110.何もしなかったら、 何も起こらない
――レイチェルが霊廟で最後の仕掛けのための術式を組みあげている時、扉を叩く音が聞こえた。
城へと続く扉以外は全部鍵をかけてしまっているため、ここに訪れる者がいるとすれば、城の者以外ありえない。他の面子はここに来る暇はないだろうし、来訪者は恐らくユーグだろうとあたりをつけてレイチェルは声を掛けた。
「どうぞ、入ってもいいですよ」
そして来訪者――ユーグは、おずおずと部屋の中に入ってきた。どことなく居心地が悪そうなのは、きっとこの部屋のせいだろう。
レイチェルとその聖遺物が共に存在しているこの霊廟は、ある種の神域に近い空気を纏っている。ここは魔力に耐性がない人間であれば、入った瞬間倒れてもおかしくない程度の濃度の魔力が充満しているのだ。
ユーグであればそこまで影響は受けないだろうが、それでも少しくらいは息苦しさを感じているのかもしれない。
大丈夫なのかと声を掛けようと思った刹那、ユーグが顔を上げた。彼はしっかりとレイチェルがいる方へと強い視線を向けて言った。
「――女神様は、何を隠していらっしゃるのですか?」
その言葉を皮切りに、ユーグは淡々と今まで抱いていた疑問を話し始めた。
フランシスカから大体の事情は聞いていること。それでもまだ秘密にされていることがあること。出来るのであれば、自分も何か協力したいと願っていること。レイチェルはそのユーグの訴えを、ただ黙って聞いていた。
――彼のことを巻き込みたくはない。けれど自分の手足になって動いてくれる者がいれば、準備がだいぶ楽になることは明白だった。
レイチェルがユーグを作戦に組み込もうとしなかったのは、彼が話し合いの時その場にいなかったこともあるし、何よりも作戦を伝えることが彼の『心の傷』になると思ったからだ。
レイチェルのことを清廉な存在だと信じて疑わないユーグに、自分の汚い部分を見せたくなかったというのもあるかもしれない。
「手伝いたいという貴方の気持ちは分かりました。――ですが、私がやろうとしているのは、いわば『邪法』の一つ。……貴方まで業を背負うことはありません」
レイチェルがそう言うと、ユーグは静かに首を振った。
「そんなの今さらです、女神様。僕らはいつだって、誰かから何かを奪いながら生きている。罪が一つ増えたくらいで、何も変わったりしません」
そう言って、ユーグは朗らかに笑った。
彼が言ったことはあまりにも極論すぎるし、恐らくレイチェルが言った『業』というものを甘く見ている節がある。
けれど――役に立ちたいのだという気持ちだけは痛いほど伝わってきた。
でも本当は巻き込まない方がいいに決まっている。それはレイチェルもよく理解していた。
「……後悔しますよ、きっと」
レイチェルがそう言うと、ユーグは小さく首を振った。
「たとえ話を聞いたことを後で後悔したとしても、僕は最後まで貴女の巫子でありたいんです」
それを聞いて、レイチェルは苦笑した。これはもう、何を言っても引いてくれないだろう。
「ユーグの気持ちはよく分かりました」
「……じゃあ」
「ええ――話を聞いてくれますか?」
レイチェルの言葉に、ユーグは安心したように息を吐いた。
「はいっ!」
そう言って素直に喜ぶユーグを見つめながら、レイチェルは目を細めた。子供の成長は、本当に早い。
そう思いながら、レイチェルはユーグを座らせ、アンリにすら話さなかった『作戦』を話し出したのだ。
◆ ◆ ◆
レイチェルがアンリに伝えていたのは、大きく言うと『身代わりの加護でレイチェルが全ての傷を背負う』ことと、『レイチェルが死ぬことで、不死者に対抗する力をアンリに与える』ということの二点だ。
動揺していたアンリは上手いこと騙されてくれたようだが、たかがそれくらいの付加要素だけであの勇者との実力差が覆るとはレイチェルも思っていない。アンリは殴られ損だった。
――ヴォルフが言い渋った、本当の『策』。
レイチェルが身代わりで負った傷によって絶命した後、霊体が消える前にその存在の核を別の物――例えば刃物などに固定化し、『敵を死に至らしめる』といった概念を持った『呪い』へと霊核を変質させる。
すなわち、レイチェルの存在全てを使って、勇者への死の呪いそのものに成り果てる外道の邪法。
レイチェルの存在ごとぐちゃぐちゃに邪法で犯し、作り変えてしまう悍ましき行為。
ヴォルフがこの策を言いたがらなかったのは、あまりにも人道に反しているからだろう。
だがそもそもヴォルフがこのような魔術を絡めた作戦を考え付いたのは、いつかこんな日が来るだろうと考え、レイチェルが出来ることをヴォルフにトーリ伝いで教えていたからだ。
自分でそんな流れになるように仕組んでいたからこそ、レイチェルは何一つ文句を言わなかったのだ。
これだけならば、アンリに伝えたことと、そう差はないように思うかもしれない。だが、この邪法はアンリに言ったことと決定的に違うことがある。
――レイチェルが呪いへと変質したその瞬間、『女神レイチェル』という存在はこの世界から消失する。あの時レイチェルがアンリに言ったような「いつか戻ってくる」という約束は、その時点で絶対に叶うことのない幻想になってしまうのだ。
それどころか、死の呪いに成り果てれば、レイチェルの自意識すらもどうなるか分からない。意識を保ったまま永遠に死の呪いとして意識だけ存在し続けるのか、それとも最初から何もなかったかのように、この世から消えてなくなるのか。どちらに転んでも地獄だ。
――けれど、それでも構わないとレイチェルは思っている。それどころか、これが自分に課せられた運命だったのだ思っているのだ。
自分の唯一無二の親友。愛すべき王様。大切な彼女の為に、ようやくしてあげられることができた。それがただ単純に嬉しかったのだ。
それにこんな別れ方をすれば、きっと彼女は永遠にレイチェルを忘れることはない。今のレイチェルは消えてなくなってしまうかもしれないけれど、思い出だけは彼女の中で永遠に生き続けるのだ。
彼女の心に刺さった小さな破片のようにずっと側にいられるならば、レイチェルにとっては、もうそれだけで十分だった。
レイチェルの心を救ってくれた彼女が無事生き残れるならば、自分は何を失っても構わない。そう思ったから。
――けれど一言に呪いといっても、それが完全に成功するとは限らない。
そのことを考えると、アンリが自信を傷つけたあの短剣を持ち帰ってきたのは行幸だった。あれだけの聖遺物の塊ならば、きっと呪いの威力も跳ね上がることだろう。
それならば回りくどいことをせずに、さっさと勇者に対する死の呪いそのものになった短剣をアンリに持たせてしまえばいいと思うかもしれないが、この件に限り、それは悪手になりうる可能性がある。
――レイチェルとアンリは、召喚の際の聖遺物によって微かにリンクが繋がっている。お互いの居場所が何となく分かるくらいには。
たとえその存在が変質しようとも、彼女は本能で『それ』が何だったのかを理解してしまうだろう。そうなれば、きっとあの優しい彼女は動揺してしまう。
つまりこの短剣は切り札であり、諸刃の剣と成りえるのだ。
だからこそ、最初の一撃だけはアンリではなく別の人間が担うしかなかった。その担い手は、本人不在のまま、満場一致で決まった。
――弓の名手、ヘイゼル。針の穴を通すかのような綿密なコントロールができる、稀代の天才。彼ならば、アンリと戦って多少消耗した勇者相手だったら、その矢を当てることも可能かもしれない。
だがそれは世界の命運がかかった大事な一矢であり、外すことはすなわち死を意味する。
そんなとんでもないプレッシャーを乗り越えることができるのは、きっとこの国で弓を扱う者では、ヘイゼルくらいしか存在しないだろう。そういう意味で、彼は適任だった。
使うのが普通の鏃ではなく、バランスの悪い短剣となってしまったため、射るには勝手が違うかもしれないが、まぁその辺りは頑張ってもらうしかない。
――そして全てを話し終えた後、ユーグは静かに涙を流していた。
敬愛している女神が呪いというよく分からない存在になってしまうと聞かされて、平然とはしていられなかったのだろう。
それでも声を上げたりしなかったのは、全てを受け入れると目の前の女神と約束したからだ。――たとえ何があっても、レイチェルのことを手伝うと決心していたのだから。
「辛いならばここで降りてもいいのですよ?」
「いいえ……いいえ女神さま。僕は絶対に降りません。僕も一緒に、背負いたいんです」
ユーグはしっかりとそう言った。そのユーグの誠意が、面映ゆくもあり、悲しくもあった。
その様子を見ながら、レイチェルは一滴だけ涙を流した。ユーグにはそのレイチェルの姿は見えない。
「――ありがとう、ユーグ」
そしてごめんなさい、と心の中で思う。
「大変だとは思うけれど、どうかよろしくね」
「はい、精一杯頑張りますから」
そう言ってユーグは健気に笑った。
そしてレイチェルは、ほんの少しの罪悪感を胸に抱えながら、『呪い』を作るための儀式の準備をユーグと二人でし始めたのだった。




