未知の人間からの未知の手紙
「あたしとはもう別れて」翌日に妻は泣きながら言った。「あたしはもう子供を産めない体になったの。でもあなたには子供を作る男性としての能力を持っているし、あなたまで地獄に引きずり込むことはできない。あたしはそれだけはしたくないの。あなたは子供を作って家庭を護っていって、ゆくゆくはサッカーチームの指導者として成功していく人だから。あたしはあなたという男性に不釣り合いな存在になってしまった」
妻はぼろぼろと涙をこぼした。
「子供はいても、いなくてもどちらでも良かったんだ」僕は妻に言った。「僕には君がいてくれればそれで良いんだ。僕は君を愛している。我々は人生の辛い時期を迎えてはいるけど、こうして君は命を取りとめることができて、これから五十年は僕と一緒に生きていける。僕らは幸せにならなければならないんだ」僕は妻に向けて何度も繰り返した。「これから僕ら二人で幸せになるんだよ。そうだ、幸せになるんだよ。君と別れる人生なんて僕にはあり得ない。ねえ、体が治ったら一緒に山登りに行かないか? 山に登って滝のある場所に行って、岩手のきれいな水を全身に浴びよう。海に行くのもいいな。岩手県沿岸の海は綺麗だ。東京やら湘南やらの海のように人間でごった返していないし、綺麗な海を十分に満喫できる。山も海も僕らにこう教えてくれる。僕らはまだまだ若くて、二十代で、そしてこの世界は君と僕のためにあるんだってね。きっと幸せになれる。君と僕は必ず幸せになるんだよ。今という時を乗り越えてしまえばきっと……」
不意に僕の頬に涙がこぼれた。僕には自分が涙を流したことが信じられなかった。男でプロのアスリートの僕が試合のことではなく、家庭のことに心を奪われて涙を流すとは。だが僕はいま感情に身を委ねるべき時に来ていた。僕は泣いてもいいのだと思った。妻が体を壊してぼろぼろと涙を零したように、人は感情をはっきりと発散することで問題を整理できる時があるのだ。我々の人生には論理的な結論が必要なのではない。我々夫婦にはただ、自らの負の感情を受け入れ合うことが必要なのだ。悲しみや怒りといった負の感情を受け入れ合うことが必要なのだ。
そんな時だった。家に名無しの誰かからの郵便が届いた。僕はアパートの郵便受けから封書の手紙を見つけて思った。このデジタルの時代に手紙かよと。そしてアパートの部屋に戻って鋏で封筒を開いた。
『あなたに起こったことは全て知っています』と手紙には書かれていた。手書きの文字ではない、PCのワードで印字された文字だった。『より精確にはあなたとあなたの奥さんに起こったことを知っています。あなたが横浜のサッカーチームから岩手に移籍して岩手オーシャンズの救世主として期待されて来たことを知っています。ですがあなたは司令塔としてチームの面子を換え過ぎたかもしれません。はっきり言います。あなたに悪意を持って、あなたの奥さんを強姦した犯罪者がチーム内にいます。その犯罪者はあなたの奥さん以外にも気に入らない女性を次々に強姦しては山に捨てて来たのです。あなたとあなたの奥さんは明確な悪意をもって裏切られたのです。その犯罪者の悪人はこの地方の警察署長の息子です。悪人はこの地方で目に付いた女を拉致してはやりたい放題の悪を為しています。あなたがよく知っているように奴らは、強気でSっ気の強い女を攫ってはロープで縛って拘束して自由を奪い、無理やりに暴力で支配するのです。奴らは色んな女性たちに手出しをしています。そしてそれらの女性たちは警察にも法にも頼ることができずにただ我慢するしかないのです。彼女たちは自らが我慢することで彼女たち自身の体と人生を傷つけているのです。でも他に方法はないのです。私はあなたの奥さんが、身籠ってしまったレイプ犯の赤ん坊を憎んでいたことを知っています。多くの女たちが同じ目に遭って来たのです。そしてこの岩手の辺境の町では、警察は警察署長の息子を逮捕するためには動かないのです。警察はあなたの奥さんを護るためには動かないと事実を知るべきです。そして飲み込むべきです。あなたとあなたの奥さんはきちんと自身の歯を使ってその事実を咀嚼して、その苦みを何度も味わわなければなりません。あなたたちのために『警察は動かない』のです。この地域の警察は身内の人間を徹底的に庇います。この地方では昔からそういう慣習なのです。ただ一人、警察とレイプ犯たちに立てついた小野さんという女性も警察からの圧力を受けて職を失い、この町を去りました。そしてこのことはあなたとっては受け入れがたい事実かもしれませんが、小野さんはビルの屋上から飛び降り自殺しました。そして奇妙なことに小野さんのスマートフォンからはレイプ犯たちを写した画像が削除されていたのです。気を付けてください。次はあなたの番です。重ねて言います。レイプ犯と警察に対して絶対に争わないことです。あなたはあなたの家庭と仕事を護らなければなりません。『奴ら』に逆らってはいけません。苦しいことは存じ上げています。けれどあなたたち外部から来た人間はその事実を咀嚼しなければなりません。それができなければ小野さんのように法的訴訟の準備をしたために仕事を失うことになります。そして町を追われることになります。ビルから飛び降りて自ら命を絶つことになります。どうか我慢してください。町の人間は皆が皆、奴らの味方ではありません。私たちのように奴らの犯罪を知った上で奴らを憎みつつ、身を護って生きている人間もいるのです。そして私たちはあなたの味方なのです。どうか奴らに抵抗しないでください。そんなことをしたらたとえあなたほどの実力者でもこの町を追われることになります。この町では実力ほど人の嫉妬を買うものはないのです。実力のある人間は危険を背にしています。どうかご理解ください。あなたの身を案じてご一報申し上げます。今回の忠告はここまでにします。名の無い無辜の人間より心配を込めて――。』




