104.人間は微笑んでいても、悪党足りうる
眩い光が収縮して、その場に現れたのは、まだ歳若い一人の青年だった。黒の詰襟に、黒のスラックス。それはあまりにも見覚えのある衣装で、私は思わず目を疑った。背中には不釣り合いなほどに大きな剣が背負われており、それだけで真っ当な人間でないことが窺える。
青年はぼんやりとした様子で辺りを見回すと、自分自身のことを確認するかのように、ぺたぺたと自分の体を触り始めた。その不可思議な動作が終わると、青年はゆっくりと空を仰いだ。満月の光を心なし眩しそうに見つめている。
そして私はというと、この場に縫い付けられたかのように動けずにいた。
――体がガタガタと震え歯の根が合わない。これは駄目だ。ふざけるな。――こんなモノが勇者だなんて、誰が認めるものか!
そう心の中で吐き捨てるように叫んだ。
青年の見た目は普通の男子高校生にしか見えない。奇妙な爽やかささえある。それなのに、なんだあのおぞましさは。祟り神である黒曜も底冷えするような負の気配を纏ってはいたが、それとは性質が違う。
部屋に満ちる甘ったるい腐臭に紛れて漂う、隠し切れないほどの死の匂い。夜の墓場のような、戦場の硝煙のような、ひどく据えた匂い。そして異常なほどに青白い、彼の肌。
確信にも似た予感があった。この青年は、もう既に人間ですらない。
――それにあの目。この世の悪意を煮詰めて溶かしたような混沌の色をした、黒い瞳。私もよく宵闇を切り取ったような目だと揶揄されるが、あそこまで邪悪ではない。
震える体を押さえつけ、歯を食いしばるようにして青年を睨み付ける。せめてユーグだけでもこの場から逃がさなければならない。
ざり、と足を動かした瞬間――青年と目が会った。そして彼は、ひどく穏やかにこちらに微笑みかけたのだ。
「こんばんは。良い夜だね、お嬢さん」
その背後に満月を背負い堂々たる様で微笑むその様子は、まるで一枚の絵画のようにも見え、そしてある種の宣告にも見えた。
ガンガンと頭の中で半鐘が鳴る。駄目だ。まともに彼の言葉に声を傾けてはいけない。じりりと、小指の文様が熱を持った気がした。
胸の奥からせり上がる吐き気をこらえながら、私は青年をじっと見つめた。そして、ふと違和感に気づいた。
「……日本語?」
自動的に発動するはずの翻訳システムが、今は全く作動していない。つまり青年が口にしたのは、私の最も聞き覚えのある、日本語ということだ。学ランのような服を着ているからまさかとは思ったが、もしかしたら彼も日本の出身かもしれない。
だからといって、警戒を緩めるつもりはないけれど。
「あれ? もしかして御同胞かな? 懐かしいなぁ、みんな元気にしてるのかなぁ」
青白い顔にぱぁっと頬に赤をさし、嬉しげに青年はそう言った。それは純粋に昔を懐かしむかのような仕草で、どうにも調子が狂う。そのくせこちらに向けてくる視線は、まるで屠殺場の家畜にむけるかのように温度がない。
「君も災難だよね、こんなくっだらないゲームなんかに巻き込まれてさ。俺もちょっと悪いことをしている気分だよ」
青年は軽い口調でそんなことを言った。その口ぶりから察するに、彼は此処に呼ばれた理由やベヒモス――聖杯を巡る戦いのことも全て知っているかのようだった。いや実際に知っているのだろう。それでなければ、こんな値踏みするような視線を向けてくる理由がない。
「その下らないゲームに参加しようとしてる貴方も大概だと思うけど。お呼びじゃないから帰ったら?」
「そんなこと言わないでよ。俺は、ずーっと待ってたんだから。そう、気の遠くなるくらいずっとね」
「見逃してくれたりは……しないだろうね」
「君だけならいいよ? 穏便に所有権を譲渡してくれるならそれでもいいし。何せ久しぶりに会った同胞だからね。それくらいならお安い御用さ」
「他の人達は?」
私が駄目もとで聞くと、彼はさも当然と言いたげに微笑んだ。
「全部聖杯にくべるよ。当然じゃないか」
だよなぁ、と苦々しく思いながら、私は唇を噛み締めた。別に温情を期待していたわけではないけれど、こうも宣言されてしまうとやりきれないものがある。
結局のところ、このわけの分からない侵略者に勝つしか、私達が生き残る道はないのだ。
「お断りだよ、この化け物が」
「俺のことを何も知らないくせに、いきなり化け物扱いだなんてひどいんじゃないかい?」
「……私はお前のことを知らない。でも何なのかは分かる」
「へぇ?」
「生きた死体、夜を歩く者、不死の王。いくらでも言い方はあるが、――お前、人間を止めたな?」
「ふっ、はは。流石は現行の聖杯保持者なだけある。大体当たってるよ」
けらけらと子供のように笑いながら、青年は両手を上げて私を賞賛した。逆に馬鹿にされているとしか思えない。
聞きたいことは山ほどあった。協力者であるドロシーのこと。聖杯を求める理由。何故日本人である彼がファンタジーの世界に足を踏み入れ、人間をやめることになったのか。でも、それを聞いたところでこの実力差がひっくり返るとは思えない。
言葉は濁されたものの、もし彼が私の予想通りの存在ならば、日光や流水、十字架などが弱点になるかもしれない。だがその程度のことはとっくに対策済みだろう。わざわざ自分の弱点を残したままにしておくはずがない。
――ただ分かるのは、この目の前にいる青年は紛れもなく私の敵であるということだけ。
「ああおかしい。まるで子兎のように震えているくせに、そうも強がるなんて。まるで俺の方が悪いことをしているみたいだ」
嗜虐的に笑う青年をしり目に、私はどうすべきかを考えた。
――どうする? 妨害されずに飛べるか?
ユーグと私の二人であれば、ゲートを経由しなくても魔力はあまり消費されない。
問題は、その後の青年の行動だ。けれどこの青年だって、転移くらいは容易にできるだろう。魔術の気配を辿って魔王城まで来られたらたまったもんじゃない。私だって自分の家を爆心地にしてしまうのは避けたい。
それかユーグだけを転移させて、私はここに残って青年の足止めをしつつ、隙を見て逃げ出すという方法もあるが、いまいち勝率がない気もする。
けれど、どうせ戦わなくてはならないなら、せめてユーグだけはこの場から逃がしたい。いくら私だって身近な大切な人が害されることになれば、動揺を隠して戦えるとは思えない。
「――いいよ、逃げても」
青年はまるで世間話をするかのような気安さで、そんなことを言い出した。
「……は?」
「それとも、今ここで死ぬつもりかな?」
ぐっと怒鳴りつけたい気持ちを飲み込んだ。そんなわけがあるか。死ぬ気で戦うつもりはあ
るが、死ぬつもりなんてさらさらない。たとえ、勝ち目がなくたって挑むことは辞めたりしない。それに私は神様と約束したんだ。――絶対に生き残るって。
静かに決意を固めた私を見て、青年は目を細めた。
「――と、言いたいところだけど、同胞のよしみだ。親しき者達と別れを惜しむ時間くらいなら取ってあげてもいい」
「何を、言って」
「一日時間をあげる。明日のこの時間にまた此処へ来なよ。――大丈夫。女を嬲る趣味はないから、優しく殺してあげる」
私が二の句を告げられるにいると、青年は、ああそれと、と言葉を付け足した。
「ただ待っているだけじゃ俺も暇だからね。その間はゆっくりと食事をさせてもらおうか」
青年はそう言うと、パチンと指を鳴らした。刹那、地鳴りのような音がそこら中から響いてきた。強大な魔術行使のときに現れる揺り戻しに良く似ている。
ガシャン、と何か硬いものが擦れるような音が外から聞こえた。一度聞こえたら二度目が、二度目が聞こえたら三度目が。その音は次第に速度を増しておき、暫くするとガガガガガッという連続音にしか聞こえなくなっていった。
「見なよ。あれが俺の軍勢だ。一晩で百万の命を刈り取る優秀な子達さ」
大きく穴の開いた壁から、その戸の景色を見やる。夜の闇に覆われていた平原は、すっかりと様変わりしてしまっていた。地平線の果てまで続く、白く鈍い色をした、凹凸のある物体達。
「スケルトンの、軍勢……?」
人の肉をそぎ落とした骸骨達が、一糸乱れぬ様子でじっとこの廃城の方を窺っている。まるで、王の命令を待つかのように。
だがいくら数が多かろうと、私なら何とか対応できるだろう。――でもそれは私を邪魔する者がいなかった場合だ。
『戦力を分散できない』
それが私の弱点でもある。
私にはこの廃城を含め、ここら一体の草原を焼けた荒野にするくらいの力は持っている。だが、このスケルトン達の様な人を殺せるだけの力を有する兵隊、それも自動で動く人形を作るだけのセンスが私にはない。
これはほぼ確信に近い推測だが、そのスケルトンの大軍は青年が注視していなくても勝手に動く自動式だ。一度生み出してしまえば最後、ただ命令を下すだけで自発的に行動する有能な兵隊たちだ。私が対抗勢力に出来の悪い人形を投入したところで、焼け石に水にしかならないだろう。
だからこそ、いつも単騎で戦いに赴くしかなかったのだ。
それは私の魔術特性に起因する。『破壊』と『増殖』。私はその系統の魔術に特化している。
草花のような単純なつくりの物であれば増殖の特性を有する魔術で対応できるが、ああいった方向性を持って動く人形を作り上げるのは少々勝手が違う。言ってしまえば、私は何かを操るという行為が極めて苦手なのだ。
ベス君の機能によってある程度の融通が利くようになったけど、それも各上相手に通じるほどのものではない。所詮は二番煎じ。実用に耐えうる程の兵隊なんて作れる気がしない。
私が戦いの片手間で出来る妨害といえば、大規模な魔術で絨毯攻撃をするか、草花を急成長させ、蔦を絡ませ足止めをするくらいだ。
だがそんな小細工を許してもらえるほど、きっとこの青年は甘くはない。
――私はこれでも準備や対策を重ねてきたつもりだった。それに対する心構えだって出来ているつもりだった。そうつもりだったのだ。
結局のところ、私は何も分かっていなかった今になってそれを思い知ったのだ。
油断していたわけでも、楽観視していたわけでもない。ただ、想像力が足りなかった。それだけだ。
「別に俺はいいんだよ、一日くらい君に猶予をあげたってさ。どうせ俺が勝つだろう? ――君が悪いことをしたわけでもないのに、別れも言えないなんて可哀想だからね」
何とも私をなめ腐った言葉だった。
けれど青年は心の底から自分の勝利を疑っていない。圧倒的な実力に裏打ちされた、慢心とよんでもおかしくないくらいの絶対の自信。反吐が出る。
……ベス君が言っていたことは正しかった。この青年は間違いなく私よりも格上だ。まともに挑んだところで返り討ちにあうのが関の山だろう。悔しいけれど、私の力は青年に及ばない。
――勝てるイメージが全く浮かんでこない。青年の力を見たわけではない。あの骸骨の大軍ですら、彼にとっては前座の様なものだ。
――これは勝てないかもしれないなぁ。皆をこの戦いに引き込むために、あれだけ調子のいいことを言ったくせに、なんて様だ。
それでも、私は勝たなければいけない。絶対に。何を引き換えにしてもだ。
「分かっていると思うけど、もし時間通りにここにやってこなかったら、俺の方から君に会いに行くことになるから。その時は楽しみに待ってるといいよ。――どう? 俺って優しいだろ?」
「……随分と余裕みたいだけど、その一日で私がアンタに逆転するだけの力を手に入れるとは考えないの」
「現実はそんな王道ファンタジーみたいに甘くないんだよお嬢ちゃん。この世には奇跡なんてありやしない。あるのはいつだって血塗られた運命だけ。だぁれも君のことを助けてなんてくれないさ。すべからく運命に押しつぶされるのが人間の性なんだから」
歪んだ笑みで告げられたその言葉は、私のことを嘲っているようでいて、まるで自分自身に言い聞かせているかのような印象を受けた。だが私はこの青年の心境やスタンスなんて興味がないし、彼が聖杯を狙う以上、戦いは避けらない。
――どうするべきか。そんなこと今さら考えるまでもない。
ここは青年の言葉に従い、一旦引くのが最善の判断だ。けれど、その選択肢を選べば、あのスケルトンの大軍を市街に解き放つことになる。一日経つ間に、いったい何人の人々が死ぬことになるだろう。見当もつかない。
「…………最低の気分だ」
自分の浅ましさも、人命を容易に天秤にかけさせるこの青年も、何もかも最低だ。
「――約束は守れよ夜の王。私はきっとまたここへやってくる。だからアンタも約束は守れ。期限の夜までお前がここから離れることを私は許さない。もしこの約束をたがえるのであれば、私は全身全霊を持ってこの世界に生きる者達と心中してやる」
こいつが約束を守るかどうかなんて、現時点では分からない。だからこそ、釘は刺しておかなければならない。
こんな奴の願いの為に消費されるくらいなら、私が先に介錯してやる。どうせ死ぬ運命だと彼が嘯くならば、一矢報いらねば気が済まない。
「それは困るな。恐ろしいことを言うね、君。まぁ、俺はこう見えて待つのは得意でね。一日くらいであれば、何てことはないさ。酒でも飲みながら、俺の可愛い手駒が奏でるシンフォニーを聞いてゆっくりと待つさ」
「…………下種が」
私の吐き捨てるような物言いに、青年は楽しそうに笑った。
何も間違っていない。これは最善とは言わずとも、そう悪くはない選択だったはずだ。けれど私の選択のせいで、数百万の人命が危機にさらされることになる。いや、見殺しにしたも同然だ。
こんな様で、よくあれだけの大口が叩けたものだ。
――ただでさえ、私が見誤ったせいでこの青年が召喚されてしまう羽目になったのだ。悔やんでも悔やみきれない。
「あ、そうだ。出ていく前に君の名前を教えてよ。殺しあう相手の名前くらいは憶えておきたいからね。因みに俺の名前は――」
「知るか」
ひどく冷たい言葉が、自分の口から洩れた。
「殺す相手の名前なんて私が知ったことか」
そう言い残して、私はユーグを抱き上げ、廃城から飛び降りた。つまりはいい逃げである。せいぜいイラつけばいい。
地面に叩きつけられる前に、転移の術式を展開する。それを使い、私は魔王城へと飛んだ。言葉に出来ない悔しさで、胸が張り裂けそうだ。でも。
「負けるわけには、いかないんだ」
ユーグを抱きしめながら、泣きそうな声で私は呻いた。
制限時間は後二十四時間。――戦い抜くより他に選択肢はないのだから。




