灰の預言者
その土地にはこの時期、白と黒しかなかった。大地は白い氷雪に覆われて、わずかに覗く岩肌と、遠くどこまでも続く険しい大山脈の山肌だけが黒かった。灰色の空から雪がちらつくこともまだあったけれども、冬は終わっていた。流氷の上に倒れていた彼が凍死をまぬかれたのも、そのためかもしれなかった。
彼を発見した若いオークの狩人が部族の賢者を呼んだのは、どうみてもただの遭難者ではなかったからだ。まずはその顔。口鼻の形はオークに似ているが成長途中のように小ぶりで、その他は人間のようでもあり中途半端で不気味だった。賢者は彼が半人間だと教えてくれた。この辺りでは見ないが、遥か東の果ての部族にはそのような者がいるらしい、と。
次にはその体格。贅沢太りでよく肥えており肌艶は健康そのもの。それは、より多くの食料を得られる力ある者か、その一族であることを示している。賢者いわく、普通の半人間がそのような境遇にあるとは考えにくい。
最後にはその言葉。オーク語ではあるが、若者には半分も理解できなかった。しかし賢者は目を丸くして子供のように鼻を鳴らした。なぜならそれは神聖なる古代の言語。そして「創造主様はどちらにおわしますか」と尋ねるのは預言者の証だったからだ。
かくして彼は賢者によって保護され、しかるのち、灰の預言者としてゼッグルノッド王と謁見することとなった。
他のオークの住まいに比べると、王の館は高床式の木造で、三角屋根の立派なものだ。黒の神と白の女神の混ざり合った色、すなわち聖なる灰色の衣をまとった彼は賢者に続いて階段を上がり、高床に足をかけたところ、室内ではなく縁側のほうへ誘導された。その先で、縦にも横にも大きくどっしりとした立派なオークが腕を組んで遠くを見ていた。金銀の腕輪と首輪、口の端から伸びる牙と、編みこんだ髪にも装飾があり、おそらく人間から奪っただろう赤い布を腰に巻いている。羽織った毛皮も、この地では他に見られない種類のものだ。
賢者が鼻面を床に押し付けて平伏したので、彼もそれに倣う。かなり窮屈な姿勢だが、そうしてへりくだることに礼儀がある。
「ゼッグルノッド王、灰の預言者さまをお連れいたしました」
「うむ」と王は尊大に返事をして、ちらりと横目に彼を見た。半人間にしては立派な肉付きをしているが、顔のほうを直視するのは気乗りしない。「そう畏まる必要はないぞ、灰の預言者どの。面を上げて楽にされよ」
彼が顔を上げると、王は目を戻し、賢者は立ち上がった。「では」とその場を離れたが、階段の近くに控えている。
王は、オークが〈落日峰〉と呼ぶ一際高い峰のある山脈に目を向けたまま、しかし感傷を響かせることなく言った。
「女王はもう戻らないのだろうか」
「残念でございますが、はい。先の〈黒の門〉の戦いはオークの敗退に終わり、女王さまも討たれたと聞いております」
「〈黒の門〉?」
「失礼しました。〈牙峠〉でございました」
「女王は、祖父の時代すでに女王であった偉大な女だ。人間ごときに討てるとは思えんのだが」
「不運にも竜騎士一行が参戦していたようで、戦場にいなかったエルフに討たれたものと存じます」
ゼッグルノッドは竜騎士なるものを知らなかったが、エルフとドワーフはわかる。相対したことはないが、恐るべき怪物と聞いている。
「……で、なぜそのようなことを知っているのか、どこから来たのかは、やはり思い出せんのか」
「はい……覚えておりますのは、緑色の太陽と黒く細い人影、そして虚無が広がって……気付けば、こちらで保護されておりました」
「緑の太陽、創造主の御姿、虚無。司祭の語る創造記と一致する。古代の神聖語を話したことといい、神の手によってあの場に創造されたという賢者の見解は正しいかもしれん」
彼自身、そうかもしれないと信じ始めていた。頭の中に誰かが勝手に詰め込んだ本や日記のようなものがあって、それを参照することはできる。しかし、あくまでも自分と接続していない他人の知識でしかない。そして、ここで目覚めて最初の欲求は、創造主に会って指示を受けることだった。
オークならば誰もがそのような原初の体験を持っているかと思いきや、彼だけだという。創造記によると、黒の神つまり創造主から直接、言葉を預かる者は生まれた瞬間にそうした欲求をもっていたらしい。ならば実体験として、信じる以外にないではないか?
そしてそうなのであれば、いったい何のためにここへ創造されたのか?
少しばかり高い縁側からはゼッ族の集落を眺めることができる。彼の知識にある人間の町とは比べるべくもないみすぼらしさ。この王の館でさえ農村の物置小屋でしかなく、他には半地下の居室に皮の屋根を張っただけの住居が無秩序に点在しているだけ。雪が融けて剥き出しになった土地に、今は苔のように緑の小さな葉が広がっているが、オークたちは地面を這いずり、その貴重な食糧を必死になって集め、あるいは鼻面をこすり付けて直接食んでいる。取り合いになれば解決手段は暴力しかなく、やせ細った弱者は弱者ゆえに死んでいく。
いまだ〈落日峰〉を見やる王に、彼は問うた。「女王さまはなぜ自らご出陣されたのでしょう」
「……灰の預言者どの、これは他言無用だが、偉大なる我が女王も衰えを感じ始めていたのだ。まだ力が振るえるうちに、我らをかの地へ導こうと考えておられた」
あるいはこの生活に憐れみを感じたからかもしれないが、そう考えることはできても、彼の心には何の情も湧いてこなかった。「ボッグルデックではなく、おれさまを供に選んでくれたら……」という王の呟きにも。
王とは、女王に見初められた族長のことで複数存在する。ゼッグルノッドもその一人、と賢者から教わった。ゆえに個人的な事情を知っていても不思議はない。人間世界の知識は豊富なのに、そういうオークとして当たり前の常識を彼は持っていなかった。そこにはどんな意味があるのだろう。
「しかし幸いにして戦死者は少なかった。いまは自分の部族に戻っているがもうすぐ再びこの地へ集うだろう。白の季節になる前に仕掛けるつもりだが、どう思われる。灰の預言者どのが今ここに遣わされたことも天啓と思っているのだが」
「偉大なる女王の仇を討つことが、王のお望みでしょうか?」
その時はじめて、ゼッグルノッドは彼のほうを向いた。驚きは図星を突かれたため。歪んだ表情は彼の風貌の醜さゆえ。しばし目を泳がせた後、王は迷いを散らすように強く鼻を鳴らした。
「……違う。〝食らい、まぐわい、地に満ちよ〟と神は仰せになった。この世界は全て我らオークのものと約束されている。だから、あの山の向こうに広がる豊かな土地もオークのものだ。おれは若い頃、山脈を越えて見たのだ。緑は大きく育ち、獲物と食い物に溢れていた。あれは我々のものだ。人間どもが盗み取っているのだ……!」
「人間が憎いですか」
「当たり前だ」
「では、人間をなるべく多く殺すことが王のお望みでしょうか?」
ゼッグルノッドは彼を睨みつけた。その半人間の醜い顔には何の意図も感情もない。燃え上がった怒りをぶつけても、その瞳の虚無に吸い込まれてしまうばかり。
「……そうだ」
「わかりました。恩義に報いるにやぶさかではございません。ではまず……」
「いや待て、違う!」
ゼッグルノッドの中で何かが閃いた。偉大なる女王が目指したのはかの地へ民を導くことであり、人間を殺して戦いに勝利することはその手段でしかない。
「おれさまの望みは、あの山の向こうへ民を導くことだ」
「承知しました。でしたら、やってみましょう。そのためには人間への憎悪を抑えていただかなくてはなりませんが」
あまりに淡々と安請け合いするので、ゼッグルノッドは呆然とした。しかしこの半人間は預言者だ。しかも、灰の預言者。創造記にも記された者なのだ。
「必要ならば、そうしてみせよう。だがどうやって……」
彼は〈落日峰〉を指差した。
「あの向こう、すなわちテストリア大陸は現在、アルガン帝国に侵略されています。王都の戦いがどうなったか、そしてその後の現状をわたしは知りませんが、北方のブラン王が存命なら黙っているとは思えません。であれば、我々の利害は一致する可能性が高い」
聞いたこともない言葉の連続に王は呆然としたまま、「だがどうやって……?」と繰り返した。
「先ほどの王のお話によれば、〈牙峠〉でなくとも〈黒の山脈〉を越える道はあるとのこと。わたしが行って、交渉してみましょう」
「い、いや、しかし相当に危険な道だぞ。生きて戻れたのはおれさまだけだった。それに人間どもはオークとみれば襲いかかってくる。死にに行くようなものだ。命が惜しくないのか……?」
「はい。戻らなくともどうかお気になさらず、捨て置いてください。どうせ……」
〝本当に欲しかったものは、もう失っている。あの日、大学の――〟
そんな言葉が彼の脳裏に閃いて、するりと指の間から抜け落ちるようにして消えた。
「……灰の預言者どの?」
その虚無の瞳に一瞬何かの感情が瞬いた気がして、ゼッグルノッドは首を傾げた。しかし、そのようなことは二度となかった。
※(補注)活動報告「灰の預言者の正体」
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