『マリアの目』
聖寵満ち満てる聖マリア
御身は女のうちにて祝せられ、胎内の御子イエスも祝せられたもう
神の母なる聖マリア
罪びとなるわれらのために、今も臨終の時も祈りたまえ
* * *
空港まで迎えに行き、妹を助手席に乗せた。
十八の時、このN県を後にした妹も今年で五十になる。
その妹が乗った助手席の車窓からは、N県特有の外海の島々が曇り空の下に浮かんでおり、沖には風があるのかいくつもの白波が立っているのが見える。
黒皮のハンドルがしっくりと掌に馴染んでいる。
このカーブとトンネルの連なる海岸線の道を若いころから、幾度と無く走った。それこそ、運転免許を取得したその日から、俺はこの道を走っているのだ。
「兄貴、危ないって、速度出し過ぎ……」
妹は口ではそう言うも、本心からそうは思っていない。窓の外の後方へと置き去りにされる島々を眺める姿に、ゆったりとした余裕が感じられる。今の彼女からは、どこか叔母と似た知的な雰囲気を感じる。俺はそこに少しだけ苦々しい気分になる。
こういっては不謹慎だが、今回の―― 叔母の葬儀 ――での帰省に、妹はどこか開放感を感じているのがわかる。三十代で離婚して以来、都会で自由にやっているように見えるが、日々大きなストレスを抱えているであろう事は推測できる。
彼女は大学の研究職についていて、それは人間の認知などの神経科学に関係するものだと聞いている。詳しくは知らない。互いに似たような者同士だが、妹の世界と俺の世界は、重なり合わない部分が多いのだ。
二か月前に架けられた赤い欄干の橋を渡ると、塗装と潮が混ざった独特の匂いが窓から流れ込んだ。車内の緑の文字が光るデジタルの時計に目をやる。
この入江をまたぐ橋から叔母の葬儀が行われるカトリック教会まで、俺の運転ならばあと三十分といった所か。
叔母は二十歳ほど年上の女性になる。
正式には、叔母は母の従妹にあたる人物なので文字通りの叔母という存在ではない。それでも、俺や妹は小さいころから『叔母さん』と呼び慕ってきた。
幼少期の俺に、世界というものを教えてくれた女性だった。世界を知ること、その照り返しの鮮やかさを、光の届かない深い奥行きを、そう言った事を教えてくれた女性だった。
妹が、研究者の道を志したのもこの叔母の影響が大きい。
―― この世には、理解できない事が沢山あるのよ ――
まだ二十代だった頃の叔母。幼少の俺へ投げかけた言葉がふいに思い出された。
子供の頃、母に連れらて遊びに来た俺や妹に、様々な世界の不思議を、自然の理の森羅万象を、面白く興味を持てるように語り教えてくれた。夏休みに連泊する際には、青く広大な海を臨む海辺に、自然の動植物が満ちる山へと、と共に駆け回ってくれたものだ。
「ねえ、よく休みがとれたわね。忙しいんでしょ? 兄貴のところ……」
助手席に座る妹は、車窓に映る景色をぼんやりと眺めながら、さらりと言った。
「ああ、休みがとれたのは本当に偶然だよ、上手い具合に案件が片付いてさ……よかった、叔母さんの葬儀に参列出来て」
皮のハンドルを握る手に、少しだけ力を込めた。俺の言葉に妹は口角あげると、また窓の向こうの灰色の空へと視線を戻した。
違う、本当は知っていたのだ。
一週間前、病室に叔母を見舞った時。その横たわる叔母の目に、俺はもう彼女の死を確信していた。そこから、様々な方面に調整と根回しを重ね、二~三日のあいだ俺が仕事を抜けても上手く回るように手を打っておいたのだ。
そう、知っていたのだ……叔母の目が《《あの色》》をしていたから。
* * *
叔母の葬儀が行われる、カトリック教会。
明治八年に建てらた赤煉瓦の教会は、N県北部のT地区、潮風を受ける緑の岬に立っている。田舎の地区の教会にしては大きなほうの建物で、一度に百人ほどの信徒が祈りを捧げられる教会だ。
五歳の夏のある日、俺は教会の敷地内の鬱蒼とした森の中にいた。いつもは叔母とクワガタを捕まえるその森で、懸命に祈りを捧げていた。
そこには、ちょうど人間の女性と、まさに身長155センチの叔母と同じ大きさの白いマリアの聖母像が立っており、まだ小さかった俺を見下ろしていた。
普段であれば荘厳なステンドグラスの窓と木の床の聖堂に入り込んでお祈りをするのだが、何故かこの日は聖堂の扉に鍵がかかっており入ることが出来なかった。
常に解放されている聖堂の扉が開かなかったのは、長い人生の中でもこの時しかない。この事に疑問を持つようになるのは、もっと後の話で、このとき俺はマリア像に祈り続けていた。
「図鑑が見つかりますように、マリア様! どうか、本をみつけてください」
この日、俺は叔母から借りた図鑑を無くしたのだ。海辺の生物図鑑。叔母の家から海辺での採集のおともに借りたのだが、気づいたら手元から無くなっていた。まさか、波にさらわれるようなことはない。立ち寄ったところ全て戻って確認したのだが、どこにも図鑑は見つからない。
「今日行ったところはぜんぶ回って探したんです。見つからないんです。図鑑をなくしたとなったら、叔母さんから嫌われてしまいます」
両手を胸の前に組む。頭を下げて両目を懸命につぶり、視界を閉ざした暗闇の中で祈っていると、むせ返るような湿度と、森の匂いに包まれた。
樹や葉の匂いを主として、紛れ込むように鼻を刺す樹皮や樹液や昆虫の匂い。いつか叔母に教えてもらった、死して土にかえりゆく獣の死骸の、その匂い。
必死の祈りを終えて、すがるような顔つきで再び俺を見下ろすマリアの顔を見た。
心の中に恐怖が入り込んできた。しずかな森の中に立つ白い聖母が、異様なまでに森の景色から切り離されて不思議な存在感を放っている。それは明らかに俺の知っているマリアではなかった。
そのときだった。
マリアの目が開いた。
ゆっくりと、長い眠りから覚めるように。しかし、甘いまどろみの瞳が完全に開かれると途端に、細く鋭い視線が宿った。やや青みがかった黒の瞳孔が一度、俺を見つめると、それから、まばたきもしないまま、左右に視線を巡らせた。
何かを探すように。
その目は、人のものだった。生々しく、深い水の底から光を反射するような、透き通った色をしていた。
それが、間違いなくこの世界のものではないと、幼い俺にもわかった。
呼吸が苦しくなり、動くことも出来ず、ただその場に膝まづいていた。時間にすると三分もなかったのではないかと思う。マリアの目はまだ、ギョロギョロと右に左にと動いている。小さな手足は予測不能の事態に、神経ごと固まってしまい、逃げろ、逃げろ、逃げろ、手足に「動いてくれ」と何度も命令したが、なかなか体は動かない。
必死の脳の信号がようやく手足に伝わったのか、俺は二度三度と転び、足をもつれさせながらも、必死に叔母の家に走った。どのようなルートをとったのか、その辺りの記憶はまったくない。たどり着いた叔母の家には誰もおらず、家の鍵をすべてかけ、暑苦しい家の中で夕方まで毛布を被り、汗を流しながらも得体の知れぬ恐怖に震えていたのを覚えている。
はたして、その日の夕方に図鑑は見つかった。母が、洗面台に置かれていたそれを見つけたのだ。俺は朝から海辺に持ち出し、捕まえた貝や生物を照らし合わせていた。図鑑は間違いなく、家の中ではなく外で失くしたのだ。
なぜ、家の中にあったのか、全く説明が出来ない。
* * *
大人になった俺は、普通に生きる人と比べて、数多くの死に立ち会うこととなった。仕事柄、人の最期に触れることが多い。医療とも介護とはちがう、葬儀に関わる仕事でもない。
しかし、ある種ひとの終焉に関わる職業。
その死を前にした者達の目を見たとき、俺は気づくことになる。
死を迎える者の目は、病死にせよ、その他の死にせよ、あの日見たマリアの目と同じ色をしている。
それは、あまりにも透明な色だった。
肉体の奥底にある魂が、最期に眼球の組織を透かして見るような──あるいは、この世界の光を、すべて天に還したあとの目。
* * *
一週間前、病室に横たわる叔母の目は、やはりあの色をしていた。透き通り、冷たく深い深海のように静かで、それでいて、すべての心の奥底までを見通すような。
だから、知っていた。しかし、誰ひとり、当然だが妹にも教える事はしなかった。
溢れる涙は眼球の中で熱かった。叔母の前で一筋だけ頬を伝わせると、彼女には聞き取れる筈のない『ありがとう』の別れの言葉を告げる。病室の扉をしめると、一緒に自身の胸ごと過去そのものが閉まりゆくような、暗い虚脱に包まれた。
* * *
あの日、あのマリアの開かれた目を見た俺は、その後、何度も教会の森へと足を運んだ。あの時はマリア像の目が開くという、あり得ない現象の恐怖に心を支配された。でも、今度は逃げない、もう一度あの聖母マリアと、あの目と向き合いたい、子供ながらにそう思った。
開かれ、世界を右に左にと見据えていた、あの目。その正体を知りたいと思った。誰に話したところで、マリアの目が開いたことなど、信じてもらえないだろうから。
不思議なことに、幾度その森に入っても聖母マリアの像を場所を見つける事が出来なかった。それどころか、誰にたずねても皆が『森にそのようなマリア像はない、見たこともない』と言うのだ。俺と一緒に祈りをささげた事があるはずの、母も妹も、叔母の両親も、そのようなマリア像は知らないと言う。当然、祈りも捧げたことも、ないと。
そうなると、もはやその存在しないマリア像、その目が開いたなどとは誰にも言えない。頭は混乱する。しかし、最初からあの聖母マリアの像がなかったとはどういうことなのだ。母や妹と祈りを捧げたという俺の記憶は、いったい何なのだ。
ただ、この事件で重要な事は、あのマリア像について、必死に存在を訴える幼い俺に叔母の言った一言であった。それは今も忘れることなく、強く記憶に刻まれている。
―― たしかに信じられない話だけど、あなたが在ったというなら、マリア像は本当にあったのよ ――
* * *
車をゆっくりと教会の敷地へと入れる。駐車場には誘導の係員が配置され、その指示に従った。
赤色のレンガ造りの建物は、子供の頃にはなかった緑の蔦に覆われ佇まいを変えている。同じレンガ造りの鐘楼に十字架が高くそびえ、灰色の雲の切れ間から帯光の刺す空に伸びあがっていた。
叔母の葬儀が始まるまではまだ時間がある。
喪服に着替えをすませて聖堂に入る。暗い木の匂いが満ちた広い聖堂に入ると視線は正面の高き所に引き込まれる。七色のステンドグラスを透した光の中で、十字の杭にかけられた神の御子の偶像が、横たわる叔母の黒い棺に慈愛の眼差しを落としていた。
カトリック信者の代表者数十名がすでに葬儀に先立ち、祈りを捧げており、俺は目を閉じると頭を下げる。その厳粛かつ壮麗な祈りの声は、教会の外の ――あのマリア像のいる森まで―― 響いているだろう。
聖寵満ち満てるマリア
御身は女のうちにて祝せられ、胎内の御子イエスも祝せられたもう
神の母なる聖マリア
罪びとなるわれらのために、今も臨終の時も祈りたまえ
神の母なる聖マリア
罪びとなるわれらのために、今も臨終の時も祈りたまえ