ストーカー被害者が死んでしまったので隠蔽します
雨が降っていた。冷たく、重い雨が、アスファルトに叩きつける音だけが響く夜だった。山崎遥香の遺体が見つかったのは、そんな夜の路地裏だった。27歳、独身。彼女の白いワンピースは血と泥にまみれ、細い首には誰かの指の跡がくっきりと残っていた。
県警捜査一課の刑事、佐藤亮介は現場に立っていた。傘も差さず、濡れた髪から滴る水が頬を伝う。遥香の死に顔は、なぜか静かだった。まるで、長い恐怖からようやく解放されたかのように。
「ストーカー被害の相談歴、あったんだろ?」
亮介の隣に立つ同僚の田中が、煙草をくわえながら呟いた。
「…ああ。3カ月前から、何度も署に来てた」
亮介の声は低く、どこか抑揚を欠いていた。
遥香は繰り返し110番に電話をかけ、時には直接署を訪れていた。「男に後をつけられている」「夜中にドアを叩く音がする」「誰かが窓の外にいる」。彼女の訴えは切実だったが、物的証拠はなかった。手紙も、写真も、明確な脅迫の痕跡も。県警は「具体的な被害がない」と判断し、パトロールを増やす以上の対応はしなかった。
そして今、彼女は死んだ。
翌朝、県警本部は騒然としていた。マスコミが殺到し、記者の質問が矢のように飛ぶ。
「山崎遥香さんからの相談を無視したのは事実か?」
「県警の怠慢が彼女の死を招いたのでは?」
会議室では、上司の警視・高橋が机を叩いた。
「世論がこれ以上荒れる前に、火消しが必要だ。佐藤、わかるな?」
亮介は高橋の目を見ず、ただ頷いた。
「彼女の相談記録…全部、なかったことにしろ。被害届も受理してない。それが公式のラインだ」
亮介の胸に、冷たいものが広がった。だが、彼は刑事だ。組織の歯車だ。家族もいる。逆らえば、左遷か、あるいはそれ以上の報復が待っている。
夜、亮介は署の資料室にいた。蛍光灯の薄暗い光の下、山崎遥香の相談記録を手に取る。彼女が震える声で訴えた110番の通話ログ、署で書いた調書のコピー、巡査がメモしたパトロール報告。どれも、彼女が必死に助けを求めた証だった。
亮介の指が、紙の端を握り潰す。彼女の顔が脳裏に浮かぶ。初めて署に来た日、怯えた目で「助けてください」と呟いた遥香。亮介はあの時、彼女の手を握り返さなかった。ただ「証拠がないと動けない」と告げただけだ。
シュレッダーの音が、資料室に響く。一枚、また一枚、彼女の叫びが細切れになって消えていく。亮介の心臓は、まるでそれに合わせて軋むようだった。
次はパソコンだ。データベースから彼女の相談記録を削除する。ログを改ざんし、検索履歴を消去する。県警のシステムは古く、痕跡を隠すのは簡単だった。だが、亮介の指は震えていた。まるで、遥香の血がその指にまとわりついているかのように。
数日後、県警は公式声明を出した。
「山崎遥香さんからのストーカー被害の相談は一切なく、被害届も受理していない。警察として関与する余地はなかった」
記者会見で、高橋が堂々とそう述べる姿を、亮介はテレビの画面越しに見ていた。世論は一時的に収まり、県警への批判は薄れた。だが、ネットでは遥香の友人が声を上げていた。「彼女は何度も警察に相談していた」「なぜ嘘をつくのか」。その声は、しかし、大きな波にはならなかった。
亮介は自宅のソファに座り、ウイスキーの瓶を握りしめていた。妻は子供を寝かしつけ、静かなリビングにはテレビの音だけが流れている。ニュースキャスターが、遥香の事件を「解決の糸口が見えない悲劇」と報じていた。
彼の視線は、テーブルの上に置かれた一枚の紙に落ちる。それは、シュレッダーにかけ忘れた遥香の調書の断片だった。彼女の字で書かれた、「助けてください」という文字が、滲んだインクの中で浮かんでいる。
亮介の目から、涙が零れた。
「ごめん…」
彼の呟きは、誰にも届かなかった。