦闘装束に着替えて部屋を出た。どうせ血まみれのボロボロになるんだから、着飾る必要はない。
そしてそのまま城の広間まで行き、ベス君に皆を集めてもらうように言った。ちなみにこの皆とは、主に城で働いているメンバーのことである。
――彼らが忙しいことは分かっていた。けれど、これが最後になるかもしれないのだ。出来ることなら、ちゃんと顔を見て挨拶くらいしておきたい。
外に出ていたガルシアやマリィベルの到着を待つ間に、今まで溜め込んだ魔石を倉庫から引っ張り出すことにした。どうやらようやく使う時が来たようだ。
緊急時の燃料用に約二十個程の石をヴォルフに手渡し、ベヒモスの命令権限を一部譲渡した。これで私が不在でもある程度のことは対応できるはずだ。
残りの魔石は私のお腹が一杯になるまで、ただひたすら飲み込んだ。魔力が使用される際には石ごと水のように溶けてしまうから体に害はないんだけど、どこどなく気持ちが悪い。
胃もたれしそうだと思いながらお腹をさすっていると、トーリが固い声で言った。
「――国境の数キロメートル先に敵兵あり。奴ら、結構足が速いです。この様子だと、あと三時間くらいで城壁にまで辿り着くかもしれません」
「……そう。住民の避難を急がないとね」
それでもあの高くて頑丈な城壁ならば、攻め入られることはないんじゃないかと思ったのだけれど、トーリは言いにくそうに首を振った。
「あいつら追い詰められると結構な威力で自爆するみたいで……。下手をすると城門は爆破される可能性があります」
「じ、自爆するんだ」
……使い捨ての兵隊とはいえ、やはり腐っても勇者の手駒。それなりの戦力は有しているらしい。
私が不安に慄いていると、背後から声が聞こえてきた。
「――魔王様。あんたはこっちのことは気にしないで、存分に勇者とやらを叩きのめしてきてください」
「ガルシア……」
ようやく到着したガルシアが、最近開発された長距離用の巨大なボウガンを背負いながら、そう言った。
「あんたの背中は俺らが守ります。――どうか、御武運を」
ガルシアに続くように、隣にいたマリィベルが力強く頷いた。
「此処のことは私達に任せてくださいな。魔王様の帰る場所は、決して失わせはしないわ」
その二人の頼もしい言葉に、私はそっと胸を撫で下ろした。――これならば、きっと心配はいらない。
安心して戦いだけに集中することが出来る。素直にそう思ったのだ。
「――頼もしいね。全部が片付いたら、労いにまた大きな宴会でも開こうか。今度は何の裏もない、ただのお祭り騒ぎをしよう。皆で飲んで、騒いで、笑い合えるような、そんな宴を」
私がそう言うと、ガルシアは豪快に笑って頷いてみせた。
「いいですねぇ。その時はヴォルフに預けていた秘蔵の酒を引っ張り出してきますよ」
「あ、すみません。それ、この前全部トーリが飲み尽くしました」
「えっ」
「えっ? あれってそうだったの?」
さらりと告げられたヴォルフの発言に、ガルシアとトーリは固まった。色んな意味で修羅場である。
「まあまあ。その辺にしておきましょう?」
トーリの肩をガクガクと揺さぶるガルシアを、フランシスカがそれとなく止め、全くこれだから……とあきれたように言った。
「もう、お兄様? 空気を和ませるにしたって他に方法があったでしょう?」
「だが、効果はあったろう?」
そう言って、ヴォルフは小さく肩を竦めた。その全く悪びれない様子に、私は何だかおかしくなってしまい、くすっと吹き出してしまった。
それにつられるように、皆も耐え切れぬようにくすくすと声を上げて笑い始めた。確かに効果は覿面だった。ヴォルフもこんな冗談を言えるようになったのか、と何となく温かい気持ちになった。
そんな私に、ヴォルフは言った。
「――信じて待っていますから、早く帰ってきてくださいね。具体的に言うと、俺が過労死をする前に」
「だから前から体力をつけろって私は言ってるのに……。でも、うん。必ず帰るから、待っててね」
いつもと変わらないヴォルフの減らず口に安堵した。やっぱりヴォルフは変に凹んでいるよりも、こっちの方がずっといい。
「フランシスカは、出来れば皆のことを見ていてあげてほしい。……無理をする奴らが多いからさ」
私がそう言うと、フランシスカは恭しくお辞儀をした。
「承りましたわ、魔王様。必ずや、ご期待に副える働きをいたしましょう」
そう言ってフランシスカはちらりとヴォルフのことを見た。誰が一番無理をするのか、ちゃんと分かっているようなので、これなら安心だ。
そんなことを考えながら、私は今度はトーリの方を向いた。彼は小難しい顔をしたまま、私のことをじっと見つめている。言いたいことがあるなら言えばいいのに。
「この城の中で一番大変なのは、多分トーリだと思うけど、大丈夫?」
「平気ですよ。貴女のためなら僕は何だって出来ますから」
――でも、とトーリが付け加える。
「抱き締めてくれたらもっとがんばれると思います」
そう言ってトーリは徐に両手を広げた。飛び込んで来いということらしい。そんなトーリに、周りは仕方がない奴だなぁ、といった生暖かい視線を向けている。
私はそれを見て、少しだけ笑ってトーリに近づくと、そのままぎゅっと胸の辺りに抱きついてみた。上からは戸惑ったような声が聞こえる。
まさか私が乗ってくるとは思っていなかったのだろう。完全に固まってしまっている。
しばらくして、顔を赤くして狼狽えているトーリから離れながら、「がんばってね」と声をかけた。
マリィベルがそれを見て「魔王様ってばひどーい」とからかう様な声で笑っていたのが少し納得できない。
――そして私は、目の下に隈をつくって少し疲れた顔をしているユーグの元へと歩み寄った。
「――レイチェルのこと、よろしくお願いね」
ユーグの視線に合うようにしゃがんで、彼の頭を優しく撫でながら、私は言った。
――全部が終わって聖杯を継承したとしても、聖杯にレイチェルがすぐに復活できるだけの力が本当にあるとは限らない。それでも微かに希望が残っているから、私は泣かずに立っていられるのだ。
そう言うと、ユーグは一瞬だけ泣きそうな顔をして、目を伏せた。
そしてユーグは私の手を取り、その手に祈るような口づけをして、言った。
「――どうか御身に女神レイチェルのご加護があらんことを」
それはまるで、神聖な儀式のようだった。
「待っています。――だから、お願いします。ちゃんと帰ってきて下さい……」
「うん。約束する」
瞳を潤ませたユーグの真摯な言葉に、私はしっかりと頷いた。
――帰ってくるよ、ちゃんと。君の待つ場所へ。だってここが私の居場所なんだから。
そんな私達の別れの様子を、レイチェルはどこか名残惜しそうな目で見つめていた。
私はレイチェルに向き合うと、薄く微笑んで彼女に近づいた。いつも通りに見えるけれど、やっぱり少しだけ顔色が悪い。それが少しだけ悲しかった。
私を見て穏やかに微笑むレイチェルの両手をとって自分の手を重ねる。そのまま自分の額を、何かに縋るかのように手の上へと重ねた。レイチェルの手は温度がないはずなのに、何故だかほんのり温かい気がした。
「――行ってきます」
もう多くは語らない。大事なことは、みんな昨日話した。話し残したことがあれば、またいつか話せればそれでいい。
「行ってらっしゃい。――また、いつか」
レイチェルは私の頭を抱き寄せるように震える手で私の頬に触れ、一滴の涙を流した。私はこの時レイチェルが何を考えていたのか、何も知らなかった。知らないからこそ、――笑って別れを告げられたのだ。
そしてレイチェルに別れを告げ、私は廃城に向かおうとした。
猶予は今日の夜までだったけれど、スケルトンの大軍がこの国にも迫っている今、決着は出来るだけ早い方がいい。そう思ったのだ。幸いにも城の皆も準備ができているようだったし、渡りに船だろう。
そして出発しようとしたその時、マリィベルに呼び止められた。
「魔王様。これから住民達と地下の避難スペースに移動するのだけど、その前に少しだけいいかしら」
「えっと、あんまり時間がかからないならいいよ」
私がそう答えると、マリィベルは安堵したように微笑み、私の手を引いた。
「よかった。こちらですよ、魔王様」
そう言って、彼女は私を五階にある外の広場を見渡せるバルコニーへと連れて行った。
ざわざわと、外から声が聞こえてくる。――まさか。
「さぁ、ご挨拶をどうぞ?」
「……やってくれたな」
「これもけじめですわ。私達だって、貴方に命を預けているんですから」
悪戯気に笑うマリィベルを小突き、ため息を吐いた。全く、ああなんて――粋なことを。
これでは引くに引けないじゃないか。
そして私は覚悟を決めて、バルコニーへと姿を現したのだった。
◆ ◆ ◆
広間にいる人達は、皆不安そうにしながらも、今か今かと私の言葉を待ち望んでいた。ただ黙したまま、私のことを見つめている。
「――私は皆に一つだけ言いたいことがある」
何を多く語ったところで、きっと彼らは不安になるだけだろう。だからこそ、たった一言でいい。それだけで私の言いたいことはちゃんと伝わると思うから。
私は真っすぐに彼らを見つめて、大きな声で言った。
「私は絶対に負けない。――だから、信じて待っていて」
しん、と静寂がその場を支配した。誰も何もいわない、と思ったその瞬間――ちいさな子供の声で「まおう様がんばれー!」と叫ぶような声が聞こえてきた。
それに続くように「負けるなー!」「ちゃんと信じてますからー!」と次々に声が上がっていき、最後にはもう何を言ってるのか聞き取れないくらいの大合唱が始まってしまった。
私がその光景に思わずくすくすと笑いだすと、「気を抜くなぁー」「真面目にやれー」などの茶々まで聞こえてくる始末。
今まさに他の国ではスケルトンの大軍が国に押し寄せているところもあるというのに、ここはこんなにも平和でいいのだろうか。
――いや、それでもきっと彼らにだって不安はあるのだと思う。それでも私のことを信じてくれているから、ああやって不安の中でも笑うことが出来るのだ。本当に負けるわけにはいかないなぁ、と私は苦笑した。
歓声が見送る中、私は大きく手を振って、バルコニーを後にした。もう、何も憂いはなかった。
「どうですか? 気が楽になったでしょう」
「逆に背中が重くて仕方がないよ。――でも、ありがとう」
そう言って嘯くマリィベルに、私は礼を言った。
これでもう何も思い残すことはない。後は全力で敵にぶつかるだけだ。
――さぁ、命がけの生存競争を始めよう。




