元将軍と交易商 10
太陽が帝都の向こうの地平に去り、部屋が宵闇の濃紺に沈むまで、ハイマンはじっと椅子に座り続けていた。いくら考えても疑問の答えなど見出せないが、一つだけ確かめられることはある。
ハイマンは立ち上がり、テラスから庭へ出た。眼下の帝都では夜空に先立って人々の灯が瞬き始めている。それを後目にぐるりと裏へ回り、小さな勝手口から家の中へ戻った。左手の扉は手前が小さな書斎で、奥がさっきまでいたテラスのある部屋。右手は手前から物置、台所、食堂と続く。
左手を壁に沿わせるようにして廊下を歩き、テラスのある部屋まで行ってから、戻って書斎の扉を開ける。もし自宅だったなら、こじんまりとして落ち着く小部屋だったかもしれないが、軟禁状態にあったハイマンには独房のように思えて気が狂いそうになるため、本の出し入れでしか訪れたことはなかった。人の存在を忘れた部屋の空気はまるで棺桶の中のようで、ぞっとしない。
右手の壁沿いは一面が書架になっている。手前の壁との隙間を覗き込み、書架の奥行と壁までの距離を目測して再び廊下に戻る。二つの部屋の間に当てはめてみると、やはりおかしい。書斎と、テラスのある部屋との間に一フィートほどの余分な幅がある。この違和感に気付いたのはかなり前だったが、単純な設計ミスで隙間ができてしまったとか、壁の木材が思ったより薄かったとか、そういうことだろうと片づけていた。しかし、帝都の設計を任されるような建築家がそのようなミスをするだろうか?
意を決し、ハイマンは書架の本を床へ下ろす作業を始めた。使用人によって掃除はされているらしく、埃が舞い上がったりはしない。ランタンの明かりに照らされて、汗ばんだ皮膚がてらてらと鈍く輝く。はぁはぁと息を切らして作業しつつ、書架の奥板を手で触り、叩いて、確認してみても隠し場所のようなものがある感じはしない。全くの見当違いか。足元に積まれた本の山を元に戻すなら、今のうちかもしれない。いや、ここまでやったなら無駄でも最後まで。
ついに最下段の本まで引き抜いて腹ばいになり、指先だけで奥板を確認する。思わず「えっ?」と声が出て、指先を左右に往復させた。何かがひっかかる。亀裂とか凹みとか、そういうものかもしれないと思いつつ……不安と期待を胸におそるおそるランタンで照らすと、奥板に影があった。長辺が指先と同じくらいの、縦に細長い四角い穴。いかにも何かを差し込むように作られたものだ。まさか本当にあったなんて。しかし鍵になりそうものなど……「あっ」まさか、あれか?
ハイマンはランタンを手に書斎を出て、自室に向かった。おそらくはトマス本人も自室として作っただろう部屋の暖炉の上を照らす。そこにある帝国の英雄たちが象られた小さな立像は、彼らの出身地に飾られている大きな立像の精巧なミニチュアだと使用人から聞いたことがある。そのうちの一つ、立国王の像を手に取る。天を衝く小さな剣が取り外せることを、ハイマンは弄っているうちに偶然知った。他の像には取り外せる部分などないため不思議に思ったものだったが、いま二つの違和感が一つにつながってしまった。
どたどたと書斎に駆け戻って、立国王の小さな剣を震えながら差し込む。なんてことだ。大きさはぴったりだ。まさか本当に。いやまて、勢いで進むな。もし何かが隠されているとして、それが帝国や皇帝陛下にとって明かされるべきでないものだったとして、功労者である建築家を殺すほどの秘密だったとして、いいのか、本当に。後戻りできなくなるぞ。
〝今は、取引相手に足る、と考えています〟
つい先刻の交易商の言葉が蘇る。しかし脳裏に浮かんだその姿は、かつてファランティア王国で卓を挟んだ憎たらしい内政長官のものだった。王国最後の夜に言葉を交わし、そして最後の瞬間も隣に立っていた男。忌々しくも友情を感じてしまったあのモーリッツ。やつを信じていいのか。やつが停戦の混乱に紛れて姿を消さなければ、自分一人で責任を負うこともなかったかもれしないのに――
〝それは、この国に来た時のあなたも同じだったのでは?〟
――そう、あの時は覚悟していた。自分一人で戦争責任を負い、死をもって正義はなされたと知らしめることで、ファランティアを帝国の一部にする。それで平和が戻るはずだったのに、統一戦争などという戦乱がずっと続いていたなんて。ここに囲われ、酒に溺れて腐っていく間にも世界は動き続けていた。そんな当たり前のことすら考えなかったなんて。
床に這いつくばったまま、押し付けられた腹の厚みを感じ、二重顎から滴った汗が溜まっているのを見て、ハイマンはぞっとした。自分はあまりにも変わり果ててしまった。それは外見だけのことではない。安寧とした余生を捨てて、混沌とした世界に踏み出すことに、これほど躊躇するとは。ファランティアの現在など知ってどうする。もう若くはないのだ。せいぜいあと一〇年、ここで怠惰に死を待つほうが、ずっと賢い選択だ。誰だって、そうするはずだ。
〝貴族、平民の区別なく、民一人一人が自らの主として生きられる。そんな社会を……〟
お前に乗せられてやるぞ、モーリッツ――ハイマンはミニチュアの剣を奥まで差し込んだ。かっちりとはまった感触が指に伝わり、コトッと小さな物音がした。
最下段の奥板に隙間が開いている。指をかけて隠し戸を開けると三本の巻物が入っていた。両手で持つ大きさの巻物を書見台に置いて開く。紛れもなく建築図面だ。外観から見当がつけばよいのだが……と、見ていくうちに見知った形のものが出てきた。新帝都城だ。図面には排水溝なども詳細に記してあり、隠し通路らしきものもある。
モーリッツの狙いはこれだろうか……「ん?」
図面に帝国語の書き込みがあった。〝なぜ?〟の一言。その言葉とつながった線の先は、どうやら城の謁見広場らしい。内郭にあって、テラスからやんごとなき御方の御言葉をいただく場所だが、図面によると民が集まる広場の下に空洞がある。何本もの柱によって支えられた上げ底構造は何のためにあるのか。敵に攻め込まれた時に崩落させるため……だろうか。
続けて他の巻物も確認してみる。すると、またもや〝なぜ?〟の文字。形から推測するに大聖堂のようだ。正面扉から入ってすぐの、一番大きな礼拝の間の床が、やはり同じ上げ底構造になっている。こちらは一般人が日々礼拝に訪れる場所と思われる。
ハイマンは口ひげを引っ張りながら考えた。どちらも何かの折に人々が大勢集まる場所、というくらいしか共通点はない。他にもいくつか〝なぜ?〟を見つけたが、いずれもそうなのだろうか。実際に帝都を歩いて回ったことがないのでわからない。
しばらく〝なぜ?〟を見つめていると、背筋が寒くなってきた。この構造の意味はわからないが、もしかすると、この〝なぜ?〟が建築家を殺したのかもしれない。
ぶるっと震えて、ハイマンは巻物を丸めて隠し戸に戻した。ミニチュアの剣を抜き、数冊の本で差し込み口を隠して、自室のベッドに直行した。




