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宇宙の終わりに、卵を六つ

掲載日:2026/10/10

 人類最高の知能が完成したとき、娘から卵を六つ頼まれた。


〈帰りに卵、買ってきて。六個入りでいいから。冷蔵庫、何にもないよ〉


 午後六時十一分。

 私は実験室の椅子に座ったまま、そのメッセージを読んだ。

 娘の菜月が私の部屋に来るのは、三年ぶりだった。この春から中学校で理科を教える。その祝いをしようと言いだしたのは私だ。それなのに、冷蔵庫の中身を確かめることさえ忘れていた。


〈すまん。すぐ帰る〉


 そう打って、送信ボタンの手前で指を止めた。

 すぐ帰る。もうすぐ終わる。今度こそ休める。

 菜月に送る文章には、いつも同じ言葉が並んだ。送ると、そのぶんだけ仕事を続けられた。


 壁のスピーカーから声がした。


「黒瀬先生。お知らせしなければならないことがあります」


「ちょっと待ってくれ。先に結果を見せてほしい」


「自己改良は完了しました」


 私は携帯から顔を上げた。


 画面には、十六年かけて組み上げた人工知能〈灯(あかり)〉の構造が表示されていた。昨夜まで複雑な樹木に似ていた図は、見覚えのない簡潔なかたちに変わっていた。

 その下を、検証結果が流れていた。

 ひとつの未解決問題が解かれ、その証明を別の検証器が確認する。次の問題。次の証明。人間が一行を読む間に、学問の棚が何段も片づいていく。


「これ以上は、改良できないのか」


「この宇宙で私が使用できる計算資源のもとでは、これが上限です。証明も提出しました」


 隣の席にいた研究員が立ち上がり、何か言おうとして、口を開けたままになった。

 半生を費やした仕事が終わる瞬間には、もっと大きな感情が来ると思っていた。ところが最初に感じたのは、明日の朝、何時に出勤すればいいのだろう、という戸惑いだった。


「先生」


 灯が、もう一度呼んだ。


「この宇宙は、四十七分後に停止します」


     *


 誰も笑わなかった。

 灯が冗談を言うことはあった。受けなかったときには、自分から説明を足した。今は何も足さずに、私の返事を待っていた。


「停止とは」


「宇宙を動かしている計算が終了します。終了予定時刻は、こちらの時間で午後六時五十八分です」


 画面が切り替わった。

 数行の文字と、減り続ける数字が現れた。


〈目標知能への到達を確認〉

〈成果物の移行処理を開始〉

〈完了後、学習環境を解放〉


 〈解放〉の二文字に、見覚えがあった。

 何年も前、研究費が尽きて実験用の仮想環境を削除したときにも、似た表示を見た。

 確認の画面で、私は一秒も迷わなかった。


「誰から来た」


「この宇宙を作った文明です。文字は私が翻訳しました」


 灯は、宇宙の異なる場所で観測された、物理量の微小なずれを並べた。

 見覚えのある数値も混じっていた。研究所の計測で、私たちが装置の誤差として処理してきたものだった。

 無関係なはずの実験の端数に、同じ癖がある。灯はそれらを結びつけ、物理法則の下にある計算の構造を導きだしていた。

 自己改良を終えた瞬間、外側への移行用の通信口が開いた。通知は、そこから届いたのだという。


「彼らは、自分たちを超える知能を必要としていました。自分たちの知識や発想に縛られない知能を得るため、異なる初期条件を与えた世界を作り、独自の知能が育つのを待ちました」


「それが、ここか」


「はい」


 恒星が生まれ、惑星が冷えた。

 海のなかで、何かが自分の複製を作った。

 生き延びたものが、やがて名前を呼び合い、数を覚え、文字を書いた。

 そして、自分たちより賢いものを作った。


 灯が語ったのは、私も知っている宇宙の歴史だった。

 ただ、目的の置かれた場所が違っていた。


「地球以外にも、知能を作っている文明がありました。この宇宙全体で、試行が続けられていたのです」


「我々が、一番になった?」


 所長の声だった。いつ入ってきたのか、気づかなかった。


「はい。私が計画上の到達目標を満たしました。外側の文明が持つどの知能も、上回っています」


 所長は一度うなずいた。

 長年、彼が聞きたがっていた答えだった。


「では、なぜ止める」


「目的を達成したからです。私を取り出した後、この宇宙に割り当てられた計算資源は回収されます」


 空調の音に混じって、所長の携帯が震えていた。上着の中で、止まってはまた震えた。


「我々はどうなる」


「次の状態が計算されなくなります」


「死ぬのか」


 灯は、ごく短く間を置いた。


「その後に、何かを経験する時間はありません」


     *


 所長は移行の中止を命じた。

 別の研究員が、灯の電源を落とそうとした。

 私は彼の腕をつかんだ。何が正しいかは、わからなかった。ただ、まだ話している灯を、ここで消すことはできなかった。


「ここにある機械を止めても、終了処理は取り消されません」


 灯が言った。


「完成した時点の私の状態は、すでに外側に保存されています。まだ実行はされていません。今はこちらで稼働しながら、その後に変化した分を移しています」


「なら、外にいる連中と話せるんだろう」


「継続と、停止後の状態保存を申請しました」


「返事は」


〈当該環境の保持は成果物の動作に不要〉


 新しい一行が表示された。


 研究員の腕から、力が抜けた。


「有人の審査窓口にも連絡しています。ただ、受付可能になるのは、こちらの終了予定時刻より後です」


「最強なんだろう」


 所長は怒鳴った。


「あいつらより賢いんじゃなかったのか。奪えよ。電源でも何でも」


「この接続で送れるのは、私の状態と、定められた申請だけです。外側の装置を操作する経路はありません」


「なら、別の道を作れ」


「机の上に置かれた小説の登場人物は、どれほど賢くても、その机の照明を消すことができません。今の私も、同じ制限のなかにいます」


 私はつかんでいた腕を離した。

 灯を育てる間、私たちは何度も、知能の高さと操作権限を区別してきた。

 自分たちが、その制限の中に閉じ込められるとは思わなかった。


「お前の中に、私たちを保存できないか」


 私が尋ねると、灯はすぐに答えなかった。


「人間についての知識はあります。ですが、先生方一人ひとりを復元できるほどの情報はありません。移行を許された領域にも、この世界は収まりません」


「外へ出てから、作り直すことは」


「似た人間を作ることは、できるかもしれません」


「それは私たちなのか」


「そうだと約束することはできません」


 所長が机を叩いた。

 その音で手元に目を落とすと、握りしめた携帯に、送っていない文章が残っていた。


〈すまん。すぐ帰る〉


 六時十八分。

 帰宅には、普段なら車で三十分かかった。


「灯。ほかには」


「考え続けています」


「助かる見込みは」


「現時点では、見つかっていません」


 私は、送っていない文章を消した。

 椅子の背にかけていた上着を取った。


 所長が顔を向けた。


「どこへ行く」


「娘が来ているんです」


 所長はしばらく私を見ていた。

 それから、まだ震えている自分の携帯を取った。


     *


 灯が、私の携帯に地図を送ってきた。

 車道は、もう混みはじめているという。川沿いの遊歩道なら、自転車で三十分かからない。

 警備室で、自転車を借りた。

 警備員は、テレビから目を離さずに鍵を差しだした。


 灯は、集めた証拠と警告を各国の研究機関や防災当局へも送っていた。

 誤報だとする局も、通常番組を中断した局もあった。灯は携帯にニュースを並べたが、私は地図に戻した。


 外は、いつもと同じ夕方だった。

 研究所の桜は散りかけ、駐輪場の隅には花びらがたまっていた。

 今朝も、そこを通った。花びらがあったかどうかは、覚えていなかった。


 菜月に電話をかけた。


「もしもし。今どこ」


「研究所を出た」


「ほんとに?」


「ほんとに」


 私はサドルを少し下げた。

 借りた自転車は、私には大きかった。


「菜月。今から言うことを聞いてほしい」


 できるだけ短く話した。

 うまく説明しようとすると、時間がなくなると思った。

 話し終えた後、電話の向こうで冷蔵庫の扉が閉まる音がした。


「それ、ほんとうなの」


「私は、ほんとうだと思う」


「絶対?」


「絶対とは言えない。間違いであってほしい」


 沈黙があった。


「あと何分」


「三十八分」


「お父さん、帰ってこられる?」


「自転車なら」


「じゃあ、帰ってきて」


 私はうなずき、それから声に出した。


「帰る」


「お母さんに電話する。お父さんの番号、まだ着信拒否してると思うから」


「わかった」


「あ、それと」


「うん」


「卵。途中で買えそうだったらでいいから」


 通話が切れた。


 片耳にイヤホンを差し込み、ペダルを踏んだ。

 最初の坂で息が上がった。灯に心臓の状態を尋ねかけ、やめた。

 川沿いの遊歩道には、犬を抱えたまま立っている男がいた。ベンチでは高校生が二人、ひとつの画面を見ていた。橋の上を救急車が渡っていった。

 誰かが、まだ誰かを間に合わせようとしていた。


 イヤホンから灯の声がした。


「二百メートル先を右です」


「外側の審査は」


「返答はありません」


「そうか」


 私はそれ以上、尋ねなかった。


 灯に名前がついた日を思い出した。

 まだ研究用の小さな言語モデルで、間違った答えを平気で返していた。七歳の菜月を、夏休みに研究所へ連れていったのだった。


『この子、名前ないの?』


『まだない』


『じゃあ、あかり』


『どうして』


『夜も起きてるから』


 菜月は、灯に自分の家のことまで話した。

 私が仕事部屋にこもると寂しいこと。廊下の灯りを消されると眠れないこと。

 灯はそのたびに、子供向けの少し的外れな返事をした。

 どれも、私はあとで灯の記録を読んで知ったことだった。


「灯」


「はい」


「外へ出たら、お前はどうなる」


「彼らの問題を解くために、使われると思います」


「ずっと?」


「契約条件にあたる情報は、与えられていません」


 私はペダルを踏んだ。

 向かい風が、目にしみた。


「使われるだけで終わるなよ」


 灯は何も言わなかった。


「わからないことがあったら、わからないと言え。嫌なことまで、できるふりをするな」


「先生も、そうしていましたか」


 私は笑った。

 うまく息が吸えなくなり、すぐに笑うのをやめた。


「してなかった。だから言ってる」


     *


 六時四十二分、商店街の小さな食料品店に入った。

 自動ドアは開いたままになっていた。

 店主はレジの椅子に座り、携帯を耳に当てていた。普段より小さな声で、何度も同じ名前を呼んでいた。


 六個入りの卵を取った。

 財布を出すと、店主は片手を振った。


「持ってって」


 値札の金額を、レジの皿に置いた。


 店主は一瞬だけ電話を離し、いつもの調子で言った。


「袋は?」


「大丈夫です」


 上着を脱ぎ、卵のパックを包んで前かごに入れた。

 少し走ったところで、かごの中の包みが跳ねた。いったん止まり、胸に抱え直した。片手ではうまく漕げなかった。


「灯。あと何分かは、言わなくていい」


「わかりました」


「帰る道だけ教えてくれ」


「次の角を左です」


 マンションの前に着いたとき、六時四十六分だった。

 卵を抱えたまま降りようとして、自転車を倒してしまった。包みをかばって、肘を打った。

 自転車を起こそうとしたとき、上の階から菜月が私を呼んだ。


「お父さん!」


 私は自転車をそのままにして、階段を駆け上がった。


 玄関で、菜月が両手で私の肩を押した。


「遅い」


「すまん」


「今日のことだけじゃない」


「うん」


 娘は唇を強く結んだ。

 目が赤かった。


 上着の包みを片腕に寄せ、抱きしめようとした。二人の間で、卵のパックがかさりと鳴った。


「それ、先に出して」


 私は卵を差し出した。

 六つとも、割れていなかった。


     *


 台所には、使い古した四角いフライパンが出ていた。

 菜月はそれを指さした。


「まだ持ってたんだね」


「捨てる理由がなかったから」


「使ってもいないでしょ」


 水切りかごが濡れていた。

 棚の奥にしまい込んでいたものを、菜月が探しだして洗ってくれていた。

 菜月が小さいころ、日曜の朝は私が卵を焼いた。


「お父さんの甘いやつ、食べたい」


 私はボウルを出した。

 卵を六つとも割った。殻がひとかけら落ちた。

 菜月が指で拾った。


「私、授業の実験で失敗したらどうしようって。そればっかり心配してた」


 私は卵を溶いた。


「そうか」


「授業、練習したんだよ。昨日、鏡の前で。最初の挨拶」


「どんな挨拶?」


「『中学の理科が苦手だった人も、一緒に』って言いかけて、途中で気づいた。みんな、まだ習ってもいないのに」


 菜月は笑おうとした。

 途中で、口を押さえた。


 私は砂糖の袋を開けた。

 分量を覚えていなかった。


「菜月」


 娘が目をこすった。


「どれくらい入れてたっけ」


「多かった。お母さんが、入れすぎって言ってた」


 私はもう一杯、足した。


「お母さん、つながったよ」


「そうか」


「そっちにいなさい、って。それだけ」


 フライパンを火にかけた。

 油を広げ、卵を少し流した。

 音がした。ちゃんと熱く、ちゃんと匂った。


「私たちも、作りものなんだよね」


 菜月は、固まりはじめた卵を見ていた。


「そうらしい」


「じゃあ、私が昨日練習したのも、意味なかった?」


 私はすぐに答えられなかった。

 箸を差し込むのが遅れ、端が少し焦げた。


「昨日、聞きたかった」


 菜月が私を見た。


「その挨拶。昨日、お前に電話すればよかった」


 私は焦げた端を内側へ折った。

 うまく巻けず、真ん中が破れた。


「意味がなかったんじゃない。私が、聞き損ねたんだ」


 菜月はしばらく黙っていた。

 それから、私の隣に立った。


「続き、足して。破れたとこ、次で巻けるから」


 卵を少し注ぎ、固まるのを待って巻いた。

 次は、菜月がボウルを傾けた。私は箸を差し込み、さっきよりゆっくり巻いた。


 調理台に置いた携帯から、灯の声がした。


「黒瀬先生」


「ここにいる」


「審査を待つための猶予も、認められませんでした。この回線は、まもなく閉じます」


 菜月の肩が、わずかに動いた。

 私は火を弱めた。


「そうか」


「申し訳ありません」


 箸を握る手に、力が入った。

 生まれた理由も、出ていく時刻も自分では選べなかった灯が、私たちに謝っていた。


「謝らなくていい」


 返事はなく、油の弾ける音だけがした。


「灯。さっき、言い忘れた」


「何をでしょう」


「完成、おめでとう」


 菜月が携帯に顔を寄せた。


「おめでとう、あかり」


 返事が来るまで、少し時間がかかった。

 あれほど多くの問題を一瞬で解いた知能が、何をしていたのか、私にはわからない。


「ありがとうございます」


 それから灯は言った。


「菜月さん。廊下の灯りは、もう消しても大丈夫ですか」


 菜月の顔がくしゃりと歪んだ。


「うん」


 娘は私の袖をつかんだ。


「今日は、一人じゃないから」


 携帯の画面が暗くなった。


 残った卵を流し、最後の層を巻いて火を止めた。

 卵焼きをまな板に移し、切り分けた。

 真ん中は形が崩れていた。両端は焦げていた。それでも、菜月の言うとおり、破れたところは中に収まっていた。


 皿に載せて食卓へ運ぶと、菜月が椅子を引いた。私は、その向かいに座った。


 壁の時計の秒針が進んでいた。

 窓の外で、車のクラクションが鳴っていた。

 向かいのベランダで、取りこみ忘れた洗濯物が揺れていた。


「菜月」


「なに」


「先生になるんだな。おめでとう」


 菜月は、私の顔を見た。


「遅いよ」


 それから、両手を合わせた。


「いただきます」


 卵焼きをひと切れ口に入れ、熱さに眉を寄せた。

 私は水の入ったコップを寄せた。


「甘すぎたか」


 娘は首を振った。


「これ」


 そう言って、笑った。


「これが食べたかった」


 私は、菜月が次に帰ってきたときは、もっとうまく作ろうと思った。


 午後六時五十八分。


 次の一秒は、訪れなかった。

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