スパイク谷の老戦士 5
世界は翳り、春の陽光は遠く、曖昧に溶けた。いつの間に夜になったのか。とても寒く、足が氷のように冷たい。いつの間に冬に戻ったのか。
遠くに輝く館がみえる。あれこそ〈大地の館〉に違いない。
一面の銀世界の中へ、マグナルは〈大地の館〉を目指してとぼとぼと歩き出した。背中にある無数の傷は黒い血を流し、一歩ごとに命が失われていく――。
抵抗を失った扉が破片をまき散らしながら勢いよく開け放たれ、オークたちは外に飛び出した。残雪に反射する日光に目を細めたが、地面は雪解けていて、老戦士はまだ目の前を歩いている。その背中めがけて振り上げた剣は、しかし振り下ろされることはなかった。その前に老戦士が倒れたからだった。
――オークどもめ。こんな死にぞこないの老いぼれにすら追いつけんとは。
地面に倒れ伏し、オークに取り囲まれながらも、マグナルはそんなことを思っていた。夢の中ではまだ歩き続けていたから。
オークの一人がマグナルの脚を蹴り、反応が無いのを確認して顔を見合わせる。
『こいつはもう死んだ』
『別の人間のにおい。もう一人いる……あっちに続いてる』
『追いかけよう』
空気中のにおいを嗅ぎ取りながら歩き出したオークたちだったが、一人がはたと立ち止まった。
『待った。こいつの首を持っていく。誰かに取られるかもしれねぇ』
オークにとって人間の首は褒賞に値する。そいつは踵を返して倒れたマグナルの横に立ち、処刑人よろしく斧を振りかぶる。
どすん、と斧が落ちた。
前ではなく、後ろに。
不思議に思って自分の腕を見ると、肘から先が無くなっている。
『ピギィィィ!』遅れてやってきた痛みに叫んだのは一瞬で、すぐにその首も肩から落ちた。
一陣の風が吹き抜けるが如く、黒髪が流れるようにオークたちの間を駆け抜けた。きらめく二本の白刃が的確に急所を切断し、貫き、オークたちは白昼夢をみたような表情で全員その場に崩れ落ちた――。
白銀の山をマグナルは歩き続け、やがて前方に信じられないものを見た。
月光に照らされて艶やかに流れる漆黒の髪。
大理石のような白い肌に、完璧な美を体現した細くてしなやかな身体。
可憐な細い首に少女の面影を残す顔。
そして金色の瞳。
永遠の美の化身が、出会った頃と変わらない姿でそこに立っている。
「アンサーラどの……まさか、こんなところでお会いできるとは」
「わたくしも驚いています。マグナルどの」
重さを感じさせない足取りでアンサーラは歩み寄り、立ち尽くすマグナルの手を両手で取って包んだ。皺と傷になめされた老人の手を。あの日の傷跡を、マグナルは記念碑のように誇らしく思っていた。
〝今度こそ、しくじるんじゃねぇぞ〟
夢の中で聞いたスヴェンの声に背中を押され、今をおいて他にない、とマグナルは悟った。最後の命が流れ出てゆく前に。
「アンサーラどの……実は、ずっと言えずにいたことがあります……」
彼を見上げる瞳の中で金色が優しげに揺らめく。言葉の続きを待ってくれている。
「初めて会った時からずっと、ずっと貴女を――」
――お慕い申しておりました。
倒れたまま、現を離れたマグナルの最後の言葉は声になっていなかったが、アンサーラは目を細めて微笑んだ。
「……うれしい。とても光栄に思います」
膝をつき、老戦士の手を取っていた彼女の姿は、その言葉とともに春風と溶けて消えた。こうして、マグナルの想いは永遠になった。




