106. 私たちの存在は夢と同じ儚いもの。この小さな人生は眠りによってけりがつくものなのだから
――私が城へと戻った時、空からはざあざあと大粒の雨が空から降り注いでいた。雨が降っていることに気づいたのは、私が外にいたからだろう。
ここから廃城はわりと離れている。天候が異なっても何もおかしくはない。けれど、この雨が自分の心境を表しているようで、何だかおかしかった。
急いで転移をしたせいで、少し座標が狂ってしまったらしい。幸いにも城はすぐそばだったので、濡れないようにユーグを抱えなおし、帰路を急いだ。
――何故か治したはずの脇腹がずきりと傷んだ。
「――一体何をやってるんですか貴方はっ……!! どこかへ向かうならこちらにも一言あるのが筋でしょう!?」
城へと入った瞬間、入り口で待ち受けていたヴォルフに怒鳴りつけられた。言い訳の言葉も出ない。
「……フランシスカ、ユーグを寝室に連れていけ。ベヒモスに聞いて余裕があれば診断もさせろ。これ以上変な仕込みがあっては困るからな」
「はい、お兄様」
私が何かを言う前に、ヴォルフは側に付き従っていたフランシスカに命じ、眠っているユーグを寝室へと連れていくように言った。
「何があったか、知ってるの」
「女神様に貴方の外出を聞いてすぐに、トーリに観察をさせました。大体の事情は把握していますし、すでに諸外国には敵が現れたと連絡してあります。ある程度の対策は口頭で伝えましたが、戦線崩壊するのは時間の問題でしょうね」
ぐっと右手を握りしめた。この一晩で、いったい何人の人間が死ぬことになるだろう。きっと私がスケルトン達と相対すれば被害は減る。けれど、それでは駄目だ。
「変なことは考えないで下さいね。貴方が増援に向かったところで、事態は好転なんかしません。むしろそのせいで体力を消費した方が、あの『勇者』とやらとの戦いの時に不利になる。努々、選択は間違われないように」
「分かってる。……分かってるよ」
「一応諸外国には、魔王様は現在今回の首謀者と相対中だと伝えています。他にご質問は?」
ヴォルフは淡々と説明をしてくる。それはまるで、感情を押し殺しているかのようにも見えた。
「トーリはどうしてる? 真っ先に駆けつけてきそうなのに」
「あいつはユーグに何を仕出かすか分からないので、一時的に隔離しました」
「……ユーグは悪くないよ」
「分かっています。ですが、理屈と感情は違いますから。いくら貴方が悪くないと言い張っても、彼が今回の発端となったことは事実。……俺だって思うところがないわけではないんですから」
そしてヴォルフ、は私の血で湿っている場所を痛々しいものを見るかのような目で見つめ、言った。
「――神殿の礼拝堂にて、女神様がお待ちです。すぐにそちらに向かってください」
「でも、戦争の準備とかは」
「外への対応は俺達が全部やります。だから、魔王様が気に病む必要はありません」
そう言って、ヴォルフは私の背を軽く押した。早く行けとでも言いたいみたいだ。
その扱いはないんじゃないかと、一言文句を言ってやろうと振り返った時、私は目に映った彼の表情に愕然としてしまった。
何かに耐えるような、悲痛で憐れみを帯びた表情。私は今まで、ヴォルフがこうまで悲しみの表情を露わにするのを見たことがない。
――だから、何も言えなかった。言えなくなってしまった。
「分かった。行ってくるよ……」
そして私は一抹の不安を残しながら、レイチェルの待つ神殿へと向かったのだ。
◆ ◆ ◆
神殿に通じる地下通路へと続く道へ向かっていく魔王の背を見つめながら、ヴォルフは小さな声で呟いた。
「――申し訳ありません、魔王様。俺には止められなかった……」
そう言ってヴォルフは祈るように両手を重ね、神殿の方へと向かって頭を下げた。その目には、薄くではあるが涙が滲んでいた。
◆ ◆ ◆
どことなく不可解な疑念を抱きながらも、私は神殿への道を黙々と進んでいった。特に急がずとも、あと数分もあれば目的地へと着く。
私は歩きながら、そっと服をたくし上げた。別に露出の趣味はない。ただ単に、痛みが消えない脇腹の傷を見るためである。
「……これは、まずいかな」
刺されたときに見た傷が、全く癒えないままに、その場所にあった。傷口からは、なおも赤い血が流れ続けている。
傷自体が浅いため大した量ではないが、このままだと失血で死に至る危険がある。
そう思った私は、駄目元でもう一度治癒術をかけてみた。だが結果は変わらず、傷は治らないし、血は止まらない。若干でてくる血の量が減った気もするが、それも気のせいかもしれない。
「そりゃそうだよな……。呪いくらいかけてくるよな、普通」
私はため息を吐きながら、患部に停滞と循環の魔術をかけた。これならば完治とはいかないまでも、今後の動きに支障が出ることはなくなる。問題の先延ばしかもしれないが、今は呪いを解いている暇はない。
――明日の晩までもてば、それで十分だ。
そんなことをしているうちに、神殿の地下へと続く部屋の前にたどり着いた。外鍵を開け、階段を上る。
そのすぐ先が、レイチェルの遺骨が収まれている霊廟だった。そちらからは気配を感じないので、言われていた通り素直に礼拝堂へと向かう。
「レイチェル? 入るよ」
そう適当に声をかけ、礼拝堂への扉を開ける。
――礼拝堂の中には何本もの蝋燭がたてられ、淡い光が中を照らしていた。雨が天井を叩く音が相まって、どこが陰鬱な空気を醸し出している。
レイチェルは、礼拝堂の聖卓に腰かけながら、じっと空を見つめていた。
「そんなとこに座ると罰が当たるんじゃない?」
「当たりませんよ、私がここの神様なんだから」
私がからかい交じりにそう言うと、レイチェルはふっと笑って、卓から降りた。
「嫌な予感が当たってしまいましたね」
「……レイチェルも聞いてたの?」
「大体のことは。――そして貴方の今の状況も把握しています。傷が治らないのでしょう?」
「まあね……。最悪明日の晩さえ乗り切ればなんとかなるだろうけど」
「まずその前に『勇者』を名乗る男を倒さなくていけない。……本当にそれまで持ちますか?」
その問いに、私は曖昧に微笑んだ。私にも正直それは分からない。何もしなければ問題はないだろうけど、生死がかかった戦いで、こんな小さい傷のことなんて気にしてられない。恐らく、手足が飛ぶような展開は避けられないだろうし、そこまで重要視することもない。少なくとも私はそう思っていたのだ。
そう思っているのが顔に出ていたのだろう。レイチェルはあからさまに大きなため息を吐いた。
「そんなことだから、周りは貴方のことが心配なんでしょうね。放っておくと、すぐにそうやって自分の存在を軽視するんですから」
そう言ってレイチェルはおもむろに私に近づき、すっと手を伸ばした。
「リボンを付けた手を出してください」
「え、うん。はい」
よく分からなかったが、とりあえず左手を差し出した。また噛みつかれるのはちょっと遠慮したい。
レイチェルは私の手を取ると、そのままリボンに指をかけ、するりとそれを抜き取ってしまった。すると私の体の周りに優しい光が集まり、くるくる回ったかと思うと、その光はレイチェルに吸い込まれるようにして消えていった。
そして私はハッとした。
「……傷が、無い」
「だから言ったでしょう。緊急用のお守りだと」
確かにそう言われれば納得できる。だが、果たしてレイチェルはこんな簡単に呪いが解けるほどに回復していただろうか?
私がそう疑問に思っていると、レイチェルはそのまま顔を上げずに、ポツリと言った。
「勝てますか」
それは問いではなく、確認だった。きっと彼女は私がなんて答えるのか分かっている。
「……厳しいと思う」
これが他の人であれば、無理にでも勝ってみせると言い張っただろう。けれどレイチェルに対し、今さら変な強がりを見せたところでどうしようもない。彼女は、私の本当に弱いところを知っているのだから。
勝てずに死ぬのは怖い。死ぬことよりも、その後に私の大事な人達があんな人でなしなんかに蹂躙されることの方がよっぽど恐ろしい。
それでも私は勝利を信じて戦わなくてはいけないし、生き残るために精一杯頑張らなくてはいけない。それはもう決まっていることだ。今さら覆ることはない。
――たとえ勝率が一割を切ろうとも、私は希望を捨てずに戦い続けるしかないのだ。
「そう、ですか」
レイチェルはそう言って、ゆっくりと顔を上げた。その顔には、悲哀のこもった笑みが浮かんでいる。まるで、何かを諦めたかの様な、そんな笑みだった。
「もしもたった一つだけ、勇者に勝てる方法があると言ったらどうします?」
「どうって……、勝てるんだったら実行するしかないんじゃないかな」
質問の意図がよく分からず、首を傾げる。一つだけでも勝つ方法があるのであれば、それに越したことはない。そう思ったのだけれど、レイチェルは何も言おうとしない。どうしたんだろうか。
「――私は、今になってようやく分かった気がするんです。きっとこれが私に課せられた運命だったんだって」
「何? いきなりどうかしたの?」
様子が変わったレイチェルに、私が不安げにそう問うと、レイチェルは加護を授けた時と同じ呪文を唱えだした。
「ちょっと待って、ねえ、待ってよ」
レイチェルを止めようとするも、彼女は私の言葉に意を介さない。ただひたすらに、何かの呪文を唱えている。
――これは駄目だ。ただ直感でそう思った。
思わず力づくで彼女をつき飛ばそうとしたが、不思議なことに体の自由が利かない。何かに縛られるような感覚があった。捕縛の術だと瞬時に判断し、解呪しようとしたが、その時にはもう遅かった。
私の体が動き出す数舜前に、レイチェルは私の手首に歯を立てていた。ちりりとした痛みが手首に走る。
「私を恨んでくれて構いません。――だから、どうか私のことを忘れないでください」
「言ってる意味が分からないよ。ねぇ、ちゃんと説明してよ、お願いだから……」
レイチェルはそっと傷口を撫で、再度別のリボンを手首に結んだ。今度は簡単に取れないよに、ゆっくりと時間をかけて。
「――説明なんかしなくても、薄々は分かっているのではないですか? 貴方はとても賢い子なんだから」
そう言ってレイチェルは綺麗に笑って見せた。何の憂いもないような明るさが、そこにはあった。
――そしてレイチェルはおもむろに服の裾をたくし上げ、それを私に見せたのだ。
彼女の左の脇腹に残る、一筋の真新しい傷。目が覚めるほどの鮮血を零しながら、その存在を主張していた。
そう、レイチェルは私の傷を治してなんかいなかったのだ。ただその傷を、自分の元へスライドしただけ。呪いは何も解決なんかしていない。
視線を左手首に向ける。となると、再度結ばれたこのリボンはまさか――、
「七巳 流、私の信者、私の王様、私のたった一人の親友。――どうか私を殺して下さい」
私はその時、思い知ったのだ。
何かを得るためには、――何かを失わなければいけない。そんな、単純なことを……。




