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竜去りし地の物語  作者: 権田 浩


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女王の帰還

「ルゴス王が〈水の宮殿〉へ旅立たれました」


 道を外れて少し山へ入ったところにある、狭くて辺鄙な土地に建つ小さな家の戸口で、ヒルダは老王の訃報を聞いた。なにせ七〇を越えたご老体だから、不思議なことではなかった。ただ目の前に立つ立派な装束を着た使者がどうやって、なぜ自分のところへ来たのかが分からなかった。それでもまずは、しばし黙祷を捧げる。


「そうか……あれほどの御方だ。今頃は〈水の宮殿〉で古の勇者たちと杯を交わしておられるだろう」


「疑いようもございません」


「それで、それを知らせるためだけにわざわざ、あたしを探したのか?」


 こほん、と使者は小さく咳払いして、姿勢を正した。


「いいえ。ルゴス王は病床にて、王位継承者をご指名になられました。北方四王の最後の御一人、スパイク谷のヒルダ女王を玉座に、と」


「な……なにをバカな。あたしはもうずっと昔に譲位した。ルゴス王がそれを知らぬはずがない」


「失礼ですが、陛下。譲位に際して正式な書面にて手続きを行われましたか。あるいは、証人となるような者がおりましょうか」


「……書面などはない。だが、あたしの宣言を谷の皆が聞いているはずだ。証人になろう」


「陛下の御宅を探すためエイクリムに立ち寄りましたが、民は揃ってこう言っておりました。我らの女王はあの館にも玉座にもおわさぬが、あの山におられる、と。残念ながら退位を証明してはくれますまい」


 ヒルダはただ唖然とした。エイクリムの町へは一度も下りていないが、ここに住んでいて気付かれないはずはない。だから、谷にいることを寛大にも許してもらっている、と思っていたのだ。


 使者は屹立して待っていたが、彼女の様子をみて、一歩下がった。


「お伝えすることは以上でございます。正式にお返事いただくまではエイクリムに滞在しております。ああ、それと」


 去り際、使者が付け加える。


「自由騎士団長どのが、くれぐれもよろしくと、おっしゃっておられました」


 苛立ちがポッと胸の内に灯って、ヒルダは我に返った。その名前を出されると弱い。ギャレットは命の恩人であり、そのうえ、不自由な怪我人の彼女をスパイク谷まで送り届けてくれた。それきり会っていないが、いずれ恩に報いると約束してしまっていた。


「くそっ……あいつがルゴス王に入れ知恵したのか?」


「いえ、まさか。あの方は登城を避けておられます。ここへ来る道中、たまたま宿でお会いしたのです。ただ、私の役目は察しておられた様子でしたが」


 使者は一礼して歩み去った。西に傾き始めた午後の日差しがその背を照らし、兜飾りにキラキラと反射して目にうるさかった。娘を迎えに行く時間はもう過ぎている。振り向くと、ロジウが待っていた。


「邪魔しないほうがいいかと思って。これから迎えに行ってくるよ」


「いや、あたしが行こう。いつもあの子を預かってもらっているのに挨拶をしたこともない。谷の者は今でもあたしのことを王だと思っているようだし?」


 ロジウの思慮深げな微笑みは、それが冗談にも皮肉にもなっておらず、真実であると告げていた。こんなにも皆に守られていたのだと思うと、ヒルダは意外にも、うれしかった。


「いや、いつも通り、ぼくが行く。君は……さっきの話について考えたほうがいい」


「そうだな……わかった。そうする」


「うん」


「しかし、そのご近所さん……ゼッブだっけ。変わった名だ。コー族か?」


「ええっと……まぁ、今度、ちゃんと紹介するよ」


 いそいそと出て行くロジウを戸口で見送っていると、木立の中をずんぐりした人影が向かって来ているのに気付いた。さっきの使者が戻ってきたのではない。もっとずっと小さいが、しかし……あれは!


 ヒルダは左手で棍棒を掴み、ロジウが止める間もなく、矢のように飛び出した。オークだ。オークが腕に抱えているのは……あたしたちの娘だ!


 驚いて立ち止まったオークの頭を割る勢いで、あとは棍棒を振り下ろすだけ、というところでヒルダはぴたりと止まった。そのオークはまだ子供だった。豚そっくりの大きな鼻から鼻水を垂らし、あんぐり開けた下顎には小さくて丸い牙。大きな瞳は純真無垢で、谷の子供となんら変わりない。


 ロジウが必死の形相で二人の間に飛び込んでくる。


「ヒルダ、この子はゼッブさんとこの子だ。いつもリーヴと遊んでくれているんだよ。フッブ君、リーヴを連れてきてくれたんだね?」


「う、うん……」と、うなずいて、フッブは後ろを振り返った。その方向に、おそらく父親(ゼッブ)が隠れて待っているのだろう。


「ありがとうね、もう大丈夫。お父さんにもよろしくね」


 フッブは腕の中でスヤスヤ眠る二歳の(リーヴ)をロジウに預け、つぶらな瞳でヒルダと振り上げた棍棒の先を交互に見上げた後、おずおずと帰ってゆく。


「ありがとう! また遊んであげてね!」


 ロジウの呼びかけに、彼は遠くで振り向いて小さく手を振った。




 その夜、娘をベッドの囲いに入れてから、夫婦は居間に落ち着いた。蝋燭の灯が二人だけの空間を宵闇の中に浮かび上がらせている。


「……で、引き受けようと思ってるんだよね?」


 ロジウの言葉に、ヒルダは目をぱちくりさせた。


「……まさか。どうしてあたしが?」


「人々がそれを望んでいるのなら、君は引き受けるだろうと思って」


「無理だよ。あたしには」


 ヒルダは視線を、木製マグの中のエールの水面に落とした。ぼんやり揺らめく自分の影を睨んで言葉を続ける。


「あたしは……良い王じゃなかった。また過ちを繰り返すのが怖いんだ。ブランがオーク傭兵の話を切り出した時、それを受け入れるべきだった。それが真に民のため、王として正しい決断だった……そうだろ?」


 目線を上げたとき、ロジウはいつものように真っすぐ彼女を見ていた。黒い瞳に灯火が映っている。


「ああ、そうだね。民の反発は必至だったろうけど、いずれは理解してくれたと思うよ。もしオークが狼藉を働いたなら、君は王の名のもとに断罪できただろうし。君がブラン王の統一戦争に貢献していれば、スパイク谷の地位向上を図ることもできただろうね」


「そしてブランは間違いなく、北方の王たる者だった」


 ヒルダはギッと顔を歪めた。眉間に深い苦悩が刻まれる。


「あいつのことは嫌いだったけど、それは心のどこかでやつには勝てない、肩を並べることすらできないと知っていたからだ。傑物だと……憧れだったと、認めたくなかったんだ。怒りに駆られて何年も追い続けて、ついに殺してしまってから気付くなんて。いつもそうだ。終わってから気付く。ルゴス王が上手くやってくれなかったら、あたしは何もかもを台無しにしてしまうところだった!」


 失った右腕の代わりに左手で、ヒルダは木製マグを割れんばかりに握りしめた。ロジウはエールを口に運んで一息つく。


「ブラン王は、君のいうとおり、北方の王たるに至高の存在だったんだろうね。けれど征服することでしか世界と向き合えないなら、大陸の王たる者ではない……と、ぼくは思う」


 ロジウは強張ったヒルダの左手にそっと触れた。


「君はギャレット卿に保護されて谷へ戻って来た時から、一度も剣を手にしていない。コー族のぼくを受け入れてくれて、極北の地や兄さんたちを懐かしむぼくを慰めてくれたよね。娘が生まれて、この世で一番やっかいなぼくらの小さな怪物とずっと戦ってきた」


 その優しさが、重ねた手からじんわりとヒルダの心を解きほぐす。


「考えてみれば……あの子、フッブだっけ。谷生まれなんだな。明日にも謝りに行かなきゃ」と、夫の手を握る。


「お父さんのゼッブもまだ若いんだ。ここに来た最初の子供の一人でね。だから受け入れられない人たちとのいざこざも見てきたし、今でもかなり気を遣ってる。この状況は、大陸全土にあると思う。だから今こそ必要なんだ。ブラン王では成り得なかった、大陸の王たる者が」


 ロジウもまた、妻の手を握り返して、真摯な瞳で見つめた。


「ねぇ、ヒルダ。今の君は畏怖を知り、恐れを知っている。だからこそ本当の意味で、恐れを知らぬ戦士のように歩んでゆけるはずだよ。そんな君の背中を見ながら、あの子(リーヴ)には大人になってほしいんだ」


 ふっと記憶が優しく触れて、ヒルダは思わず「ふふっ」と小さく笑ってしまった。ロジウは怪訝そうに眉根を寄せる。


「いや、違うんだ。ただ昔、似たような忠告をしたことがあって、それを思い出したんだ。そうか、偉そうに言っていたあたしにもその時が来たんだな……」


 かつて戦士であり、いまは母親であるヒルダに残された唯一の左手を、ロジウはそっと両手で包み込んだ。


「ぼくはずっと君の傍にいる」


「ありがとう、ロジウ。あんたには助けられてばかりいる」


 ロジウは黒髪を左右に振った。


「ぼくも君に助けられ、あの子(リーヴ)に救われた。それから谷の人たち、マグナルおじさん……そして誰より、竜騎士さまに」


 こうして運命の輪が絆を紡ぎ、命は巡る。王都キングスバレーにて〝スパイク谷、アードとアルダー地方、スケイルズ諸島、ならびにファランティアおよびテッサニアを統べる者、スヴェンの娘にして統一テストリアの女王〟ヒルダ一世が戴冠したのは冬が明けた翌年、統一歴三年の春のことだった。


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