妻は家に帰らない
岩手オーシャンズの練習は少しばかり古いと僕は思った。
このプロチームは日本の高校生・大学生のサッカー部がやる練習の延長線上にあることを延々としている。グラウンドやクラブハウスの清掃や維持みたいな作業まで選手たちが行っている。もちろんJ3でならそういうことも必要だっただろう。だがこれからは違う。チームが金で清掃員を雇い、選手たちはサッカーに完全に集中するべきだ。もしその清掃員を雇う金がないと言うのならば監督やコーチたちがクラブハウスの掃除をやるべきだ。選手たちにはサッカーに集中できる環境が用意されるべきだ。それに欧州のリーグで先鋭を行くチームが取り入れている練習法をこの岩手オーシャンズは新たに取り入れなければならない。プロチームと吹聴しながら、いつまでも高校生・大学生のサッカー部の延長でもあるまい。
練習後、僕はグラウンドに立ったまま監督やコーチ陣と話し合いを行った。「君を受け入れた時に変化は覚悟の上だ、君の望み通りにチームを変えてくれ」と監督も僕に賛同してくれた。そして監督とコーチたちは自らグラウンドの整備を始めた。
僕はグラウンドから観客席を見上げた。僕の妻が三人組の男たちにナンパされていた。鼠みたいな顔をした男と猫みたいな顔の男がせっせと口を動かしていて、その背後にイケメンが控えている。イケメンは口をきかなかった。
「彼はこの町でナンバーワンのイケメンだぜ」と鼠男と猫男のヨイショが入った。イケメンが初めて気づいたように妻を見た。
「うざい」と妻は言った。「バーカ」
妻は個人でデザインの仕事をしている。ユーチューブやSNSのアイコンのデザインを手書きで作成する。芸能人の何人かが妻のデザインを実際に取り入れてフォロワーを増やしていて妻の仕事の評判は高まりつつあった。そして仕事のできる女が概ねそうであるように妻は化粧が上手くて、髪型と衣服の自己プロデュースの力が高い。妻は男が思わずはっとしないではいられないような美女の印象を持っている。要は成功したプロサッカー選手を夫に持つような良い女だ。
「ちっ、後悔するぜ」言いながら三人組の男は退散した。
僕は思わず苦笑した。僕の妻は強いのだ。それはスポーツ選手として成功する一つの条件でもあるかもしれない。『妻が強いこと』。
僕は岩手オーシャンズを変えるために岩手に来た。僕は僕の構想による戦力外選手たち――それは結構な数の選手に上った――に同情しなかった。プロの環境でサッカーをやるというのは過酷だ。実力の劣る選手や怪我を負って動けなくなった選手がだらだらとチームに居座ることを僕は好まない。人間関係の甘い部分を選手たちが与えられるべきだと言うのならば、それは選手たち自身が家庭を作ってその中で実現すればいい。男が甘ったれていいのは女子供との生活においてだけだ。プロサッカーのピッチ上はその甘い生活の範囲内には入らない。全く入らない。
結構な数の選手たちが岩手オーシャンズから年俸契約金〇円を提示された。つまり戦力外通告を受けた。彼らは泣く泣くチームを去っていった。
後には僕の目に適う、才能ある選手だけが残された。その中に僕の妻をナンパした三人組の選手たちがいることに僕は気が付いた。ナンパの中心のイケメンがチームの重要なボランチで、鼠男と猫男が守備的MFだ。彼らは首を切られる寸前で僕の選択的意志によってチームに残留された。ギリギリの三人組だがまだチームの役に立つ。僕はそう判断した。
これでいい。我々は仲良しこよしの集団ではない。高いお金を戴いてサポーターのために働くプロなのだから。そのプロの水準に達しない選手は切るしかない。僕の妻をナンパしようが遊ぼうと持ちかけようが、プロのレベルに達していれば文句はないのだ。
岩手オーシャンズは春を迎え、新シーズンに突入した。初戦はJ2の強豪として安定的に残留している格上のチームが相手だった。岩手オーシャンズは終始劣勢で押されながら守備的な試合を展開した。僕は敵の守備陣の一メートルないくらいの狭い隙をついてスルーパスを通した。チームのフォワードがその数少ない得点機をものにした。敵チームは逆転するために怒涛の攻撃を仕掛けてきたが、岩手オーシャンズは僕を中心とした堅い守備で凌いだ。そして我々は辛くも勝ちを収めた。
僕は司令塔として間違いなくチームに貢献したと思う。我々はサポーターたちの前を、歓声を浴びながら一周して一礼してクラブハウスに引き上げた。チームの選手たちは大騒ぎしたいくらいに盛り上がっていたし、勝利の気勢を上げはしたが、それ以上に重い試合に疲れ果ててもいた。この試合を我々はシーズンを通して繰り返していくのだ。これから一戦、一戦を全力で戦いながら、結果を積み重ねていくのだ。僕はチームの勝利に一先ずは満足した。
その日、家に帰ると妻はいなかった。我々夫婦は岩手沿岸の宮古市に駐車場付きのアパートを借りている。僕はアパートに帰って無人の部屋を見まわした。部屋には試合の勝利に嬉しさを噛みしめているはずの妻の姿はなかった。部屋は妻の存在をまるで忘れてしまったかのようだった。僕は妻に電話したが、繋がった電話は留守電のメッセージになっていた。僕は、電話をくれと言って通話を切った。僕は一時間、体を休めてから溜め息をついて自分で食事の用意をした。妻は実家にでも帰ったのだろうと思った。
だが翌日も妻はアパートに帰らなかった。




