#16 約束⑤
「じゃあ、次はトップだね」
リリアの声は、さっきよりも少し低かった。
落ち着こうとしているのが、逆に伝わってくる。
「うん。胸の一番高いところを、一周」
私はそう言いながら、自然に背筋を伸ばした。姿勢を正さないと、正確な数値が出ない。
リリアはメジャーを持ったまま、動かない。
……分かっている。分かっているけど、状況が状況だ。
「……あの……」
「うん?」
「その……正面から、いくね……」
確認のような声。
私は小さく頷いた。
「大丈夫。ゆっくりでいいよ」
そう言った瞬間、リリアが一歩近づく。
距離が、近い。さっきよりも、はっきりと近い。
メジャーを胸の前に回すには、どうしても正面に立つしかない。
理屈では分かっているのに、身体が妙に意識してしまう。
「……動かないで……」
リリアはそう言って、胸の一番高い位置に、慎重にメジャーを当てる。
すると、“頂点”だった場所がメジャーに埋もれるように形を変える。
(……あ)
自分でも気づく。この測定、アンダーよりもずっと難しい。
アンダーは骨がある。でもトップは、柔らかくて動く。呼吸ひとつで、位置が変わる。
「……息、止めたほうがいい?」
「い、いや、普通で……」
リリアの声が、少し裏返った。
メジャーが胸に触れる。少しくすぐったい。
強く押さえられてはいない。でも、避けることもできない。
私は、意識的に呼吸を整えた。
(落ち着け……これは作業……)
……なのに。
「……っ」
リリアの手が、ほんの一瞬だけ止まった。
「……ごめん」
「大丈夫。どうしたの?」
リリアは、視線を逸らしたまま、小さく言う。
「……その……想定より……高さがあって……」
職人としての困惑。でも、それだけじゃない。
「……位置をキープするのが、難しくて……」
「うん。よく言われる」
そう言うと、リリアがはっとして、こちらを見る。
「……よく……?」
「あ、前世では、ね」
私は軽く肩をすくめた。
「トップ測るとき、だいたい毎回言われてた。『ここ、動くから』って」
リリアは、少しだけ安心したように息を吐いた。
「……じゃあ……」
「うん」
「少しだけ……触れるかも……」
宣言してから、そっとメジャーを引く。
胸に沿わせるように。押さえつけず、逃がさず。さっきよりも、慎重に。
距離が、さらに近くなる。
私は視線を上に逸らし、天井の木目を見つめた。
メジャーを胸の前に回そうとしたところで、すぐに異変が起きた。
「……あれ……?」
メジャーが、胸の途中で止まる。
「……届かない……?」
リリアが小さく首を傾げる。
引っ張ってみる。角度を変えてみる。でも、どうやっても背中まで回らない。
「……ごめん……これ……1メートル……」
メジャーの端を見て、リリアがぽつりと言った。
(あ、そっか)
私は内心で納得する。
前世でも、普通の裁縫用メジャーで困ることがあった。
「……やっぱり?」
「うん……完全に、足りない……」
リリアは一度メジャーを下ろし、少し考えてから顔を上げた。
「業務用の長いやつ持ってくる」
「うん。ありがとう」
リリアは、ぱたぱたと部屋を出ていった。
残された私は、そっと息を吐く。胸元を押さえ、椅子に腰掛けた。
(……最後にちゃんと採寸したの、いつだっけ……)
ふと、記憶が遡る。
(……成人式だ)
振袖を着るために、呉服屋で採寸したとき。
あのときも、胸のところで手が止まった。
「……少し、押さえますね」
そう言われて、タオルを何枚も当てられて。
胸を“なかったこと”にするみたいに、上から下へ、ぎゅっと。
(……苦しかったな……)
鏡の中では、確かに綺麗なシルエットになっていた。帯も、衿元も、完璧。
でも、呼吸するたびに違和感があって、胸を平らに保つためにずっと力が入っていた。
「振袖は、胸の丸みが出ないほうが綺麗ですから」
そう、当然みたいに言われて。
(……あのときも、“支える”じゃなくて、“潰す”だった)
時間が経つにつれて、肩が凝って、帯を締め直すたびに、じわじわと苦しくなっていった。
胸だけは、どうしても“平ら”に収まってくれなかった。
(あのときも、トップで時間かかったな……)
晴れ着は綺麗だったけど、帯を締めるのが本当に大変で、「今日はあまり食べないでくださいね」なんて言われて。
(……あれから、体型、そんな変わってないはずなんだけど)
胸だけは、なぜか成長を止めてくれなかった。
思い出しているうちに、足音が戻ってくる。
「お待たせ!」
リリアが、少し大きめの巻き尺を抱えて戻ってきた。
革製で、目盛りも太い。いかにも業務用。
「これなら、いけると思う」
「頼もしいね」
リリアは一度深呼吸してから、正面に立つ。
「……じゃあ、今度こそ……」
巻き尺を胸の前に回す。今度は、余裕をもって背中まで届いた。
「うん、これで……」
水平を確認しながら、慎重に位置を調整する。
大きくて、柔らかくて、形が一定じゃないから、ほんの少しのズレで数値が変わってしまう。
「……じゃあ、今度こそ……」
リリアは一度深呼吸をしてから、私の正面に立った。
今度は余裕のある長さのメジャーが、私の背中へと回される。
だが、正確な数値を出すためには、胸の最も高い位置――その“頂点”を正確に捉えなければならない。
「……少し、押さえるね。浮いてると測れないから」
リリアの指先が、迷いなく私の胸の頂点へと伸びた。
薄い下着すらつけていない、剥き出しの肌。そこへ、熱を帯びた彼女の指が直接触れる。
「っ……!」
背筋に電気が走ったような衝撃。
リリアの親指が、柔らかすぎる肉の弾力に抗うように、中心部をぐっと押し込んだ。
マシュマロのように吸い付く肌の感触に、リリアの眉がピクリと跳ねる。
「……あ、……んっ……」
無意識に漏れたのは、苦悶というよりは、あまりの刺激に耐えかねた甘い吐息だった。
リリアの指がその場所をなぞるたび、私の意志とは裏腹に、身体が勝手に反応を返してしまう。
冷えた空気と、リリアの指の熱。
その温度差に晒された私の先端が、コリッと硬く、小さく尖り始めた。
メジャーの端が、その硬くなった突起を容赦なく擦りあげる。
「……あ、……立って……きた……」
リリアが、掠れた声で呟いた。
至近距離で、彼女の視線が私の胸の反応をじっと見つめている。
逃げ場のない羞恥心で、私の顔は火が出るほど熱くなった。
「……ごめん。でも、ここを基準にしないと、カップの形が……決まらないから……」
言い訳をするリリアの指も、心なしか震えている。
硬くなったその先端をメジャーで包み込むようにして、慎重に数値を読み取った。
指先がその尖りに触れるたび、私の腰がビクンと跳ね、胸の奥がじんわりと熱い痺れに支配されていく。
「……取れた……」
リリアは紙に書き込みながら、ほっとしたように息を吐いた。
「これで、トップも、終わり……」
「よかった……」
私は肩の力を抜き、そう言った。
「これで終わりだね?」
「……え?」
リリアが顔を上げる。
「……えっと……」
リリアは一度視線を落として、それからまた私の胸元を見る。
「……重さ、とか……横に……広がる感じ、とか……」
その視線が、さっきよりも長い。
「……動いたときの……見え方、も……」
最後の言葉は、ほとんど独り言みたいだった。
「……もう少し……見ておきたい、かも……」
一瞬、沈黙。
(……それ、職人としての発言……でいいんだよね?)
私はリリアの顔をじっと見る。
視線は合わない。私の目じゃなく、胸元のあたりを彷徨っている。
さっきまでの、数値を追う目とは違う。
計算しているというより、名残り惜しいみたいな。
リリアは、私の視線に気づいたのか、はっとして顔を上げた。
「……あ、あの……! 変な意味じゃなくて……!」
慌てて言葉を継ぐけど、理由のほうが少し遅れる。
「その……」
「実際に、どう動くか、とか……」
「形がどう落ち着くか、とか……」
言い訳みたいに聞こえるのは、私の気のせいだろうか。
「……見ておかないと……」
「ちゃんとしたもの、作れないから……」
そう言いながら、でも、視線はまた自然に戻っていく。
(……やっぱり……)
完全に、職人とは言い切れない。でも、嫌な感じはしなかった。
むしろ――
(……この子、無防備だな……)
私は小さく息を吐いて、肩の力を抜いた。
「……まあ、いいか」
ぽつりと、独り言みたいに言う。
「リリアが納得するまで、付き合うよ」
「……ちゃんとしたの、欲しいし」
一瞬だけ、リリアの目が大きくなる。
「……ほんと……?」
「うん」
その返事に、リリアはほっとしたように、でも少しだけ嬉しそうに笑った。
「……じゃあ……もう少し……触ってもいい?」
以前の私なら、即座に拒絶して部屋を飛び出していてもおかしくない。
でも今は、不思議と嫌な気はしなかった。
(……成人式の時、あんなに苦しくて、惨めだったのに)
胸を“ないもの”として潰そうとしたあの時の手とは違う。
リリアの手は、私のこの持て余した重みを、必死に理解しようとしてくれている。
「……いいよ。リリアが納得するまで付き合う」
こうして私は、再び立ち位置を整える。
リリアのための時間は、まだ続く。
でもそれは、私にとっても居心地の悪い時間じゃなかった。
(待つくらい、全然いい)
私は、静かにそう思っていた。




