スパイク谷の老戦士 4
ぐおんぐおんと、音とも振動ともつかぬ響きが頭蓋に伝わる。戦士長ヘルギにはそれが戦いの音だと分かった。腫れ上がった目の隙間から覗くぼやけた視界の中で足が入り乱れ、人の声と豚の鳴き声とが入り混じっている。
どすん、と一人が床に倒れてヘルギと向かい合った。つまり、ヘルギもまた床に倒れている。続けて、どたん、ばたん。それで騒動は終わる。
影が視界に落ちた。努力して瞳だけ動かし見上げると、灰色のぼろきれを被った醜い怪物がいた。ひどい臭いだ。豚そっくりの鼻をしているが、鼻づらはそれほど長くなく、目元は人間そのもの。口元も人間に似て、開くと短い牙がのぞく。
「見えますか、戦士長さま。この指を追ってみてください」
少しばかり外国人訛りがあるものの、流暢なファランティア語にむしろゾッとする。不器用そうな太短い指を、ヘルギの顔の前で行ったり来たりさせた。
「だいじょうぶそうです。刺されたり斬られたりはしていませんし、ひどく殴られただけですね。しばらくは眩暈や耳鳴りが残るでしょうけど」
そんな知識があることもまた不気味だ。オークは知能の低い野蛮な怪物と思っていたが、この、灰の預言者とかいうやつは特別らしい。見た目も他のオークよりは人間に近く、本人曰く〝半人間〟だというが、混血というよりも〝オークになりかけた人間〟といったほうがしっくりくる外見をしている。これならばいっそ普通のオークのほうがましだ。いったいどんな神罰を受けてこんな姿に生まれて来たのか。
身体を起こそうと手を伸ばしてきたが、反射的に「やめろ」と遮った。触れられたら醜さが感染するような気がした。身を引いた灰の預言者に代わって人間の手が伸びてきて、上体を起こしてくれる。壁に背を預けた格好になると、広間の様子が分かるようになった。
起こしてくれたのは配下の戦士で、もう一人が広間の入口にいる。灰の預言者はわきまえたように数歩離れて立ち、その後ろには机や椅子などが散乱している他、スパイク谷の老人が二人――ヘルギを押さえつけた二人だ――倒れている。頭部の傷や出血をみれば絶命しているのは一目瞭然。ざまぁみろ、老いぼれどもめ。
他にオークが三匹――三人というべきなのか?――同行していた。豚そっくりに鼻を鳴らしてそこいらじゅう嗅ぎまわっている。床に散らばった乾燥果物をおそるおそる口に入れようとしているやつ。陶器のワイン差しに舌を突っ込んでいるやつ。壁にかかった織物を引き剥がし、頭から被っているやつ。ヘルギが想像していたオークといえばまさにこういう連中だ。
また眩暈と吐き気がしてきてヘルギは呻くように言った。
「でぶの老いぼれが逃げた……誰かと一緒だったかもしれん……」
配下の戦士に話したつもりだったが、答えたのは灰の預言者だった。「一人や二人なら放っておいても問題ないでしょう。大勢に影響はありません」
「大勢に影響あるんだよ、バカめ。でぶは代理戦士だ。逃げられたらナメられるだろうが。ぜったいに殺せ。見せしめにするんだ。行け、はやく。この奥に裏口があるはずだ」
「承知いたしました。我々にお任せを」灰の預言者は振り向き、豚の鳴き声混じりの言葉でオークに呼びかけ、指示を出した。三人のオークはすぐさま奥へと向かう。
「お前は行かねえのか」
「はい、わたしは戦士ではありませんので……」
思わず顔を見てしまう。〝わたし〟ってツラかよ。途端に世界がぐるりと回転して、ヘルギは嘔吐した。
***
上階で騒ぎがあったとき、マグナルとロジウは石造りの螺旋階段の途中にいた。そこは大広間より階下の雑多な物置の奥、地下牢の向かい合う扉を通り過ぎた行き止まりにあって、上から見ると途中で身体が詰まってしまうのではないかというくらい細く見えるが、実際には人間一人分の幅で一定している。しかしマグナルには窮屈で、急な階段も足腰に負担が大きい。若いロジウは軽やかに駆け下りていく。老戦士は明らかに足手まといになっている。
「ロジウ、先に行け。この先は一本道だ。通路の先の扉から外に出られる」
それはすでに伝えてあったし、鍵も渡してあった。マグナルはロジウに伝言を覚えさせ、腕輪を渡し、地図を使って裏口から出た後のこと、谷のどの辺りでヒルダ女王を捕まえられそうか、等々できる限り詳しく教えていた。そのためにまだこんな所にいるわけだが。
ロジウは振り返り、マグナルを見上げてためらっている。
「行けったら、行け!」
怒鳴って背後を見上げる。上階は静かになっている。少なくとも、二階層下のここまでは聞こえない程度に。たとえ何人の敵が追って来ようとも――それが上位王の兵でもオークでも――この狭い螺旋階段なら一人ずつだ。ここで戦うか、いや、ここでは上を取られるし、お前こそ身動きが取れんじゃないか、ばかめ。自分に悪態をついてマグナルは必死に階段を下りた。
なんてことだ、通路の途中にまだロジウがいる。マグナルを気にしている。一緒に逃げられると思っているのか。
「ロジウ、頼む、頼むから行ってくれ! わしのことなど気にせずに!」
暗闇の中で、若者の表情は見えない。白っぽい異民族の衣装がぼうと浮かび上がっているだけだ。響いたマグナルの声に、離れていく足音。それでもひらり、ひらり、と衣装の白は途中で二度ほどひるがえった。それから暗闇に光が差し、マグナルは目を細める。四角い扉の形の中に若者の輪郭が影となって振り返る。
さらばだ――マグナルは手を開き、心で別れを告げた。言葉にしようにも、ぜぇぜぇという喘ぎしか出せそうになかった。ロジウはたぶんそれを受け取って、光の向こうへ駆けて行った。
上階から荒々しい足音が近づいてくる。何度も聞いたオークの鼻息が螺旋階段で反響する。マグナルは胸を押さえて息も絶え絶え通路を進んだ。扉を閉めるのだ、扉を……。
裏口に辿り着いたのと、オークが螺旋階段の下に現れたのはほぼ同時だった。マグナルは素早く外に出て扉を閉める。しまった、鍵も閂も内側にしかない。ばかめ、マグナルは再び悪態をついて扉に背中をぴったり付けて、衝撃に備えた。
どすん。
扉が浮くような衝撃だったが、マグナルは人並外れた体重をかけてそれに耐えた。
どすん。どすん。どかっ、ばきっ。
扉を叩く音が変わる。オークが何をしているのか背中越しに伝わる。マグナルは歯を食いしばった。めきっ、と嫌な音がした後、ついに鋭い刃先が扉を突き破り、老戦士の背中に刺さった。二度、三度、そのたびに深く。それでも扉に全体重をかけ、両脚を突っ張って押さえ続ける。口の端から、食いしばった歯の隙間から、血が溢れ出す。この痛みが永遠に続かないことをマグナルは知っている。ロジウの姿は影もなく、きっともう遠くへ行った。ああ、これでいい、と老戦士は思った。




