名もなき村の反乱 5
もはや問答無用とばかりに、統一王は鮮やかな紫色のマントを脱ぎ捨てた。
五〇代も半ばを迎えて貫禄はいや増し、斧を上段に構えた巨躯は山のようにどっしりとして、まさに王者そのものであったが、相手の出方を待ち受けたりはしなかった。若かりし頃の情熱そのままに、血に飢えた獣のごとく襲いかかる。先手必勝、一撃必殺、頭を割って終わりだと確信しているかのような一振りはまるで、鏡に映した自分を見ているようだった――ゆえに、ヒルダは思わず後ろに下がってその一撃をかわしてしまう。
老王はそのまま巨体を丸めて肉薄し、肩から体当たりをくらわせた。全身が浮き上がるような衝撃。肺から空気が飛び出て目の前に火花が散り、ヒルダは膝をつく。磨き抜かれた戦士の本能が死を覚悟した。目の前の老王は再び斧を振り上げて、振り下ろす。単純だが、体重を乗せた重く、するどい一撃。避けることも受けることも不可能な一撃。
だがヒルダの両腕と、手にした〈勝者の剣または敗者の剣〉は、それに耐えた。衝撃が痺れというより痛みとなって背骨まで駆け抜け、青い瞳に涙がにじむ。折れ曲がったのはブランの手にある斧のほうで、さすがの老王も目を剥いた。|かつて自分のものだった伝説の剣《勝者の剣または敗者の剣》でも、この一撃を受けきれるとは思っていなかったし、剣が無事でもヒルダの頭は潰せるはずだった。
その隙を見逃さず、ヒルダは歯を食いしばってぐんとブランを押し返して立ち上がった。老王の巨体がよろめいて二歩、三歩と下がる。この機を逃してなるものかと剣を――感覚の全く無い右手が今も握っていると信じて――横に振り抜く。
カミソリのように鋭い刃がブランの顔面を横一文字に切り裂いた。血が剣筋を追って空へ飛び散る。顔を押さえて老王はさらに数歩下がった。手はべっとりと赤く染まり、溢れた血で目から下を覆われてなお、その瞳は憤怒を火走らせて輝いた。斧を捨てて剣を抜き放ち、のしのしと向かってくる。ぞっとして、ここがまさに生死の際だとヒルダは察した。自ら火に飛び込んでしまおうとする本能を押さえ込んで踏みとどまり、剣を構え直す。
ブランが最後の一歩を踏み込んだ瞬間、その筋肉で膨れ上がった右肩と上腕が血塗れの顔半分を隠していた。太い腰を捻り、全身はち切れんばかりに左へ振りかぶった剣が閃光のように解き放たれる。普通の人間なら上半身と下半身が分かれてしまうほどの、横凪ぎの一閃。ヒルダは姿勢を低く、肩と腕で支えた剣を盾にして、全身でそれを受け止めた――にも関わらず、意識が断ち切られそうなほどの鋭い痛みが頭蓋に抜ける。あらゆる苦痛を無視して、左手の甲で剣先を押し上げつつ、ブランの剣の下を潜るようにして内側にするりと入り込む。
そこで二人は互いの熱が感じられるほどに密着した。瞳と瞳で見つめ合う刹那、ヒルダはブランの首筋に押し当てた刃を、引いた。
二人が対峙して、一方が倒れるまで、傍目にはあっという間の出来事だった。統一王の首から噴き出した熱い返り血には一国の重みでもあるかのように、ヒルダの身をぐらりと傾けさせたが、彼女は耐えて踏みとどまった。全身の骨が軋み、呼吸のたびに胸が痛む。だが、まだ戦いは終わっていない。震える右手から滑り落ちようとする剣の柄を握り直し、顔を上げる。まだ兵士がいる。一人でも多く斬り捨てて、主君の供としてやろう。巻き込んでしまった村人への、せめてもの慰めに。
そこで、枯野を横切ってこちらへ向かってくるギャレットに気付いた。今は敵か味方か分からないが、しかしどういうわけか、ヒルダは左手を軽く持ち上げ、ニヤリと不敵な笑みを浮かべてしまった。自由騎士は驚きに満ちた表情で何かを叫ぶ。その意味をヒルダは履き違えた。
――背後で、ゆらり。
はっ、と振り返ったヒルダの目が捉えたのは、獣のように歯をむき出した血塗れの顔だけだった。次の瞬間、剣が一筋の光線となって、ヒルダの右腕を断つ。
驚きと混乱。腕の切断面から血が吹き出すと同時に襲ってきた衝撃が心臓を直撃し、痛みを感じる前に記憶の奔流が意識を圧倒した。いや、それは記憶と呼べるようなものではなく、ただ人生の全てを一度に脳へ押し込まれたようなものだった。走馬灯のように、などという穏やかなものではない。
ゴッ、と後頭部に衝撃を受けて再びヒルダの意識が現実を捉えた時、目の前にあるのは、今まさに剣を突き下ろそうとする巨大な影だった。半ば切られた首を奇妙に曲げ、黄色く光る二つの目はらんらんと光を放ち、血塗れの中で剥き出された犬歯は笑みを浮かべているかのよう。
純然たる獣の殺意に反応して、ヒルダは地面を転がり、剣を握ったまま落ちている自身の右腕を発見する。白熱して明滅する意識と、暮れゆく黄昏の視界。自分の指をこじ開けて剣を奪い取り、立ち上がる。どうやって、何のために。目の前にある人の形をした獣は地面から剣先を引き抜き、再び突きかかる構えだ。何も考えられないまま剣の柄頭を腹に据え、殺意に呼応して叫びながらヒルダもまた突進した。
二つの影が交差する。
涙が頬を伝い、血塗れの左手に落ちた。
剣は、互いを刺し貫いていた。
そしてゆっくりと、両者は地に伏した。
誰かが鎧を鳴らして駆けてくる。
――ランスベルか?
と、ヒルダは思ったが、そんなはずはなかった。
冬の夜のように暗く、寒い。光り輝く大地の館なんて見えてこない。暗闇の中で感じられるのは孤独だけ。怖い。いやだ、たった一人、こんなところで消えていきたくない……
「帰りたい……帰りたいよ……」
「ああ、そうしよう。約束する」と、誰かが言った。
ヒルダはやっと安心して、剣を手放した。




