109.どんなに長い夜も、必ず明ける
――レイチェルに手を引かれて、私は城の広間に来ていた。
その場に集まっていた面々と、どこかぎこちない会話を交わし、暫くすると今日はもう休んだ方がいいと言われてしまった。そんなに私は疲れた顔をしていたのだろうか。
地理的な問題で、まだこの国までには敵はやってきていないものの、私が休んでも大丈夫なのかとヴォルフに問うたが「貴方が最後の希望なんです。万全の状態で相手に挑むことこそが、今戦っている人々への誠意というものでしょう」と押し切られてしまった。
たとえそれが多々の詭弁であろうとも、今すぐに廃城に向かうことが許されない以上、英気を養うべきなのはよく分かっていた。それが納得できないのは、きっと私の人としての良心が疼くからだろう。
――それに戦況はやはり、あまりよくないらしい。トーリはかなり押され気味だとぼやいていた。
彼が珍しく気分が悪そうにしている様子を見るに、よほど現地は凄惨な戦いになっているようだった。 本命の『勇者』は私との約束通り廃城にいるようで、まだ動きはないようだった。少しだけホッとした。
相手に何か動きがあったら、強制的にでも叩き起こしてくれるそうなので、後ろ髪を引かれる思いはあったが、黙って従うことにした。
そして各人が連絡や色々な準備の為にその場を後にした時、フランシスカに連れられて、すっかり回復したらしいユーグが足早に私の元へとやってきた。
「――魔王様。あの、ちょっとだけいいですか?」
「うん? どうしたのユーグ。私は大丈夫だけど、体はもう平気かな?」
「はい、大丈夫です」
そう言ってユーグははにかむ様に微笑んだ。その姿を見て、私は目を細めた。
特に気負った様子もないようだし、あの時のことは憶えていないのだろう。そのことに、少しだけ安堵する。フランシスカも多分何も話していないみたいで安心した。
――けれど、彼がレイチェルのことを知ったら一体どう思うだろうか。それを考えると、とても怖い。
「今日はもうお休みになられるんですよね?」
「うん。そうなんだ。みんな忙しいのにごめんね」
私を除く他のメンバーは、今夜は少し仮眠を取るくらいで、基本的に休みはない。この後にもレイチェルを含めた軽い会議もあるらしい。私は別に居なくてもいいそうだった。
……緊急時であるし、仕方がないと思うが、やはり一人だけしっかり休むのは心苦しい。
特に『千里眼』持ちであるトーリは、常に気を張って凄惨な戦いの現場を見続けなくてはいけない。トーリのメンタルの強さはよく知っているけど、それでも心配になってしまう。
表情を曇らせた私に、ユーグが恐る恐る問いかけてきた。
「あの、今日だけでいいんです。――魔王様が眠るまで、側にいてもいいですか?」
その言葉に、思わず目を見張った。ユーグは私の服の裾をぎゅっと握って、私を見上げていた。
そこで私は悟ったのだ。――ユーグは恐らく何があったのかを知っている、と。
思わず、フランシスカの方を見やる。フランシスカはちょっとだけばつの悪そうな顔をして、頭を下げた。そして何か言いたげな顔をして、そっと私の左側を指さしたのだ。
そこに目をやると、未だに血が滲んだままの服を身にまとっていることに、今さら気がついた。……これでは何も知らせていなくても、何かあったと言っているようなものだ。
……ユーグがこの血痕の理由を聞いてこないということは、つまりそういうことなのだろう。フランシスカが何をどこまで話したのかまでは分からないけれど、この様子だとそこまで深いところまで話していないだろうと判断した。そうでなければ、ここまで普通でいられる筈がない。
それにこれではかえって何も知らせていない方が大惨事になっていたかもしれない。ため息を吐きながらフランシスカを見ると、彼女は困ったように微笑み、声を出さずにごめんなさい、と口を動かした。
「本当は女神さまも一緒にと誘ったのですが、やっぱり今日は忙しいみたいで……。だから魔王様が眠った後に、僕は神殿に行こうと思ってるんです。僕でも、何か手伝えることがあるかもしれないから」
もしご迷惑だったら言ってください、とユーグは申し訳なさそうに言った。
――これはユーグにしては珍しく、懇願に近い我儘だった。
私のことを止めるでもなく、嘆くでもなく、ただ側にいたいと希う。――それは、なんていじらしい愛だろうか。
「うん、いいよ。――そうだな、子守歌でも歌ってくれる?」
「はいっ、喜んで!」
――もともとこの国が作られたのは、私がユーグと出会ったことから始まった。約三年間。長いようでいて、短い期間だった。
――あの時レイチェルは「人は一人では生きられない」と私を諭した。その時は反発するばかりで、詭弁だとばかり思っていたけれど、今の私は沢山の人たちに支えられて生きている。そしてこれからも、皆と一緒に生きていたいと思っている。できることなら、レイチェルも一緒に。
がんばろうと、素直にそう思えた。
「ありがとう」
誰にも聞こえないような、小さな声でそう言った。誰に対しての礼なのか、自分でもよくわからなかった。けれど、一つだけ分かることがある。
――今夜は、ぐっすり眠れそうだった。
◆ ◆ ◆
――魔王が深い眠りについた後、ユーグは名残惜しそうに彼女の手をぎゅっと握り、静かに部屋から出ていった。物音を立てても起きる様子がないのは、きっとユーグのことを信頼してくれているからだろうと思いたい。
ユーグの次の目的地は、女神がいるであろう神殿だった。今の時間は深夜。いつもであればとっくに眠りについている時間だが、昼間に意識がなかったせいか、体が少しだるいくらいで、特に眠気はなかった。
誰もいない薄暗い廊下を歩きながら、ユーグは小さくため息を漏らした。
――これが、女神様と過ごす最後の夜になる。そう思うと、胸が締め付けられるように痛かった。油断をすると今にも泣きだしてしまいそうだ。
けれどみっともなく泣いて縋ったところで、恐らく女神様は意見を変えてはくれないだろう。ユーグはそれを痛いほどに知っていた。
――半魔族の中では珍しいことだが、ユーグは大切な人を失った経験がない。元々父親の顔すら分からず、母親は物心付く前に亡くなってしまっている。
ユーグの人生の中で一番幸運だったことは、きっと魔王に出会えたことだ。あの人に出会えなければ、恐らくユーグはどこかの野山で野垂れ死にをしていただろう。
そして運よく女神の声を聞くことが出来たからこそ、彼らの庇護を受けて、何不自由ない暮らしをさせてもらっているのだ。
昔に比べると、まるで天地の差がある生活をしている。
初めはそれがとても光栄なことだと思っていた。けれど時間が経ち、人が増えるにつれて、その待遇に付随する『責任』というものがあることに気が付いた。
――ユーグには女神レイチェルの巫子の名に恥じない行動をする義務がある。人前に出る時は、尚更そんなプレッシャーを感じた。
最初はただ与えられるだけだった立場だけれど、少しずつ任されることが増え、段々と巫子としての自覚と誇りが出来てきたのだ。
ユーグは女神レイチェルに恩義がある。心から慕っている。本当に大好きだった。……だからこそ、引き止めることが出来ないならば、せめて彼女の役に立ちたい。――最後の時まで。出来ることなら、女神様にとって、役に立つ『巫子』でいたかったのだ。
――あの時フランシスカが自分に話した内容は、きっと完全なものではない。恐らくは他にも隠し事をしている。
フランシスカは外交では一切ぼろを出さないけれど、対身内になると、途端に考えていることが分かりやすくなる。あの人はとても優しい人だ。秘め事を話している間中、ずっとユーグのことを心配してくれた。
彼らが何を隠しているのかまでは分からない。そして直接問い詰めたところで、彼らが簡単に秘密を話してくれるとは思っていない。
それでもユーグは、このまま何一つ大事なことを知らないままに、大事なことが進行していってしまうのが本当に恐ろしいと思う。置いて行かれるようで怖いのだ。
――何よりも、子供だからという理由で遠ざけられたくなかった。
――どうかお願いします、と心の中で希う。自分だって、女神の役に立ちたかった。最後くらいは、最後だからこそ、彼らに認めてもらえるような『巫子』でありたかった。
……これはきっと、ユーグの幼い我儘に過ぎないのだろう。それでもユーグは諦めきれなかった。
――薄暗い地下道を通り、神殿へと向かう。神殿の中へと続く扉の前に立った時、微かに地下道に漂っていた血臭が強くなったような気がした。
ユーグはそれにほんの少しだけ目を伏せると、気を取り直したように、血の匂いが濃い方へと足を進めていった。そこに自分が会いたいと思っている女神がいると、確信していたから。
ごくりと喉を鳴らし、霊廟の扉に手をかける。軽いはずの扉がひどく重く感じた。
――そしてユーグは、覚悟を決めて女神と相対することを決めたのだ。




