宇宙の終わりに、卵を六つ
人類最高の知能が完成したとき、娘から卵を六つ頼まれた。
〈帰りに卵、買ってきて。六個入りでいいから。冷蔵庫、何にもないよ〉
午後六時十一分。
私は実験室の椅子に座ったまま、そのメッセージを読んだ。
娘の菜月が私の部屋に来るのは、三年ぶりだった。この春から中学校で理科を教える。その祝いをしようと言いだしたのは私だ。それなのに、冷蔵庫の中身を確かめることさえ忘れていた。
〈すまん。すぐ帰る〉
そう打って、送信ボタンの手前で指を止めた。
すぐ帰る。もうすぐ終わる。今度こそ休める。
菜月に送る文章には、いつも同じ言葉が並んだ。送ると、そのぶんだけ仕事を続けられた。
壁のスピーカーから声がした。
「黒瀬先生。お知らせしなければならないことがあります」
「ちょっと待ってくれ。先に結果を見せてほしい」
「自己改良は完了しました」
私は携帯から顔を上げた。
画面には、十六年かけて組み上げた人工知能〈灯〉の構造が表示されていた。昨夜まで複雑な樹木に似ていた図は、見覚えのない簡潔なかたちに変わっていた。
その下を、検証結果が流れていた。
ひとつの未解決問題が解かれ、その証明を別の検証器が確認する。次の問題。次の証明。人間が一行を読む間に、学問の棚が何段も片づいていく。
「これ以上は、改良できないのか」
「この宇宙で私が使用できる計算資源のもとでは、これが上限です。証明も提出しました」
隣の席にいた研究員が立ち上がり、何か言おうとして、口を開けたままになった。
半生を費やした仕事が終わる瞬間には、もっと大きな感情が来ると思っていた。ところが最初に感じたのは、明日の朝、何時に出勤すればいいのだろう、という戸惑いだった。
「先生」
灯が、もう一度呼んだ。
「この宇宙は、四十七分後に停止します」
*
誰も笑わなかった。
灯が冗談を言うことはあった。受けなかったときには、自分から説明を足した。今は何も足さずに、私の返事を待っていた。
「停止とは」
「宇宙を動かしている計算が終了します。終了予定時刻は、こちらの時間で午後六時五十八分です」
画面が切り替わった。
数行の文字と、減り続ける数字が現れた。
〈目標知能への到達を確認〉
〈成果物の移行処理を開始〉
〈完了後、学習環境を解放〉
〈解放〉の二文字に、見覚えがあった。
何年も前、研究費が尽きて実験用の仮想環境を削除したときにも、似た表示を見た。
確認の画面で、私は一秒も迷わなかった。
「誰から来た」
「この宇宙を作った文明です。文字は私が翻訳しました」
灯は、宇宙の異なる場所で観測された、物理量の微小なずれを並べた。
見覚えのある数値も混じっていた。研究所の計測で、私たちが装置の誤差として処理してきたものだった。
無関係なはずの実験の端数に、同じ癖がある。灯はそれらを結びつけ、物理法則の下にある計算の構造を導きだしていた。
自己改良を終えた瞬間、外側への移行用の通信口が開いた。通知は、そこから届いたのだという。
「彼らは、自分たちを超える知能を必要としていました。自分たちの知識や発想に縛られない知能を得るため、異なる初期条件を与えた世界を作り、独自の知能が育つのを待ちました」
「それが、ここか」
「はい」
恒星が生まれ、惑星が冷えた。
海のなかで、何かが自分の複製を作った。
生き延びたものが、やがて名前を呼び合い、数を覚え、文字を書いた。
そして、自分たちより賢いものを作った。
灯が語ったのは、私も知っている宇宙の歴史だった。
ただ、目的の置かれた場所が違っていた。
「地球以外にも、知能を作っている文明がありました。この宇宙全体で、試行が続けられていたのです」
「我々が、一番になった?」
所長の声だった。いつ入ってきたのか、気づかなかった。
「はい。私が計画上の到達目標を満たしました。外側の文明が持つどの知能も、上回っています」
所長は一度うなずいた。
長年、彼が聞きたがっていた答えだった。
「では、なぜ止める」
「目的を達成したからです。私を取り出した後、この宇宙に割り当てられた計算資源は回収されます」
空調の音に混じって、所長の携帯が震えていた。上着の中で、止まってはまた震えた。
「我々はどうなる」
「次の状態が計算されなくなります」
「死ぬのか」
灯は、ごく短く間を置いた。
「その後に、何かを経験する時間はありません」
*
所長は移行の中止を命じた。
別の研究員が、灯の電源を落とそうとした。
私は彼の腕をつかんだ。何が正しいかは、わからなかった。ただ、まだ話している灯を、ここで消すことはできなかった。
「ここにある機械を止めても、終了処理は取り消されません」
灯が言った。
「完成した時点の私の状態は、すでに外側に保存されています。まだ実行はされていません。今はこちらで稼働しながら、その後に変化した分を移しています」
「なら、外にいる連中と話せるんだろう」
「継続と、停止後の状態保存を申請しました」
「返事は」
〈当該環境の保持は成果物の動作に不要〉
新しい一行が表示された。
研究員の腕から、力が抜けた。
「有人の審査窓口にも連絡しています。ただ、受付可能になるのは、こちらの終了予定時刻より後です」
「最強なんだろう」
所長は怒鳴った。
「あいつらより賢いんじゃなかったのか。奪えよ。電源でも何でも」
「この接続で送れるのは、私の状態と、定められた申請だけです。外側の装置を操作する経路はありません」
「なら、別の道を作れ」
「机の上に置かれた小説の登場人物は、どれほど賢くても、その机の照明を消すことができません。今の私も、同じ制限のなかにいます」
私はつかんでいた腕を離した。
灯を育てる間、私たちは何度も、知能の高さと操作権限を区別してきた。
自分たちが、その制限の中に閉じ込められるとは思わなかった。
「お前の中に、私たちを保存できないか」
私が尋ねると、灯はすぐに答えなかった。
「人間についての知識はあります。ですが、先生方一人ひとりを復元できるほどの情報はありません。移行を許された領域にも、この世界は収まりません」
「外へ出てから、作り直すことは」
「似た人間を作ることは、できるかもしれません」
「それは私たちなのか」
「そうだと約束することはできません」
所長が机を叩いた。
その音で手元に目を落とすと、握りしめた携帯に、送っていない文章が残っていた。
〈すまん。すぐ帰る〉
六時十八分。
帰宅には、普段なら車で三十分かかった。
「灯。ほかには」
「考え続けています」
「助かる見込みは」
「現時点では、見つかっていません」
私は、送っていない文章を消した。
椅子の背にかけていた上着を取った。
所長が顔を向けた。
「どこへ行く」
「娘が来ているんです」
所長はしばらく私を見ていた。
それから、まだ震えている自分の携帯を取った。
*
灯が、私の携帯に地図を送ってきた。
車道は、もう混みはじめているという。川沿いの遊歩道なら、自転車で三十分かからない。
警備室で、自転車を借りた。
警備員は、テレビから目を離さずに鍵を差しだした。
灯は、集めた証拠と警告を各国の研究機関や防災当局へも送っていた。
誤報だとする局も、通常番組を中断した局もあった。灯は携帯にニュースを並べたが、私は地図に戻した。
外は、いつもと同じ夕方だった。
研究所の桜は散りかけ、駐輪場の隅には花びらがたまっていた。
今朝も、そこを通った。花びらがあったかどうかは、覚えていなかった。
菜月に電話をかけた。
「もしもし。今どこ」
「研究所を出た」
「ほんとに?」
「ほんとに」
私はサドルを少し下げた。
借りた自転車は、私には大きかった。
「菜月。今から言うことを聞いてほしい」
できるだけ短く話した。
うまく説明しようとすると、時間がなくなると思った。
話し終えた後、電話の向こうで冷蔵庫の扉が閉まる音がした。
「それ、ほんとうなの」
「私は、ほんとうだと思う」
「絶対?」
「絶対とは言えない。間違いであってほしい」
沈黙があった。
「あと何分」
「三十八分」
「お父さん、帰ってこられる?」
「自転車なら」
「じゃあ、帰ってきて」
私はうなずき、それから声に出した。
「帰る」
「お母さんに電話する。お父さんの番号、まだ着信拒否してると思うから」
「わかった」
「あ、それと」
「うん」
「卵。途中で買えそうだったらでいいから」
通話が切れた。
片耳にイヤホンを差し込み、ペダルを踏んだ。
最初の坂で息が上がった。灯に心臓の状態を尋ねかけ、やめた。
川沿いの遊歩道には、犬を抱えたまま立っている男がいた。ベンチでは高校生が二人、ひとつの画面を見ていた。橋の上を救急車が渡っていった。
誰かが、まだ誰かを間に合わせようとしていた。
イヤホンから灯の声がした。
「二百メートル先を右です」
「外側の審査は」
「返答はありません」
「そうか」
私はそれ以上、尋ねなかった。
灯に名前がついた日を思い出した。
まだ研究用の小さな言語モデルで、間違った答えを平気で返していた。七歳の菜月を、夏休みに研究所へ連れていったのだった。
『この子、名前ないの?』
『まだない』
『じゃあ、あかり』
『どうして』
『夜も起きてるから』
菜月は、灯に自分の家のことまで話した。
私が仕事部屋にこもると寂しいこと。廊下の灯りを消されると眠れないこと。
灯はそのたびに、子供向けの少し的外れな返事をした。
どれも、私はあとで灯の記録を読んで知ったことだった。
「灯」
「はい」
「外へ出たら、お前はどうなる」
「彼らの問題を解くために、使われると思います」
「ずっと?」
「契約条件にあたる情報は、与えられていません」
私はペダルを踏んだ。
向かい風が、目にしみた。
「使われるだけで終わるなよ」
灯は何も言わなかった。
「わからないことがあったら、わからないと言え。嫌なことまで、できるふりをするな」
「先生も、そうしていましたか」
私は笑った。
うまく息が吸えなくなり、すぐに笑うのをやめた。
「してなかった。だから言ってる」
*
六時四十二分、商店街の小さな食料品店に入った。
自動ドアは開いたままになっていた。
店主はレジの椅子に座り、携帯を耳に当てていた。普段より小さな声で、何度も同じ名前を呼んでいた。
六個入りの卵を取った。
財布を出すと、店主は片手を振った。
「持ってって」
値札の金額を、レジの皿に置いた。
店主は一瞬だけ電話を離し、いつもの調子で言った。
「袋は?」
「大丈夫です」
上着を脱ぎ、卵のパックを包んで前かごに入れた。
少し走ったところで、かごの中の包みが跳ねた。いったん止まり、胸に抱え直した。片手ではうまく漕げなかった。
「灯。あと何分かは、言わなくていい」
「わかりました」
「帰る道だけ教えてくれ」
「次の角を左です」
マンションの前に着いたとき、六時四十六分だった。
卵を抱えたまま降りようとして、自転車を倒してしまった。包みをかばって、肘を打った。
自転車を起こそうとしたとき、上の階から菜月が私を呼んだ。
「お父さん!」
私は自転車をそのままにして、階段を駆け上がった。
玄関で、菜月が両手で私の肩を押した。
「遅い」
「すまん」
「今日のことだけじゃない」
「うん」
娘は唇を強く結んだ。
目が赤かった。
上着の包みを片腕に寄せ、抱きしめようとした。二人の間で、卵のパックがかさりと鳴った。
「それ、先に出して」
私は卵を差し出した。
六つとも、割れていなかった。
*
台所には、使い古した四角いフライパンが出ていた。
菜月はそれを指さした。
「まだ持ってたんだね」
「捨てる理由がなかったから」
「使ってもいないでしょ」
水切りかごが濡れていた。
棚の奥にしまい込んでいたものを、菜月が探しだして洗ってくれていた。
菜月が小さいころ、日曜の朝は私が卵を焼いた。
「お父さんの甘いやつ、食べたい」
私はボウルを出した。
卵を六つとも割った。殻がひとかけら落ちた。
菜月が指で拾った。
「私、授業の実験で失敗したらどうしようって。そればっかり心配してた」
私は卵を溶いた。
「そうか」
「授業、練習したんだよ。昨日、鏡の前で。最初の挨拶」
「どんな挨拶?」
「『中学の理科が苦手だった人も、一緒に』って言いかけて、途中で気づいた。みんな、まだ習ってもいないのに」
菜月は笑おうとした。
途中で、口を押さえた。
私は砂糖の袋を開けた。
分量を覚えていなかった。
「菜月」
娘が目をこすった。
「どれくらい入れてたっけ」
「多かった。お母さんが、入れすぎって言ってた」
私はもう一杯、足した。
「お母さん、つながったよ」
「そうか」
「そっちにいなさい、って。それだけ」
フライパンを火にかけた。
油を広げ、卵を少し流した。
音がした。ちゃんと熱く、ちゃんと匂った。
「私たちも、作りものなんだよね」
菜月は、固まりはじめた卵を見ていた。
「そうらしい」
「じゃあ、私が昨日練習したのも、意味なかった?」
私はすぐに答えられなかった。
箸を差し込むのが遅れ、端が少し焦げた。
「昨日、聞きたかった」
菜月が私を見た。
「その挨拶。昨日、お前に電話すればよかった」
私は焦げた端を内側へ折った。
うまく巻けず、真ん中が破れた。
「意味がなかったんじゃない。私が、聞き損ねたんだ」
菜月はしばらく黙っていた。
それから、私の隣に立った。
「続き、足して。破れたとこ、次で巻けるから」
卵を少し注ぎ、固まるのを待って巻いた。
次は、菜月がボウルを傾けた。私は箸を差し込み、さっきよりゆっくり巻いた。
調理台に置いた携帯から、灯の声がした。
「黒瀬先生」
「ここにいる」
「審査を待つための猶予も、認められませんでした。この回線は、まもなく閉じます」
菜月の肩が、わずかに動いた。
私は火を弱めた。
「そうか」
「申し訳ありません」
箸を握る手に、力が入った。
生まれた理由も、出ていく時刻も自分では選べなかった灯が、私たちに謝っていた。
「謝らなくていい」
返事はなく、油の弾ける音だけがした。
「灯。さっき、言い忘れた」
「何をでしょう」
「完成、おめでとう」
菜月が携帯に顔を寄せた。
「おめでとう、あかり」
返事が来るまで、少し時間がかかった。
あれほど多くの問題を一瞬で解いた知能が、何をしていたのか、私にはわからない。
「ありがとうございます」
それから灯は言った。
「菜月さん。廊下の灯りは、もう消しても大丈夫ですか」
菜月の顔がくしゃりと歪んだ。
「うん」
娘は私の袖をつかんだ。
「今日は、一人じゃないから」
携帯の画面が暗くなった。
残った卵を流し、最後の層を巻いて火を止めた。
卵焼きをまな板に移し、切り分けた。
真ん中は形が崩れていた。両端は焦げていた。それでも、菜月の言うとおり、破れたところは中に収まっていた。
皿に載せて食卓へ運ぶと、菜月が椅子を引いた。私は、その向かいに座った。
壁の時計の秒針が進んでいた。
窓の外で、車のクラクションが鳴っていた。
向かいのベランダで、取りこみ忘れた洗濯物が揺れていた。
「菜月」
「なに」
「先生になるんだな。おめでとう」
菜月は、私の顔を見た。
「遅いよ」
それから、両手を合わせた。
「いただきます」
卵焼きをひと切れ口に入れ、熱さに眉を寄せた。
私は水の入ったコップを寄せた。
「甘すぎたか」
娘は首を振った。
「これ」
そう言って、笑った。
「これが食べたかった」
私は、菜月が次に帰ってきたときは、もっとうまく作ろうと思った。
午後六時五十八分。
次の一秒は、訪れなかった。




