107.さようなら。君を引きとめておくだけの甲斐性が、私にはない
私は顔を青ざめさせながら、震える声で言った。
「殺せって、なに、それ。変な冗談は言わないでよ」
「そのリボンを解けば、貴方の傷は私に移ります。――霊体である私は、自然治癒ができない。致命傷を負えば、この存在ごと世界から消失するでしょう。それはすなわち『死』と呼ぶのではないでしょうか」
「違う、違うって。私が聞きたいのはそんなことじゃない……!!」
両手で顔を覆い、叫ぶように言った。そんな理屈は聞きたくなかった。
「勝てる方法があるなら実行するべきだと言ったのは貴方自身でしょう? 約束を違えるつもりですか?」
「でもっ、一度だけ怪我が全部治ったところで、あの力量差がどうにかなるとは思えないっ。そんなの無駄死にじゃないか!」
相手の手の内を見たわけではない。だが、ある程度の力量は分かる。そこまで圧倒的な差はついていないとはいえ、一度全快したくらいでは、恐らく奴の首元には「届かない。そんなあやふやなものの為に、レイチェルの命は使えない。
そう言って顔を上げた瞬間、ぱん、と大きな音が耳元で響いた。
「駄々をこねるのもいい加減にしなさい!!」
――叩かれた。そう思った時には、すでに視界が滲んでいた。
「覚悟は決めたのでしょう!? 今さら何を迷うというのですか!!」
「それとこれとは話が別だ!! 私はレイチェルに死んでほしくないのに!!」
「ならば民草と心中するつもりですか? それに勝てそうにないと言ったじゃありませんか。たかが一人の犠牲で済むならば、安いものでしょう」
「レイチェルは『たかが』なんかじゃない……!」
どうしてそんなに酷いことを言うのだろう。レイチェルを殺すだなんて、私ができるわけないのに。
「……別に私だって、何の勝算もなく言っているわけではないのです」
「…………」
そう言ってレイチェルは両手で私の顔を支え、無理やり目線を合わせた。真剣な顔をして、レイチェルは言う。
「その『変わり身の加護』が作動すれば、きっと私は数分もしないうちに死に至るでしょう。そして私が死ねば――貴方は『神殺し』の業を背負うことになる。そう、神をも殺せる因果を手に入れることができる。……まぁデメリットがないこともないですが、そう悪くは働かないでしょう。だって貴方は、蛇神に愛されているのですから」
――『神殺し』の業を背負うことにより、『神』つまり『不死の者』に攻撃が通りやすくなる。そうなれば、あの『勇者』は随分と殺しやすくなるだろう。……攻撃の手が届けばだが。
確かにそう言われてみると、闇雲に立ち向かうよりは、勝率が高いような気もする。けれどだからと言って、レイチェルの命を踏み台にしてまで戦いたくはない。
――これはただの我儘だと分かっている。レイチェル自身が納得しているのであれば、何の問題もないはずだ。
今だって、どこかの国ではもう既にスケルトン達との戦いが始まっているだろう。多くの人間が、私の勝利を信じて戦っている。だからこそ、少しでも勝算があるならば、そちらに賭けるべきだ。
……でも嫌だ。嫌なんだ。私が直接手をかけるわけじゃない。それでも嫌だ。
ボロボロと涙を流しながら、縋るように首を振る。
――だが、レイチェルはもう覚悟を決めている。後は私が頷くだけだ。たったそれだけのことだけど、それでも私は嫌だった。
理解はできる。でも納得はできない。先ほどヴォルフも似たようなことを言っていたけど、きっと今の私と同じ気持ちだったのだろう。
そんな私を見て、レイチェルは困った風に笑った。
「大丈夫ですよ。私はこれでも神様ですから。信仰さえ途絶えなければ、そのうちここに戻ってこれます」
「……本当に?」
「本当です。私が嘘をついたことがありますか?」
「無くはないけど、大事な時には嘘はつかないって、私はちゃんと知ってる」
――でもそれは限りなく嘘に近いんだろうな、と何となく思う。レイチェルに対する信仰が続いていれば、時間をかければ霊核の復活だってできるのかもしれない。
けれど、それは一体いつのことになるのだろうか。数年後? 数十年後? それとも数百年後? 私は彼女の復活まで、生きていられるだろうか。
ひどい神様だなぁ、と心から思う。私は何があっても、一生彼女のことを忘れないだろうし、夢に見て泣くこともあるだろう。永遠に心の傷と向き合いながら生きていくしかないのだ。本当にひどい神様だ。
これ以外の選択肢を、選ぶことすら許してくれないなんて。
「ねえ……もしもさ、この『お守り』を使わないで勝ち残れば、レイチェルは居なくなったりしないんだよね」
「それが本当は理想ですが、厳しいのでしょう?」
「……それでもできる限り頑張ってみるよ。やっぱり諦めるのは、嫌だから」
そっと涙を拭いて、レイチェルに真っすぐ向き合う。
「でももし駄目だったら――ずっと待ってるから、ちゃんと帰ってきてくれる?」
「ええ、約束しますよ。必ず私はここに帰ってきます。たとえ何があろうとも」
「……じゃあ、指切りをしよう」
そう言って私は、いつかのように小指を彼女に差し出した。黒曜との約束が絡みついているのとは別の手だ。
そんな私に、彼女はとても幸せそうに微笑んだのだ。その笑みがあまりにも優しかったから――私は思わず笑ってしまった。ああ本当に、これでもう会えなくなってしまうんだなと、胸が締め付けられる。
――指切りげんまん、嘘ついたら針千本のーます。いつ聞いても怖い歌だと、レイチェルは笑った。
……私はこの約束の無意味さを知っていた。空虚さを知っていた。けれど不思議と心は温かかった。
レイチェルは強引に袖で私の顔を拭うと、ゆっくりと私をその場に立たせた。
「さぁ、皆心配しているでしょうし、早く帰りましょう?」
「……泣きはらした顔で人前に出たくない」
「あまり我儘ばかり言っていると、またその頬を引っ叩きますよ」
そう言ってレイチェルは手を振り上げた。別に痛いわけじゃないけれど、叩かれるのは嫌なので渋々指示に従う。もう少し優しくしてくれてもいいのに。
「ああそれと、その腰にある短剣ですが、私が預かってもいいですか?」
「え、ああ、忘れてた。別にいいよ。ほら……って、持てるの?」
「一応それは聖遺物の寄せ集め見たいですからね。それなりの霊格があれば干渉もできるでしょう。霊廟に寄って、聖卓に置いておいてください」
「分かった。本当は対勇者に使おうかと思ってたけど、ちょっとした怪我でも治らないんだから、下手に扱って自分が怪我しても困っちゃうしね。預かってくれるならそれに越したことはないよ」
そう言って私は足早に短剣を霊廟にある机の上に置きに行った。
――レイチェルがその背を何かを耐えるような表情で見つめていたことは、私は気づかなかった。
◆ ◆ ◆
――あの女神は本当に残酷だな。
そんなことを心の中で毒づきながら、トーリは溜息を吐いた。
トーリは現在四肢を動けないように拘束され、自室のベッドに転がされている。何を仕出かすか分からないという意味で、この対応は正しいのだろうが、いまいち納得がいかない。そんなに自分は直情的な人間に見えるのだろうか。
「話、終わったみたいだけど」
「……そうか」
「短剣も回収できたし、女神サマの加護も掛けなおした。――全部お前の進言どおりだよ、ヴォルフ」
トーリがそう告げると、ヴォルフは痛ましそうに目を伏せた。
――頭の良い奴は可哀想だ。ただ漠然とそう思った。
ヴォルフが有する特殊能力である『超直感』は言ってしまえばものすごく勘がいいだけの能力だ。はっきり言ってその答えに裏づけはなく、確証もなにもあったもんじゃない。だがその勘がいつも最適解を叩き出してしまうから、周りの人間は彼のことを『天才』だと特別視するのだろう。
けれど、今回ヴォルフが出した『唯一の勝算』は誰にとても受け入れがたいものだった。
本人はかなり言い渋っていたのだが、周りの説得により、気落ちした顔で話し出したのだ。
――まず魔王が行動不能になるまで『勇者』と戦い、できる限り相手の力を削ぐ。そして全ての傷を女神に移し、また戦いを挑む。……ここまでが、女神が魔王に話した作戦だ。
一番心配だったのは、それを実行する前にアンリが殺されないかどうかだったのだが、彼の見立てだと、即殺されるほどの実力差はないとのことだった。
だがそれはあくまでも現状の状態であり、もし別形態への変身があれば、また状況が変わってくるらしいが。
――そしてここから先の作戦は、彼女の戦いの憂いになるからと、その場にいた全員が口を噤むことを決めた。
この作戦が実行されれば、あの女神が言ったような『時間経過による復活』すら望めなくなるかもしれない。女神が殺したあの邪神のように、その存在ごと消え去ってしまうほどの、ひどく冒涜的な所業なのだから。
――女神の死。流れた血。各国に配った置物。人々の祈り。敵の不死者という特性。強者の驕り。神殺しの業。不治癒の呪いがかけられた聖遺物。それのどれか一つが欠けても、この作戦は成り立たない。
「あの人が短剣を持ち帰ってきたのは不幸中の幸いだったね。あれがなければ、正直決め手が足りなかったし」
トーリが軽い口調でそう言うも、ヴォルフの顔は晴れない。
「……俺は、きっと後で恨まれるんだろうな」
「だろうね。たぶん僕もだけど」
今度は平手の一発では済まないかもしれない。けれど、言ってしまえば自分達だって大切なものを選んだだけだ。あの女神だって、それは変わらない。
――彼女に最後の引き金を引かせることで、その存在を心に刻み付ける。きっと彼女は一生あの女神のことを忘れることはないだろう。たとえ何があろうとも、あのいけ好かない女神は彼女の心の隅で生き続けるのだ。それはなんて―羨ましいことだろうか。
あの女神はきっと笑いながら死んでいくのだろう。そしてその最後の姿を見ることが出来るのは、アンリを除いてトーリだけだ。
トーリは女神レイチェルのことを心の底から馬鹿にしていた。何の役にも立たないし、アンリが一番辛いときですら、大した助けにもならなかった。今は多少力が回復してきてはいるものの、それでもお飾り程度の『神様』でしかないと思っていたのだ。
そんな無能な神様は、ヴォルフに暗に『死んでくれ』と言われて、怒るでもなく――笑ったのだ。全てを受け入れるかのような、『救済』の名にふさわしい笑顔で。
女神は断らなかった。それどころか、発案者がヴォルフであることは黙っているべきだとも言ったのだ。
自分のせいで、これからの貴方達の関係に溝を作ることはないと、そう真面目そうな顔で言っていた。
――死んでも構わないと思えるくらいには、女神はアンリやこの国のことを大切に思っていたのだろう。
『死者には勝てない』
そう言った言葉がある。アンリはこれから先絶対に女神レイチェルのことを忘れない。――女神は彼女の中で『永遠』になるのだ。
そして死を選択した後も、女神は何一つ取り乱さなかった。一度肉の器をなくしているせいもあるだろうが、彼女はいくら人間臭くても神であり、人とは精神の構造が違うのかもしれない。だが――。
「生きてこそ、できることもある」
「そうだな。――俺達は、俺達にしか出来ない仕事をしよう」
そう言って、ヴォルフはようやく顔を上げ、やっと思い出したかのようにトーリの拘束を外しだした。本当はもっと早く外してほしかった。変な方向に負荷がかかったせいか、体中が痛い。
「落ち着いたか?」
「まあね。頭は冷えた」
――泣いても笑っても、これが最初で最後の戦いになるはずだ。自分達はあの優しい王様を勝たせるそのためだけに、全力を尽くす。ただそれだけだ。
「後でアイツも呼んでこないと」
「魔王様にはばれない様にしないといけないな」
――そこで密談は終了した。これがどう転ぶのかは、それこそ『神のみぞ知る』というやつだ。




