侯爵夫人は20年前の婚約破棄の復讐を忘れない
「ステファニー・ランドローズ侯爵令嬢。君との婚約は今この時をもって破棄とする。」
先程まで色とりどりの煌びやかな衣装を纏った貴族たちが談笑をして、手を取り合いダンスをしていた王城の大広間はこの国の王太子であるルシウスの宣言によってシンっと静まり返った。
聴こえるのは驚いた顔をしながらも指揮が続いている以上演奏をやめられない音楽隊の奏でる音だけである。
「ルシウス殿下、理由を伺ってもよろしいでしょうか?」
ステファニー・ランドローズは口元の動揺を扇で隠して優雅に口を開いた。
「理由だと?君のように可愛げのない、小賢しい女を妻にしたいと言う男がどこにいる?すこし社交界の華などと言われているからと調子に乗るんじゃない。」
琥珀の瞳をギラつかせながらルシウスは吠えた。王家の瞳は琥珀色に銀をはたいたよくな輝きがある。この瞳は王家の人間のみに代々受け継がれる王族だと言う証だ。
ステファニーはそのギラギラとした瞳をじっと見つめた。
そして眉を僅かに動かしたが、微笑みを絶やしたりはしない。長年の王妃教育の賜物であると自負している。
(あら…。私だってこんな傲慢で器の小さい男願い下げだわ。)
心の中で小さく舌打ちをした。そもそもこの婚約はステファニーやランドローズ侯爵家から望んだ婚約ではない。
家柄、財力、軍事力、令嬢の気質や教養を総合的に判断して王家の繁栄にとって最適な王妃はステファニーである、と王命を受けてしまったので仕方なく結んだ婚約である。
事実、父であるランドローズ侯爵は一度辞退したいと王家に伝えたし、母である侯爵夫人はこの婚約に大反対であった。
ステファニーとしてもルシウス王太子殿下は王としては誠実さや勤勉さの欠如した愚王になるのでは?と危惧していたし、夫としても思い遣りやデリカシーの足りないただの女好きだと思っていた。
「君に比べて、ティアナを見てみろ。」
殿下が1人の令嬢の名前を出すと、するりと白くほっそりとした綺麗な手が殿下の腕に絡みついた。
「ティアナ・マティス男爵令嬢ね?」
「ご機嫌よう、ステファニー様。」
にこりと笑ったティアナ・マティス男爵令嬢は綿菓子のように柔らかそうなブロンドの髪と碧眼の少女だった。
シルバーブロンドにエメラルド色の瞳をもち、どちらかというと冷たい雰囲気を纏うステファニーと比べると、柔らかく妙に色気のある、女性らしい印象だ。
スレンダーで身体の線を活かしたシンプルな濃い色のドレスを身に付けたステファニーと女性らしい豊かな身体つきを全面に出し、レースをふんだんに使った淡い色のドレスのティアナ。対比のようにみえるがその美しさは薔薇と牡丹のように互いに引けをとらない。
「君と違ってティアナは女性らしく、可愛らしい。君のように既に王妃気取りで私の政事に口を出したり、ししゃり出たりはしない。一歩下がって私を支え、癒してくれる素晴らしい女性だ。」
しかし、男受けするのはどう見てもティアナの方だ。あんなに女好きで節操なくあちらこちらを口説いていたルシウスが骨抜きになっている様子だった。
別にステファニーは政事に口を出したり、しゃしゃり出たりなんてしていない。ただルシウスが明らかに礼節を欠いていたり、非常識な事をしている時に一言諫めていただけである。
ステファニーは呆れ果てた気持ちで、上座に座る国王と王妃をチラリとみた。お宅のバカ息子どうにかして頂けません?
するとこの縁談を無理強いしてきた張本人である国王はチラチラとこちらを見ながらも明後日の方を向いて知らぬ存ぜぬ、面倒な事にしてくれるなといった様子だし、ゴシップ大好きな王妃に至っては周りの野次馬と似たような様子で余興かのように見ている。
「侯爵令嬢の分際で王を意のままに操ろうとした悪女め。こんな婚約は破棄だ。」
「殿下が婚約破棄を望まれている事は承知致しました。今までの話を要約すると婚約者たる私ではなく、他の女性を見染められてしまったと言う事ですね。」
「な、なにい?」
「まあ、私も異議はありません。人を好きになる事は止められませんからね。
正式な見解は国王陛下とランドローズ侯爵家の当主たる父が決めてくれる事でしょう。」
「フン。君に言われなくても分かっている。悪いが君の顔を見ていると気分が悪い。今日の所は帰ってくれ。」
ステファニーの言葉が癇に障ったらしい。イライラした様子でルシウスが踵を返した。
王家主催の夜会なので帰れと言われたら侯爵令嬢に過ぎないステファニーは帰るしかない。殿下の背中に向けてカテーシーをすると大広間を出ようと出口に向かう為に振り返る。
ステファニーが振り返ると出口までの道がサッと割れた。ステファニーは何も悪い事はしていないので胸を張って出口まで歩こうと踏み出した。
「ーーステファニー・ランドローズ嬢。貴女が帰る必要はありませんよ。私でよろしければお手を。」
出口までの道の途中で手を差し伸べてくれた殿方がいた。
差し出された綺麗な手、逞しい体躯、そして先程ギラついていた瞳と同じ色であるのに穏やかで優しく輝く琥珀の瞳…。
「ユリウス殿下…。」
差し出された手からゆっくりと顔まで目で追っていくとそこにいたのはルシウスの異母弟であるユリウス第二王子殿下だった。
瞳の色は同じだが、それぞれ母に似たのかルシウスは赤髪、ユリウスは黒髪で顔立ちもそこまで似ていない。正直に言うとユリウスの方が整っていると思う。
「兄がこのような場所で失礼致しました。貴女は何も悪い事をしていませんから出て行く必要なんてありませんよ。よろしければ貴女をエスコートする名誉を私に頂けませんか。」
「いえ、私はその…。」
黒髪でクールな印象を与えるユリウスが熱っぽく見つめてくるので何故か照れる。でもこちらは今婚約破棄をされたばかりの身である。ステファニーの戸惑いを裂くように怒鳴り声が響いた。
「ユリウスッ!!」
そこには凄まじい形相のルシウスが大股でズンズンとこちらに歩いてくる。その後ろには涼やかな笑顔のティアナがついている。
「貴様、何をしている!!彼女は一応はまだ俺の婚約者なのだぞ」
ステファニーは頭が痛くなった。この婚約を破棄できて本当に良かったとつい思ってしまう。ユリウスが侯爵家の令嬢に恥をかかせないようにと気を遣ってくれていると言うのに。
「兄上は全く、可笑しな事を言う。先程、皆の前で婚約を破棄すると宣言されたではありませんか。」
ユリウスはにこりと穏やかに微笑み、ステファニーを自分の後ろに庇った。
「令嬢を晒し者にしてよくそんな事を言えますね。」
「きー、さー、まー!」
ルシウスがユリウスに掴みかかろうと手が出かけた所で貴婦人の笑い声がした。
「おほほほほほほ。」
高らかだが品のある笑い声の主はステファニーの肩を後ろから優しく包み込んだ。
「お母様…。」
口元を優雅に扇で押さえて嫋やかに微笑むその人はステファニーの母であるランドローズ侯爵夫人である。ステファニーと同じシルバーブランドの髪とエメラルド色の瞳、少し気の強そうな華やかな美しさを持ち、20歳そこそこと言われても頷いてしまう程若々しい。
「ユリウス殿下、ご無沙汰しております。我が娘がお世話になったようで。お気遣い痛みいります。」
貴婦人の完璧な礼をとる。侯爵夫人の隣には同じく穏やかに微笑み礼をする侯爵もいた。
「気を遣うなど、滅相もない。実は密かにランドローズ嬢に恋焦がれておりました。兄の愚行の後で厚かましいとは思いましたが、今日の彼女の様子を見てついお声をかけてしまったのです。」
ユリウスは口元を手で隠し、照れた様に言った。
「まあ、まあ、まあ。ステファニーにはつい先程から婚約者がおりませんので、後程主人とお話をして頂けたら…と。」
「ありがとうございます。」
「ただ、私共と致しましては娘の気持ちを優先したいですわ。無理矢理婚約させられた先の婚約は娘にとって可哀想な物でしたから。」
再びふふふと笑うと、林檎のように赤くなったステファニーを見つめた。
「お前ら、俺を無視して話を進めるなー!!」
ルシウスが侯爵夫人とユリウスをそれぞれ指差しながらまた叫んだ。何度も吠える喧しい男だ。
ルシウスの後ろにいるティアナに目をやると穏やかな笑みを崩さず控えていた。ギャーギャーうるさいルシウスを見ても機微を一切表情に出さないのは貴族にとって必要な技術だ。ある意味で王妃にはとても向いているかもしれない。
「ルシウス殿下にご挨拶申し上げます。本日は娘に残分な扱いをして下さったようで。」
侯爵夫人は再び完璧な礼をとり、にこりと微笑んだ。
微笑んでいるが、目からの圧が強い。
「ぐ…。ぬ…。」
美人からの圧にルシウスはたじろいだようだった。
「ステファニーが何か粗相でも致しましたでしょうか?王妃には相応しくないと?」
「いや…その…。彼女には可愛げと言うものがだな…。」
「兄上、そんな子供の様な理由で大勢の前でご令嬢を辱めたのですか?」
「い、いや!!この女は俺にいちいち指図し、王政を意のままに操ろうとしているのだ。そ、そうだ!!嫉妬してティアナに嫌がらせをしたのもお前だろう!!」
「マティス嬢、それは本当の話なのか?」
ユリウスがティアナに問いただした。
ステファニーに嫌がらせをしたという記憶はさらさらないがここで頷かれると喧しい王太子が鬼の首を取ったように更に喧しくなると思うとウンザリしていたのだ。しかし、ティアナは小さく首を傾げた。
「…いいえ?」
「「?!?!」」
珍しくルシウスとステファニーの表情が一致した。いけない、いけない。高位貴族の令嬢としてこんなにすぐに顔に出しては。
「ティ、ティアナ、貴女は言わないがステファニーから嫌がらせを受けている事を知っているのだぞ?」
「殿下、たしかに殿下と親しく話をさせて頂けるようになってから夜会で嫌味を言われたり、お茶会でお茶をかけられたりと嫌がらせとも取られる行動を受けた事はありますわ。」
「ほらみろ!!この女の仕業だろう。」
「ですが、ステファニー様にされた事はありません。取巻きのご令嬢にやらせている可能性もありますが、証拠はありません。ですから、ステファニー様にその罪を擦り付ける気にはなれませんわ。」
ふわりと可憐に微笑むティアナにルシウスは口をパクパクとさせるだけだ。
しかし、驚いた。完全に敵対していると思っていたティアナだったが、意外にも冷静で公正な人物なのかもしれない。…浮気相手だけど。
本当はこんな男の為に嫉妬などするか!!と言ってやりたかったが、大きな溜息をするだけに留めておいた。
「私が殿下にいちいち口煩く言ったのは他国の王族方のお名前をもう少し覚えて下さいとか、授業をサボらないで下さいとか、婚約者のいるご令嬢に言いよるのはマナー違反ですからやめて下さいとかその程度の事ですよ。」
「その上から物を言う態度が気に食わなのだ!!」
聞いていた貴族皆が呆れ顔をしたのが分かる。ステファニーに同情的な貴族もチラホラ。
「兄上…。」
ユリウスも完全に呆れている。
「と、とにかくこの女は王妃に相応しくない!!ティアナのように穏やかで、王を立てられる…」
「おほほほほほ。つまるところ、殿下は他の方に恋をしてしまい、娘が邪魔になったと言う事ですわね?はっきりそう仰って下されば良いのに。」
侯爵夫人は笑みを絶やさず退路を絶つ。
口元は笑っているがエメラルドの瞳は素直に認めろ、と言っていた。
恐らく、どうにかしてルシウスは自分有責の婚約破棄にはしたくないのだろう。歯をギリギリとして悔しそうにしている。
「これは政略結婚なのですよ?私も侯爵家の人間です。政略結婚について理解しているつもりです。」
「ランドローズ嬢…」
「時に親同士が決めた婚約者以外の女性に思いを寄せる事もあるでしょう。殿下が外で他の女性を寵愛したり、側妃を作られる事は覚悟はしておりました…。」
ステファニーとした事が最後に言葉に詰まってしまった。
しかしそのせいか周囲のご婦人達が大きくうん、うんと頷いているのが分かる。どうやら聴衆を味方にする事には成功したようだ。
侯爵夫人が再びステファニーの肩を優しく撫でた。
「殿下、娘の申す通りですわ。私達はこの結婚が契約であると理解しておりました。
元より私はこの結婚に反対しておりましたが、娘が幸せだったらそれで良かったのです。もしも他に恋焦がれる方がいるのでしたら誠実に言って頂けたら侯爵家としても対応致しましたのに…。」
「お母様…」
再び、子を持つ貴婦人達が大きく頷く。中には瞳を潤ませている女性もいた。
「なぜ真摯に娘に向き合わず、このような晴れの場で聴衆の前で娘を晒し者にしたのでしょうか?娘が傷付かない方法を考えては頂けなかったのでしょうか?」
「うっ…それは…」
「兄上はもう少しご自身の影響力を理解して頂くべきかと。王族が1人の令嬢を皆の前で辱めるなんて前代未聞です。」
ユリウスはそこまで言うと、ワザとらしくハッと何かに気付いた様な演技をした。
「-ーいや、そんな事もなかったですね?国王陛下も婚約中であった辺境伯令嬢を裏切って皆の前で晒し者にしたと聞きおよびますから。やはり、血は争えないのでしょうか?」
ユリウス殿下は笑顔で首を捻って手を顎に当てうーん…と唸った。
ステファニーはその話を聞いたのが初めてだったので驚いた。しかし、周囲にいた国王陛下と同年代から上の人達がハッとした様な顔をした。紳士は少し顔を強ばらせ、淑女は扇で口元を隠しながらも顔をしかめた。
「ユリウスっっっ!!!」
「おっと、ご本人の登場だ。」
少し焦った様な表情の国王陛下と怒ったように顔を赤くした王妃殿下が玉座からコチラを睨んでいる。
気が付けばステファニー達の周りを数人の騎士が囲っている。それなのにユリウスは余裕があるようだ。
「国王陛下にご挨拶申し上げます。」
ゆったりとしたユリウスの声を合図に皆で礼をとる。
「そなた、余に何を申すか!!」
対して国王陛下は余裕があるようには見えない。
「国王陛下、私の記憶違いでしたでしょうか?
たしか辺境伯令嬢と婚約をしていながら、当時の浮気相手、子爵令嬢であった王妃陛下がご懐妊された為、無理矢理婚約破棄をした…と。それはそれは一方的に令嬢を貶める様なやり方で将来の賢妃と評判であった辺境伯令嬢があまりにも不憫だった…と亡き母が申しておりました。」
「なっ…!!」
「辺境伯令嬢はとても美しく、優秀で下働きの者にまで心遣いの出来る、令嬢の鏡の様な方であったと…。陛下は辺境伯令嬢に一体なんの不満があったのだろうと良く聞かされていました。」
たしかユリウスの生母は地方の下級貴族の三女だったが、王妃の妊娠中に王宮で侍女をしていて見染められたはずである。当時の辺境伯令嬢が婚約破棄をされる以前には王妃教育で登城する際に世話係をしていて、その縁で親しくしていたそうだ。
「婚約が破棄された後、低い身分に関わらずて無理矢理側妃にさせられた母を気を遣ってくれ、私が産まれてからは心の支えになってくれたとか…。」
先程まで優しく微笑んでいた瞳が急に鋭い光を放ち、王妃を睨んだ。
「まあ、母は私が産まれてからというもの、王妃陛下から執拗な虐めを受け、心労により私が5つの時に亡くなってしまいましたが…」
「第二王子という身分の癖に国王と王妃になんと言うことを言うのでしょう!!」
王妃がヒステリー気味に叫んだ。ルシウスのキーキーうるさい怒り方は王妃に似たのだな、と思った。
王族たる者あまり感情を表に出さない方が良いはずだが、王妃は青筋を立て、怒りで顔は真っ赤だ。王妃は更に叫び続ける。
「どんなに評判の良い令嬢だったかは知りませんが、気が強くて可愛げのない女だったわ!!女としての魅力がないものだから親娘二代に渡って王太子から婚約破棄などされるのです!!」
「「えぇぇ?!?!」」
再びルシウスとステファニーの声が揃う。
親娘二代、と言うとステファニーとその母以外あり得ない。なぜならステファニーにはまだ娘がいないからだ。
「お、お母様も国王陛下から婚約破棄をされていた…??」
「ふふふ、その通りよ。時代は繰り返すものですのね。陛下?」
「ぐ、ぐう…」
国王陛下は居心地が悪そうに俯いた。
「…ステファニーに王太子殿下との婚約の話を頂いた時は大変驚きましたわ。私との婚約を破棄された陛下と、その原因を作られた女性の御子との婚約ですから。当然反対も致しました。
ですが、王太子殿下とステファニーに親世代の婚約は関係ありません。殿下を信じてステファニーの幸せを願って、嫁がせようと侯爵と決めました。
まさか、親子2代に渡り婚約破棄になるとは…。それも同じように誠実さの欠片もない破棄の仕方になるなんて…。」
「兄上を確実に王太子にする為に影響力の強い有力な公爵家、もしくは侯爵家の令嬢と結婚させ後楯になって貰いたかったのでしょう。財力、軍事力共に国内有数のランドローズ家はその筆頭です。しかもその令嬢は兄上との年齢差も丁度良く、美しく、その上聡明だ。」
ユリウスはステファニーににっこりと笑いかけ、その手をとり口づけをした。
「私の母が亡くなってから、王妃殿下は後ろ盾の無い私を表舞台から抹殺する為に随分とご活躍なされたようで。兄上を王太子にするのに必死のご様子でしたね。味方のいない私は孤独な幼少期でした。」
「…殿下。」
周囲の聴衆から小さくため息が漏れた。
「しかし、そんな辛い時に支えてくれたのは侯爵夫妻です。母が王宮でお世話をしたその縁から誕生日プレゼントを送ってくれたり、屋敷に招いて貰ったり。夫妻は私の恩人です。」
「まあまあ、恩人だなんて大袈裟ですわ。」
「いえ、私の心がどんなに救われた事か…。
そして屋敷で何度か顔を合わせていくうちにランドローズ嬢に一目惚れしました。空虚だった日常が急に色づいたのです。」
話している最中もユリウスはステファニーの手を取ったままだ。少し照れたように笑うその声も、優しい瞳も全てステファニーに向けられている。
「だから兄上とランドローズ嬢の婚約が決まった時には絶望しました。婚約が決まってからは、なかなか屋敷に行く事が出来ませんでしたよ。
しかし、私も侯爵夫妻と同じです。貴女の幸せだけを祈っていました。兄上と仲睦まじくこの国を導いてくれれば良かったのですが…。」
国王陛下とルシウスは気まずそうに顔を背けた。ティアナは相変わらず微笑みを崩さず控えている。
王妃は怒りに震えているように見えた。
「兄上まで陛下の悪癖を引継ぎ、婚約者がいながら女漁りをするなんて。そして今はマティス嬢に首ったけだ。このままでは不幸な結婚生活になる事は間違い。だから私はずっと貴女に愛を乞う事チャンスを待っていたのです。」
「ユリウス殿下、そんな…。私は婚約を破棄されたばかりです。そのようなお話はここでは…。」
取られていた手を、解いた。ユリウスの気持ちは嬉しかったが、まだ王家と侯爵家同士の正式な婚約の破棄は行われていない。これ以上侯爵家に悪い印象を与えたくなかった。
これでも一応は侯爵家の令嬢なのである。
「あぁ。さすがランドローズ家のご令嬢だ。節操ない者とは違いますね。」
ユリウスが感心したように嬉しそうに言った。
「ほほほほ。ユリウス殿下、お褒めの言葉光栄ですわ。ステファニーはしっかりと教育を施した自慢の娘なのです。」
侯爵夫人はルシウスを一瞥してからユリウスと向き合って笑った。
「ふ、不敬であるぞ!!」
「侯爵夫人、黙ってなさい。」
国王と王妃が遂には玉座から立ち上がった。
「先程から好き勝手言っていますが、陛下が侯爵夫人ではなく私を王妃にしたのは私たちが愛で結ばれていたからです。夫人と愛のない結婚をしたらどうなっていた事か。考えたくもありませんわ。」
「ははは。真実の愛…ですか。私の母を始め、あっちこっち見染めた女性を無理矢理自分の側妃やら愛人やらにしていた陛下に真実の愛なんてあったのでしょうか?」
「勿論ですわ。陛下が側妃や愛人を持つのは世継ぎが必要だからです。私への愛はずっと変わりませんでした。
侯爵家の母娘は単に女性としての魅力がなかったのではなくて?陛下もルシウスも2人と縁を結ばなかったの当然かもしれませんね。」
ようやく自分に来たターンを離すまいと言うように王妃は侯爵母娘を嘲笑の眼差しを向けた。
そこには貧乏子爵家の令嬢から王妃まで登り詰めたという強い自尊心がある様だった。
「真実の愛…素敵ですわ。とてもロマンチックですわね。」
ステファニーはルシウスに裏切られ酷い扱いを受けたのはこちらなのに何故そんなに上からなのだろう…と悔しかった。
精一杯余裕を見せられるように胸を張った。
「ふふふ。その通りね、ステファニー。それが、本物の真実の愛…ならばですが。」
侯爵夫人はクスリと笑みを零して、扇でゆったりと口元を隠す。
「…何ですって?」
「ティアナ・マティス嬢だったかしら?貴女と殿下は真実の愛で結ばれているとか…。殿下を心より愛しているのね?」
またも声を荒げる王妃の声を華麗にスルーした侯爵夫人はティアナに声をかける。
身分が上の侯爵夫人に声をかけられたティアナは流麗に礼をした。
「はい。私はルシウス殿下を心よりお慕いしておりますわ。」
「ティアナ…。」
ティアナは先程から騒がしい面々に囲まれていると言うのに穏やかで静かな声色で答えた。
対してティアナを期待を込めた目で見つめていたルシウスは答えを聞くととても嬉しそうに顔を綻ばせた。
悦びを隠せない、というようにティアナの手を取り強く握りしめている。
「父上、私はやはりティアナを心から愛しています!!父上や母上のように愛のある結婚生活を送りたいのです。これも真実の愛なのです。」
ルシウスはティアナの言葉に妙な自信を付けたらしくティアナと手を繋いだまま堂々と宣言した。
「ルシウス、好きなようになさい!!」
国王が返事をするよりも早く王妃が力強く答えた。
「ああ、ティアナ。なんて愛らしいのだ。」
ルシウスが繋いだティアナの手を愛おしそうに撫でて口づけをした。ルシウスは完全に自分に酔っている。
ティアナの手を取ったまま片足を着き、貴族の求愛の体勢をとった。
「ティアナ・マティス男爵令嬢。私も貴女の事を心から愛している。ランドローズ侯爵令嬢との婚約が正式に破棄された暁には私の妻となり、将来の王妃として私を支えてはくれないだろうか?」
完全に自分だけの世界である。仮にも婚約者であるステファニーやその家族がいる前で他の女性に求婚など王族にしては気遣いが出来なすぎる。
周囲の貴族たちも眉を寄せて、ヒソヒソと何か話をして呆れたようにティアナの返事を待っている。ティアナはゆったりと含みを持たせてから答えた。
「ルシウス殿下。私も殿下をお慕いしておりますが、結婚は出来ませんわ。」
「「「「え???」」」」
ステファニー、ルシウスに加えて国王と王妃が揃った。成り行きを見守っていた聴衆もどよめいている。
ティアナと言えば相も変わらず微笑みを崩さず、ユリウスと侯爵夫人は涼しい顔だ。
「兄上、知らないのですか?」
ユリウスは呆れながらも愉快そうに笑った。
「マティス嬢は…いや、ティアナは私たちの腹違いの妹ですよ。」
「「「「い、妹?!?!」」」」
「はい。心から兄上をお慕いしておりますわ。」
ティアナは深々とカテーシーをした。
『パチン』
ユリウスが指を鳴らし、魔法を解く音がした。
ティアナが深い礼を解き頭を戻した時には、碧のはずだった瞳の色は琥珀に銀を振ったような王家の証であった。
「し、知らぬぞ!余は王女など知らぬ!!」
「これは一体どういう事なのです、ユリウス!!」
国王と王妃は狼狽し、ルシウスは魂でも抜かれたかのように呆然としている。
ステファニーはと言うとまさかの展開に頭がついていかなかったが、親子共々どうしようもないな…と心の中で蔑んでいた。
「あっはははは。」
「おほほほほほ。」
ユリウスと侯爵夫人の声だけが響いた。
「失礼。ティアナの母君はマティス男爵領の大店の娘だったそうですよ。陛下、覚えていらっしゃいますか?」
「よ、余は知らぬ!!」
国王は毛のない頭を必死に振る。
ステファニーは『黙れ、ハゲ』と心の中で悪態ついていた。
「まあ、陛下が無理矢理愛人にした商家の娘なんて両の指では足りませんからね。」
「ええ。本当に。」
侯爵夫人が大きく頷く。
「ティアナの母君は大きな商家の生まれで行儀見習いの為に男爵家で侍女として働いていたそうですよ。」
ティアナは小さく頷いた。
「男爵家が王都に出てくる際に随行して王都の屋敷でも働いたそうです。」
「当時のマティス男爵家と言えば蚕の生産が軌道に乗って高品質の繭を出荷していましたからね。かなりの利益を上げていたのでしょう。爵位は低いものの、かなりの財を成していて王都で頻繁に豪奢なパーティーを開いていたように記憶しております。」
さすが社交界に顔のきく侯爵夫人である。パーティーや舞踏会に非常に詳しい。
「お忍びで参加していたパーティーで見かけた侍女が好みだったんですよね?親子揃って見染めた女性が母娘だなんて皮肉以外の何物でもない。」
ユリウスがティアナの手を取り、侯爵家側に引き寄せた。ティアナが僅かに微笑みを深めるとルシウスが愕然として倒れ込んだ。
「愛人にして妊娠に気が付かず、飽きたら捨てた。違いますか?」
「お可哀想に。国王陛下に言い寄られたら一介の侍女に断る事など出来ませんわ。」
侯爵夫人は強い非難の目を国王陛下に向けた。
「過去何度も諫言を受けたはずです。私も申し上げたはずです。」
母の手が怒りで震えている事にステファニーは気がついた。侯爵夫人として常日頃から感情の機微を悟らせない彼女が怒りを滲ませている。
「その後ティアナの母君と養父となる男爵は結婚しました。…その事実を知りながら。今の男爵はずっとティアナの母君に密かに想いを寄せていたようですよ。反対をされながらも結ばれました。そして男爵はティアナの瞳の色を見て、信頼できる魔術師に色を変えさせた。」
「瞳の色が王家の証だと分かったら大変ですものね。大事に大事に守ったのでしょう。」
急に「うぉーーーーん。」と言う泣き声が聞こえた。
どこぞのご婦人が感極まり泣き出したようだ。周囲の貴族達も軽蔑した目で国王を見ていた。
「…私の母がどの様な気持ちで私を慈しみ育てたか分かりますか?養父がどの様な気持ちで私を実子と分け隔てつなく育てたか分かりますか?」
今まで何も言わず状況を見ているだけだったティアナがゆっくりと言葉を発した。侯爵夫人が労る様にティアナの肩に優しく手を置いた。
「残念ながら母は数年前に病気でこの世を去りました。けれど、私の両親こそ真実の愛を貫いたと思いませんか?」
ねえ、殿下?とティアナはルシウスに微笑んだ。
「素晴らしいご両親ですわ。」
「侯爵夫人、ありがとうございます。男爵家では入学の難しい学園に入学出来るようお力添え頂いたり、デビュタントを支援頂き誠にありがとうございます。侯爵ご夫妻には感謝してもしきれません。」
「いいえ、優秀な令嬢なのに学ぶ機会を逃してしまうなど王国の損失ですから。」
侯爵夫人は国王陛下の元婚約者と言う肩書きから、ティアナの母達のような女性達の駆け込み寺の様な存在であったらしい。ティアナの瞳の色を変えた魔術師からティアナの事を相談されたと後から聞かされた。
「そんな妹にあたる女性を愛してしまい、その上振られてしまう兄上は…因果応報というか身から出た錆と言うか。」
ユリウスがやれやれと首を振った。
「恨むなら国王陛下を恨んで下さいね、兄上。」
ルシウスはユリウスに完膚なきまでに叩き潰された。しおしおと萎んでいるルシウスとは対照的に王妃は髪を振り乱して怒りに震えているのが見てとれた。
「い、一体どこまで王族に不敬を働けば気がすむのです!!」
王妃が金切り声をあげた。
「今までの主張は真っ赤な嘘じゃ!!」
続いて禿げた頭まで真っ赤にして国王が叫ぶ。
「捕えろ!!謀反である!!ランドローズ侯爵家の人間全員とマティス男爵令嬢を捕えるのだ!!第一から第三騎師団全員配置につけ!!」
国王は声を張り上げると王宮中の騎士達がガチャガチャと大勢集まり、ランドローズ侯爵家とユリウス、ティアナを囲んだ。
「あらあら。」
侯爵夫人は屈強な男達に囲まれても優雅に扇であおぐだけだ。
「第三騎師団、配置につけ!!」
「はっ!!」
普段は外部からの攻撃から王宮を守備している第三騎師団。団長が1歩踏み出し命じると騎士たちは槍を突き出し、剣を構え攻撃の体制をとった。
―――侯爵家とユリウス、ティアナを守護する陣形で。
「「「な、なにをしている???」」」
国王と王妃、ルシウスの声が揃う。
「ルシウス殿下、先日私の弟を第三騎士団団長にお引き立て頂きありがとうございます。」
ティアナはにっこりと笑った。第3騎士団を率いている団長がニヤリと笑った。
「…くっ、第3騎士団、追って沙汰を下す!!!第2騎士団、侯爵家を絶対に捕らえろ!!!」
第3騎士団の対応に目を白黒させながらも国王は次の命令を発する。
「第2騎士団、配置につけ!!」
「はっ!!」
団長の声に呼応し、騎士たちが動くがなんと第2騎士団までもが侯爵家を守護する陣形をとった。
「…お前たちもか!!!」
国王が流石に青くなり声を荒らげた。
「殿下、可愛い姪がお世話になりました。ステファニーは妹とランドローズ家が総力を上げて育て上げた珠玉ですよ。」
そう、第2騎士団団長は侯爵夫人の生家、辺境伯が率いる部隊だ。普段は国境での警備にあって居ることが多い。
辺境伯としては妹と姪の二代にわたり婚約破棄の侮辱を受けたのだ。その遺恨は根強い。
「ぐっっっ。第1騎士団!!…は、もういい。」
第1騎士団に命じようとした国王は脱力して途中でやめた。
ユリウスが優雅に腕を振って第1騎士団に命令をしたからだ。王族を守る役割を持つ紫紺の鎧、スーパーエリート集団第1騎士団は一糸乱れぬ動きでまたしても侯爵家を守護する配置についた。
第1騎士団を実質束ねているのは第二王子であるユリウスだ。
「…総員、警戒やめっ。」
「はっ。」
そして静かな、響く低い声を発して騎士団全体に指示を出したのは。
「ランドローズ軍務大臣…。」
そう、家柄、財力、軍事力、令嬢の気質や教養を総合的に判断して王家の繁栄にとって最適な王妃はステファニーである、と王命を受けてしまったので仕方なく結んだ婚約であったのだ。
ランドローズ侯爵家は特に軍務にかけてはかなりの影響力がある一族であり、その当主でステファニーの父ランドローズ侯爵は軍務大臣を務めて久しい。
かくして婚約者を晒し者にして貶めようとした上、妹にボコボコに振られたおバカな王太子殿下と20年前公爵夫人を同じく貶めようとした国王王妃両陛下は田舎で緩やかに幽閉される事になったのだった。
---その後、ステファニーは第二王子だったユリウスと婚約する運びとなった。ユリウスからの強い希望もあったし、既に王太子妃教育をしているステファニーを王族の婚約者をした方が新たな令嬢を選び、教育するより遥かに労力が少ない、という事情もあった。
ユリウスが侯爵と夫人と元々良好な関係を築いていた為、婚約破棄の影響も少なかった。
そして次の王に誰がなるのか―――。
これが揉めた。めちゃくちゃ揉めた。
王太子であったルシウスは失脚し、今のところ継承権を持つのはユリウスとティアナの二人であるが二人とも立太子に消極的だった為である。
しがない男爵家の令嬢でありながら、侯爵家の後楯を得て高位貴族が通う学園を卒業したティアナはその実、とても優秀な女性だった。学園では常に首席で、総代に選ばれるほどだったとか。
そして礼儀作法や教養に関しても男爵令嬢のそれではなかった。侮る高位貴族を相手に王族として完璧な対応で黙らせ、感嘆させたのだった。その優雅な身のこなしは付け焼刃では出来ない。皆が不思議に思っていた。
「ふふふ。当然ですわ。私の先生はミス・パーフェクトと呼ばれた侯爵夫人なんですもの。」
静かにカップをソーサーに戻し、ティアナ…ティアナ王女は微笑んだ。ステファニーとティアナ王女は騒動がやっと落ち着いた頃、ティアナからの誘いで王宮でお茶を飲んでいた。
「男爵家に王族の血を引く娘がいると知られてから私に徹底的に王族としての心構えや作法を叩き込んで下さいました。」
「お母様が…」
かつて王妃教養を完璧を終えていた侯爵夫人指導の元、密かに来たる日にむけて備えていたのだった。
「憎いはずの王族の血を引く私の為に教養を施して下さるなんて、ランドローズ侯爵家には感謝してもしきれませんわ。」
「それなのにステファニー様には申し訳無い事をいたしました。」
ティアナ王女は小さく眉を寄せた。
「とんでもない事でございます。」
「けれど、ルシウスお兄様ではステファニー様に釣り合わないと思いますわ。ユリウスお兄様はステファニー様にゾッコンですし幸せにしてくれるはずです。お兄様に免じて許して下さいな。」
ふふふ、とティアナに揶揄われてステファニーは頬を染めた。
「…ティアナ様もご婚約おめでとうございます。」
「ありがとうございます。ステファニー様とも縁を結べて嬉しいわ。」
ティアナはなんとステファニーの従兄弟に当たる辺境伯家の次男と婚約をした。騎士団での活躍は目を見張るものがある将来有望な人物だ。
「戴冠式の後もどうぞよろしくお願いします。大公夫人。」
「はい。ティアナ女王陛下。」
そして後継者回避争いはユリウスに軍配が上がった。王国に新しい風を吹き込むには庶民感覚の分かるティアナのような女王が必要だと説いて回ったのである。
曰く庶民感覚も分かり、王族の心構えがあり、冷静にその場その場での立ち振る舞いが出来る…。その上、婚約者は王国防衛の要、騎士団の若きエース。新たな国のリーダーとして新鮮で人々の期待を背負うだろう。
「大公と夫人の支えがあってこそ、私は女王として闘えるのです。」
ユリウスは王族から大公へ臣籍降下した。その際、ティアナは少し恨めし気に言った。
『お2人には国内外を問わず外交の為に飛び回って頂きますから。特にユリウスお兄様には私と同じくらい強い権限を渡してめちゃくちゃ働いて貰うんだから。ついでにステファニー様には社交界の華としてめちゃくちゃ影響力持って貰うんだから。』
どうやらユリウスとステファニーを過労死寸前まで使い倒す気らしい。
そしてランドローズ家は今回の騒動と女王を後見してきた功績によって侯爵から公爵に陞爵された。王配となる従兄弟を輩出した辺境伯家も同様である。どうやらティアナは軍務大臣を務めるステファニーの父と、貴族夫人や豪商の夫人達に強い影響力を持つ母を使い国を治め、武勇の誉高い夫の実家を使い隣国を牽制するつもりらしい。
既に両家ともティアナの命に応じて動いているらしい。こちらも使い倒すのであろう。抜け目なく、低い出自の自らの地盤を固め始めているのである。末恐ろしい。
ランドローズ侯爵家は第二王子と、母の生家の辺境伯家は第一王女との婚約をして、ステファニーの母侯爵夫人を軸に王家とは二重の縁続きとなった。
侯爵夫人は一度は王家との縁を切られた。しかし20年の時を経て自らの息のかかった王子王女を次期国王候補に据え、裏切った者達を追放した。
ある意味壮大な復讐をやってのけたのである。そしてその復讐によって結果的に王国は暗愚な国王からの支配から逃れる事が出来た。
後に歴史書の中で王国中興の祖と賞賛される麗しき女王と、王国の英智と呼ばれ宰相として活躍した大公はその人生を終える時まで常に1人の侯爵夫人に恩義を感じていたそうだ。そこには歴史書には乗らないランドローズ侯爵夫人の献身があったと言われている。
2人は賢く国を導き、それぞれの配偶者と仲睦まじく暮らしたそうである。
『侯爵夫人は20年前の婚約破棄の復讐をわすれない。』
end.