村跡の怪
江戸時代を舞台にした怪奇小説です
江戸の昔。
険しい山々が連なる飛騨の山道は、人里離れた道筋ゆえ、旅人の姿も稀であった。
筑前博多碑衛郷の郷士で江戸住まいの笠子白此は、旅の途上、飛騨の山中で寂れた古道に迷い込んでしまった。
山裾に陽が落ちかかる時分、歩き疲れた白此は道の脇にある大きな石に腰掛け、西の空が朱に染まるのをぼんやりと眺めながら、はてさて今宵は木陰で野宿かも知れぬと暢気に考えていた。
晩夏に入り、日中の暑さが嘘のように冷め、涼しい風が頬を撫でる。
しばらくすると、大きな荷を背負った一人の若い行商が通りかかった。
白此に気づいた行商は、立ち止まって軽く会釈をした。
「お武家さまも、平湯まで出なさるのかい」
そうだと応えた白此に、行商は続けた。
「この分じゃ、夜道を駆けたところで、平湯に着くのは早くて明日の明け方だ。悪い事は言わねぇ。この先に廃れた村跡がありやす。あまり良い噂は聞きやせんが、木の根を枕の野宿よかぁよっぽどマシでさぁ。どうです。御一緒しやせんか。」
江戸者なのだろう。聞き慣れた伝法な口調を、飛騨の山奥で聞く可笑しさに微苦笑を浮かべ、うむではと同道に応じると、行商はほっとした様子で胸を撫で下ろした。
「いやぁ良ござんした。お武家さまが一緒なら怖いもんは無ぇや。いやね。あっしもこの道は前に二、三度通ったことがあるんですがね。」
行商は安心したのか、ごめんなすってと白此の隣に座ると、腰から煙草入を抜き火打をこつこつ打って煙管に火を点けた。
「普段なら昼過ぎに平湯に着いてるって寸法なんでやすが、今日に限って出立が遅れちまいやしてね。暗くなる時分にこっから、先に進んだものか、尻捲って来た道引き返そうか、迷ってたんで。」
この先に何かあるのかと白此が尋ねると、行商は少し怯えた口ぶりで語りだした。
「いえね、この辺りじゃ昔っから言われてる話ですがね。この先にある村跡にゃあ、夜更けに何か良くないことが起こるって噂なんでやすよ。」
「なんでも、昔は、御大尽の庄屋がいる裕福な村だったそうで。それがある年を境に、村人が次々と居なくなっちまい、終いには人っ子一人いねぇ荒れ果てた廃墟になっちまったそうです。」
どれ程前の話なのかと 白此が訊くと、行商は頭を掻きながら言った。
「あっしの商先の旦那から聞いた話じゃ、その旦那の祖父さんが十四、五の頃に、そのまた祖父さんから聞いたって云うから、こりゃ相当昔の話なんでしょうねぇ。」
よくある土地の迷信みたいなものだなと白此がこたえると、行商は真面目な顔で言った。
「いや、それがそうとも言い切れねぇんで。年に一人二人が、この道を通って平湯に出ると言ったまま、煙のように姿を消すって話でさぁ。」
気味悪そうに行商は顔を顰めた。
「土地の者は怖がって、この道を使うこたぁ無ぇもんでやすから、まぁ順当に考えりゃ、あっしのような旅の者が、何かの拍子に行き違って、消えたと勘違ぇされたって事かも知れやせんがね。」
「それでも、こんな山奥で年に一人二人も居なくなっちまうってのは、気色の悪い話で。ゾッとしねぇでやすよ。」
行商は、くわばらくわばらと呟いた。
「それにね、お武家さま。もっと恐ぇ話があるんで。この先の村跡に昔居た、その御大尽の庄屋ってのが、ある時、後妻を娶ったそうでしてね。その後妻ってのが、師宣の女絵さながらの鄙にも稀な良い女だったそうで。ところがこの後妻、実は比丘尼上りの渡り者で、かなりの性悪女だったって話なんでさぁ。しかも何やら怪しげな呪いを使って周りを誑かすって噂もありやしてね。聞いたこともねぇ奇妙奇天烈な神さんを祀っちゃ、鶏だの猫だの猿だの捕まえて、腹ひっ裂いて捧げもんにするってんですよ。他にも色々とね、碌でも無ぇ噂が絶えねぇ、薄っ気味の悪い奸婦だったそうで。庄屋もその奸婦に魅入られちまったんじゃねぇか。村の連中はそう囁きあったって話です。」
行商は、白此が静かに聴いているのを見て、気を良くしたのか、更に話を続けた。
「村で、後妻の噂が囁かれだした頃から、庄屋の屋敷の者が一人二人と姿を暗ますようになったそうでしてね。息子も娘も女中も下男も飯炊の婆ぁまで、いつの間にか居なくなっちまったそうなんで。村の者が怪しみだした時にはね、庄屋と後妻以外、屋敷には誰一人残っちゃいなかったそうです。」
「それから暫くしたある晩、その村の百姓の一人が、商先の旦那の曾曾祖父さんの村に、奇妙な声をあげながら、ふらふらした足取りでやって来て、そのまま泡吹いて倒れこんじまったそうで。」
「村中で介抱したらしいんですがね、結局一度も正気に戻ること無ぇまま死んじまった。その百姓は、庄屋の後妻が化け物だのなんだのと、訳のわかんねぇ事を口走るばかりで、死ぬ間際まで魘されてたって話です。」
「そんな話があってからこっち、この先の村跡には、今もその庄屋の後妻が取り憑いて悪さをしてるんじゃねぇかって、そんな話がいまも残ってるんでやすよ。」
なるほどと頷いた白此の、その落ち着いた態度に、行商は少し呆れながらも、生っ白い、娘みてぇな顔の若造でも、お武家はお武家ってことかいと、心の内で呟いた。
「おっといけねぇ。そろそろ腰を上げねぇと暗くなっちまいやすぜ。あっしは先に行って火の一つも起こしときやすんで、旦那も早く来て下さいよ。しのげそうな空き家の入り口に、この笠を掛けとくんで目印にしとくんなさい。」
若い行商は辞儀もそこそこに、山道を急ぎ進んで行った。
行商を見送ったあと、暮れかかる夕空を暫くのあいだ眺めていた白此は、ようやく腰を上げ、廃れた村跡へと続く道を、急ぐとも無くゆるゆると歩んでいった。
西の山裾に入日が消え残る頃、彼方から聞こえる山犬の遠吠えを背に、白此は廃れた村跡に入った。
朽ちた廃屋が立ち並ぶ先に、微かな灯火を見つけた白此は、その灯りが先ほどの行商が起こした焚き火だろうと思いながら、その場所へと向かった。
それは、一際大きな廃屋敷だった。
行商から聞いた、かつての庄屋の大屋敷なのだろうか。今は屋根も壁も崩れ落ち苔むした、大きな廃屋だった。
その奥の、唯一灯りが漏れる場所へ向かうと、廃屋敷にしては不釣合いな、磨き抜かれた木戸が現れた。
入り口に行商が言っていた目印の笠は無かった。
行商め笠をかけ忘れたかと、木戸を叩くと、意外にも中から聞こえたのは若い女の声だった。
「斯様な夜更けにお訪ね参られたのは、どなた様で。」
白此は自らを名乗り一夜の宿を願った。
中へ通された白此は、息を呑んだ。土間から続く板の間は掃除が行き届き、いろりには火が明々と燃えている。
そして何より、そこにいる女の美しさであった。
「私はこの山番の娘でございます。名を、駒と申します。」
お駒はまだ二十歳を過ぎたばかりに見える、雪のように白い肌と、長い黒髪を持つ、目を奪われるほどの美人であった。
しかし、その瞳の奥には、どこか冷たい、底知れない深さがあるように白此には感じられた。
白此は、武芸者、術者としての勘で、この屋敷と、この若い女が醸し出す空気に違和感を覚えた。
静かすぎる。
そして、屋敷内の壁や梁や柱には、妙な引っ掻き傷のようなものが有り、かすかに血の臭いが混じっている。
「ご覧の通りの山の中、何もございませんが、夕餉の膳を御用意致します。それまでどうぞ、囲炉裏にあたりお寛ぎになって下さいまし。」
奥に退こうとするお駒を引きとめ、連れの行商を探しに行く旨を言おうか迷ったが、己が勘のまま、何も言わずに黙っておくことにした。
「直ぐに膳をお持ち致します。」
そう言って娘は奥へと退がっていった。
暫くするとお駒が、夕餉の膳を運んできた。
串に刺した川魚の焼物、山菜と大根の汁椀、そして煮付けた肉の大きな塊であった。
魚も汁椀も旨く、白此は舌鼓を打った。
饗された物は何でも食し己が血肉に変えるが侍の務と考える白此だが、肉の塊だけは、口に入れなかった。
「お侍様、畜生の肉はお嫌でございますか。」白此を慮った心許無げな言葉の裏に、どす黒い嘲笑が潜んでいるように感じられた。
何の肉だという白此の問いに、お駒は微笑んだ。
その笑みは美しいが、ひどく作り物めいて見えた。
「この辺りの山中では、色々な獣が獲れますから」
その夜、白此は床に就いたが、静かに眼を閉じたまま、しばらくの間、寝入らずにいた。
丑三刻。
白此は、板の間に響く、何かを引きずるような音と、小さな、しかしはっきりと聞こえる何かを咀嚼する音に気づいた。
彼は静かに、音を立てず、枕元に置いた愛刀・波紋切りに手をかけた。
そして障子越しに、囲炉裏の間の様子を窺った。
月明かりと残り火が微かに照らす中、白此が見たものは、信じがたい光景であった。
美しいお駒は、もうそこにいなかった。
代わりにいたのは、七尺を越えようかと云う巨躯と、鋭い牙と爪を持つ、巨大な猫の変化であった。
その三色斑らの毛並みは月の光を受け、黒と白と橙とが艶やかに輝き、金色に光る二つの眼は、さながら唐の古事にある金華猫の其れであった。
化け猫は、青黒く変色し、形も留めぬほどに変わり果てた、人間の軀の、まだ肉の残る腕を喰い千切っていた。
そして、時折、その舌で血糊を舐めとる。
行商が言っておった化け物の話、よもや真実であったとはな。
白此は音もなく障子を開け放ち、飛び出した。
「退け、変化。」
白此の波紋切りが、化け猫の肩を深く切り裂いた。しかし、化け猫は悲鳴一つ上げず、白此を睨みつけた。
その眼差しは、先ほどの美しいお駒の、あの冷たい瞳と同じであった。
「お前は綺麗だねぇ。喰いでがあるよ」
化け猫の口から、しわがれた老婆ともお駒ともつかない不気味に嗄れた声が響く。
化け猫は、白此の目の前で、巨大な爪を立て、その場にあった木の柱を豆腐のように引き裂いた。
白此は、その巨体から放たれる凄まじい妖気と、お駒の怨念の入り混じった殺気を、驚くほど冷淡に受け流した。
一瞬の静寂の後、化け猫は俊敏な動きで白此に飛びかかった。白此は静かに身を躱した。
「ぎゅゅゅゅゅぁぁぁぁぁぉぉぉぉぉぅ」
凄まじい吠え声を上げながら、化け猫が再び飛びかかる。
白此は、自らの魂を込めるように刀の柄を握り、腹の底から気を放ち、刃を振った。
「虚空斬。」
白此の波紋切りが、化け猫の首筋を狙って走り抜けた。
「ギャアアアアアアアアアアアアアアア」
凄まじい断末魔と共に、化け猫の巨体が床に崩れ落ちた。
その体から、黒い煙のようなものが立ち上り、みるみるうちに縮み、消えてゆく。
煙がなくなると、そこには巨大な猫の骨と、お駒の着物が残されているだけであった。
着物には、夥しい血と、腐敗した肉片が付着していた。
白此は、朝日が差し込み始めた廃屋敷で、残された旅人の躯を丁寧に埋葬した。
庄屋の後妻とお駒と化け猫。此れらの間に如何なる因果縁があったのだろうか。
考えても詮無きこと。妖、変化、化け物の心情理など知る術も無し。
白此はそう思いながら、同道の約束を破られ、どこかの廃屋で、独り不安な夜を明かした行商を探しに廃屋敷を出るのであった。
伝法な口調で恨み節を言うであろう行商に、あの化け猫の骨を見せたら、なんとするだろう。
面白そうだな。自然と笑みが溢れてきた。
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その後、地元代官によって、廃屋敷も廃屋も、村跡全部が打ち壊され、荒れた山道も整備された。
平湯村に続く古道は、夜でも心安く往来ができるようになったそうである。
ただし、笠子白此の名は、記録には残っていない。




