小学校時代からの悪を思う
僕はその手紙を読んでから、そのプリントアウトされた紙をゴミ箱に叩きつけて捨てた。
犯罪を受けた被害者が我慢しなければならない。そんな胸糞悪い現実があるだろうかと僕は思った。小野さんが自殺しただって? それなのにこの名無しの人物は我々夫婦に向けて我慢しろと言うのか? 僕はプロのアスリートとして人と勝負し、勝つことに慣れ過ぎていた。誰かへの負けを甘んじて受けるなどアスリートとして決して受け入れてはならないことだった。僕は何を犠牲にしても勝つということに慣れていた。
僕は台所に行って冷蔵庫から炭酸水を出して飲んだ。妻が入院したままのアパートには人の気配がなく、しんと静まっていた。溜め息を吐くと、その音が僕の耳に大きく響いた。こういうのは何と呼べばいいんだろうなと僕は思った。『無力感』だろうか。だがもう一つぴたりと来ない気がする。人生のやるせない思い――こういう感情には何か一言ではっきり表現できるような名称があるはずだ。だが僕はそのただ一つの単語を思い出すことができなかった。
僕は小野さんという女性について思い出した。町の小さな公園で小野さんとレイプ犯罪について話し合ったことを思い出した。小野さんは徹底して犯人たちと闘おうとしていた。小野さんの態度も言葉も僕には毅然として見えた。だがあの時、僕は小野さんに同調しなかった。妻の意志を尊重する、とだけ僕は言った。その言葉に小野さんは失望していた。あの小野さんが職を失った? この町を追われた? 飛び降り自殺をした?
僕は頭の中に多少の混乱を残しながらも夕飯のキムチ鍋を一人で作って食べた。そして熱いシャワーを浴びた。風呂上がりに部屋を眺めると、名無しの人間からのあの忠告の手紙がゴミ箱に突っ込まれていた。
僕は大きく溜め息を吐いた。そろそろ動くべき時が来ていると思った。
僕はチームのロッカールームで三人組の犯人たちと話をつけた。
君たちは俺に対して何か言うことがないか? と僕は聞いた。俺と俺の妻に対して言うべきことがあるよな、と。
「『ありがとう』かい?」梶は言った。
梶の左腕には大量の黒い蝶の刺青が彫られている。梶はチームのボランチで、チームで一番女性ファンからの人気がある。一言でいってイケメンだ。日本人としては彫りの深い顔立ちをしていて目鼻立ちがすっと整っていて、茶色の長髪をいつも頭のうしろで束ねている。僕と同じ二十七歳のはずだ。僕はレイプ犯の一人が覆面の裾から茶色の長髪をはみ出させていたことを覚えていた。
「あんたにはいつも思っているよ。チームを強くしてくれてありがとうってね」梶は言った。「それでいいかい? あんたの嫁さんに一言? 家庭で夫のあんたをしっかり支えてやってくれってことかな」
梶は善人のふりをして体よく誤魔化した。
「こんなことは言いたくないが俺には君たちを戦力外にする力がある」僕は言った。「俺に対して誠意を見せるつもりがない、反省する気持ちがないっていうならば俺もそれなりの対処をせざるを得ない。これは町の居心地のいい食事処に行って、上手いものを食べながら滾々と説教をして終わりっていうわけにはいかない話だ。君にはもうわかってるはずだがな」
「俺はあんたに逆らうつもりはないよ」梶は言った。「俺たちは同期のアスリートじゃないか。協力し合ったり、ライバルとして競い合って互いにいいサッカー人生を送るべく刺激を与え合う間柄だと俺は思っていたがね。俺はあんたに対して一つも悪い感情なんて持っていないぜ。チームを強くしてくれてあんたには『ありがとう』と感謝したいくらいのものさ」
僕はふと名無しの人間が送ってきた手紙を思い出した。『奴らに対して絶対に逆らってはいけません』と。
「ところで君の父親はどんな仕事をしているんだ?」僕は聞いた。
「警察署長だよ。こんな小さな町で署長だって言っても大したことはないけどさ。親父は地域のために滅茶苦茶がんばってるよ。俺の父親に文句でもあるのかい?」
そうだ、文句は大ありだと僕は頭の中で思った。おまえの親父は僕の妻がレイプされた事件を捜査しようとしない。犯行を重ねる息子のおまえを庇っているからだ。そして小野さんという女性を自殺に追い込んだ。おまえの親父は最低の警察官だ。
「そうか。俺の言ったことは忘れてくれ」僕は言った。「俺はどうかしていた」
「あんたがそうしろと言うならそうするよ」
間違いないと僕は思った。梶はレイプ犯だ。チームの村田と市井川と一緒に犯行を重ねている。僕はロッカールームで着替える村田を見た。村田は目と目の間が広くて黒目が大きく、まるで小動物みたいな印象を与える。より精確には鼠みたいな印象を与える。左手の手首から甲にかけて太陽と月の刺青が彫られている。
それから僕は市井川を見た。市井川は村田とは逆に目と目の間が狭い。小さな鼻が特徴的で、鼻の下と唇の間に筋が入っているような特徴的な顔立ちをしている。一言でいえば市井川は猫みたいな顔をしている。だが一口に猫と言ってもいろいろな顔立ちの猫がいると僕は思った。市井川はその猫の中でも不細工で貧相な顔立ちをした猫だ。市井川の左手の甲には煉瓦のような模様の刺青が入っている。
奴らには刺青という動かぬ証拠がある。だが僕はそのことをあえて口に出さなかった。プロのサッカー選手として、チームのメンバーとの間に軋轢を生みたくないと本能に近い感情が働いたからだ。チームメイトとの間のパス交換に一瞬でも躊躇いが働いたら、敵チームにその隙を突かれる。僕は結果を求めるプロ選手として本能的にそれを避けた。
本能に近い感情、と僕は思った。僕が何よりも優先して大切にすべきはレイプ犯との間の感情ではなく、妻との間の感情ではなかったかと。それができない現実に僕は皮肉に口を歪めた。それも梶と村田と市井川の前では決して表に出せなかった表情だった。『皮肉に口を歪める』。おまえらのしたことを全て知っているぞと僕は思った。
そのとき僕はふと懐かしい小学校時代の同級生について思った。子供時代にひとつの時をともに過ごせばその人間の良い悪い、全ての面が見える。悪い人間は子供の頃から悪かったし、その悪に従属する人間は子供のころから悪に従属的だったのだ。僕はレイプ犯たちが自分と同い年であることを思い出した。梶も村田も市井川も僕と同学年の小学生だった。そして彼らは悪だったのだろうと。




