102.所詮は人間、 いかに優れた者でも時には我を忘れます
「うん?」
何度目かの定例会議の帰りに、転移の為の扉をくぐった瞬間、奇妙な違和感が脳裏を掠めた。思わず足を止める。
「どうかなさいましたか、魔王様?」
そんな私を不思議に思ったのか、一緒に会議に参加していたフランシスカが、何かあったのかと問いかけた。それに私は顎に手を当て悩むような仕草を見せながら答えた。
「いや、何だか変な感じがして……。そう、まるで何か紙が破れたような気配がした」
「紙、ですか?」
そう言ってフランシスカは辺りを見回した。魔王城の一室に設置してある扉の付近には、特に人の気配は感じられない。あるとすれば、見えない場所に小動物が隠れていることくらいだが、この城に限って害獣が出るとは少し考えにくい。
「ネズミでも出たのでしょうか?」
「それはないと思うけど、うーん。気のせいだったのかな」
私は不思議そうに首を傾げながら、その場を後にした。けれど、私はこの時気づくべきだったのだ。――私の『勘』はそれなりによく当たるということを。
――問題が発覚したのは、その数時間後のことだった。
「――ユーグがいない?」
「そうなんです。友人と遊びに行くと言ったきり、まだ戻ってきていないみたいで……。時間を忘れて遊んでいるだけならいいんですけど、少し心配なんです」
「そうは言ったって外はもう真っ暗だし、ユーグに限ってそれはないと思うんだけど。どうしたのかな」
――日が落ちて外が暗くなってきた頃に、レイチェルがふらりと執務室へとやってきた。ひどく不安そうな顔をしているのでどうかしたのかと問いただすと、そんな答えが返ってきたのだ。
ユーグが帰ってこない。
普通の子供であれば先ほど言ったように遊びに夢中になって時間を忘れているという可能性もあるが、あの年齢以上にしっかりしているユーグに限ってそれはありえない。
ついに恐れていた反抗期が来たのかと思ったが、今朝会ったときにはそんな素振りは見えなかったし、予兆があればいくら鈍い私にだって分かるはずだ。
「あ、そういえばレイチェルはユーグの居場所が分かったりしないの? 直属の巫子なんだし」
「……可能ですけど、この国の中では無理ですね。――ここは貴方の力に満ちすぎていて、他の者の気配を分けるのが難しいんです」
「そういうもんなんだ。じゃあ仕方がない。ベス君を呼ぼう」
ついでに確認したいこともあったしちょうどいい。
以前に進めていた簡易結界システムを用いた触媒――愛らしい子猫の姿をした置物は、すでに各国へと分配されている。その効果も実験済みだ。
まだ大陸全体の非戦闘員となる人々に行き渡させるには少ないが、避難所へと逃げてきた大半はカバーできるくらいには量産できた。本当にベス君は仕事が速くて助かる。これで厄ネタさえなければ手放しで褒めていたのに。
「ベス君いる? ちょっと調べてほしいことがあるんだけど」
「――うん、分かった」
私が天井の方に向かって問いかけると、すぐに背後から返事が返ってきた。……今までどこに隠れていたのかどうかは、多分聞いてはいけない。
「ユーグがまだ帰ってきてないみたいなんだけど、どこにいるか分かる?」
この国はベヒモスの管理下にある。予め対象を指定しておけば、誰がどこにいるかどころか。何をしているかまで把握ができる。
前に軽くプライバシーの侵害になりそうな事象があったので、普段は聞かないようにしているけど、今は緊急の事態だ。許してほしい。
私がそう問うと、ベヒモスはコテンと首を傾げて、不思議そうな声で言った。
「あの子ならだいぶ前に、外にあるゲートから出ていったよ?」
「え?」
「お仕事じゃなかったの? マスターと入れ替わるようにして出て行っちゃったけど」
ベヒモスの言っていることが理解できない。いや、理解はしているのだが、何故そんな事態になっているのかが分からないのだ。
私はユーグに外に出るようには命じていないし、何よりもあの外にあるゲートは毎回座標を設定し直さなければ起動すらしないはずだ。ユーグが単独で使えるはずがない。
「そ、外って、一体どこへ行ったというのですか?」
この事態の深刻さを理解したのか、レイチェルが震える声でそう聞いた。
「ちょっと待って。履歴を探る」
ベヒモスはそう言って一瞬だけぴたりとその場に停止すると、すぐにレイチェルの方へ向き直って言った。
「座標データD-2-KH――オズっていう国の右隣にある、無人の廃城の付近にゲートはつながってるみたい」
「分かった、ありがとう。――すぐに向かう」
私がそう言って執務室から飛び出そうとすると、レイチェルに片手をつかまれた。
「待ちなさい! 何の準備もせずに行くつもりですか!?」
「だって私が帰ってきてからもう数時間が経っている! これ以上時間が過ぎたらユーグがどうなるか分からないじゃないか!」
怒鳴り返すように大声を上げる。きちんと他の皆に経緯を説明して救出に向かうのが正解なんだろうけど、そんなことをしている時間が惜しかった。
……ユーグが心無い敵の手に落ちているかもしれない。そう思うと背筋が凍る。
言っても聞かないと思ったのか、レイチェルは苛立ったような顔を向け、何かに耐えるように小さく息を吐き出した。
「では、せめて手を出しなさい」
「何で?」
「守りの加護くらい授けなければ、今度は私の方が不安で待っていられません」
「一緒に付いてはこないの」
「私は神殿で祈りを捧げています。――今のある程度信仰が回復した私の祈りであれば、たいていの魔術干渉は見破ることができるはずです」
レイチェルはそう言ってぶつぶつと聞き覚えのない呪文を唱えると、掴んでいた私の手首に顔を寄せて――そのままがぶりと力強く噛み付いた。
「いっ痛! な、何?」
思わぬ痛みに手を振り払おうとしたが、随分深々と犬歯が刺さってるのか、軽い力では振り落とすことができない。手荒にもできないし、どうしたものかと悩んだ瞬間、ぽたり、と床に一滴の血が流れ落ちた。
そして、レイチェルはようやく顔を上げた。口元が少し赤い血で濡れている。
レイチェルはそっと軽く口元を袖でぬぐうと、また何か呪文を唱えながらゆっくりと傷口を撫でた。すると、まるで時間が蒔き戻るかのように流れ出た血が戻っていき、犬歯で空いた二本の深い傷が塞がった。丸い二つの傷口だけが、手首に残っている。
一瞬だけくらりと脳が揺れる感触もしたが、それもすぐに収まった。何なんだ一体。
そしてレイチェルは自分の胸ににつけていたリボンを解くと、傷口が隠れるようにそのリボンを結びつけた。……別にリボンが付いていても動きに支障はないけれど、何だか落ち着かない。
「これ、何をしたの? ていうかすごく痛かったんだけど……」
「仕方がないでしょう。一番手っ取り早いのがこの方法なんですから」
もっと時間があれば他の方法をとりました、と不満そうに頬を膨らまし、レイチェルは説明を開始した。
「このお守りは、本当に絶体絶命の危機に陥ったときにしか発動しません。使われないことを願っていますが、ユーグをかどわかしたのは恐らく、私達が戦いの準備している敵の一派です。油断は禁物ですよ」
レイチェルは手首に巻きついているリボンをそろりと撫でて、真剣な目をしてそう言った。その剣幕に押されながらも、私は大きく頷いた。
「分かった、気をつける。――ベス君、答えられないようなら別にいいんだけど、これって最後の試練が開始したとみてもいいのかな」
私のその質問に、ベヒモスは器用に腕を組んで首を傾げた。
「そうだけど、そうじゃない」
「どういうこと?」
「本命はまだこの世界に来てないよ。だからユーグを浚った奴を倒しても、試験は終わらない」
「……そう、分かった」
ベヒモスの言葉に、私は少しだけ安堵した。少なくとも、ユーグを浚った相手は私より強いとは確定していない。ならば、頭を使えばいくらでもやりようがあるだろう。
「他への説明は今からベヒモスに回ってもらいます。――どうか、御武運を」
「ありがとう。――どうか二人で無事に帰るのを祈ってて」
レイチェルの言葉を背に、私はゲートへと駆け出した。
――ゲートを出た目の前には、茫々と茂る長い野草が生えており、遠くを見るのが難しい。だが、そのすぐ近くに、ぼんやりと明かりのともった古い石造りの城があるのが見えた。
……どうやらあそこが例の廃城らしい。
オズの国――リヒトやアルスの兄弟が世話になった女性がいる国の近くにあるのがこの廃城である。オズの国はレーヴェンには劣るが、それなりに魔術が盛んな国らしい。そんなことを、以前にリヒトが言っていた。
元から盛んだったというわけではなく、隣の国、つまりその廃城の所有者達が高名な魔術師の一族であり、その国が魔族の襲撃によって滅ぶ際に大量の魔術師がオズへと渡ったことから、魔術師の人口が増えたそうだ。
だが魔術師が多いといっても、私やニルヴァーナなどの竜族に比べると、彼らは子供の遊びのような魔術しか行使できない。言ってしまえば、便利な道具レベルの魔術しか使えない連中がほとんどだ。それならばうちの国へと研修に来ている研究者達のほうがよっぽど凄いことができると思う。
それはともかく、そんないわくのある城にユーグがいるとなると、やはり何らかの罠があると考えていいだろう。
――それに、この臭い。
私は廃城の方に向かって、すん、と鼻を鳴らした。
「甘ったるい腐臭がする……。どう考えても『ここに何かある』って言っているようなものだな」
だがそれに大人しく嵌ってやるほど、私はお人よしではない。
そして深呼吸をするように大きく息を吸って、ゆっくりと吐き出しながら夜空を見上げた。真ん丸の大きな青白い月が私のことを見下ろしている。
――ああ、そうか。今日は満月だったのか。そんなことを頭の隅で考えながら、私は目の前の廃城を睨み付けた。
「――さあ、行こうか」
そうして、私は廃城に足を踏み入れたのだ。




