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竜去りし地の物語  作者: 権田 浩


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スパイク谷の老戦士 2

 まずはハルヴァルが谷の男の、細かな傷と皺で荒れ果てた手を広げて事情を説明した。彼の一家が共有地で放牧していた山羊を、なんとコー族の男が仕留めて居留地へ持ち帰ってしまったという。


 ああまたか、とマグナルはため息を吐き、玉座の傍に控える黒髪の若者を呼んだ。その異民族の衣装は彼の望みというよりも、部族の長としての自負により身にまとっているのだとマグナルは知っている。


「よいか、ロジウ。これは大問題だ。いいかげん知らなかったでは済まされんぞ。何度も言っておるが、他人の家畜を勝手に狩猟してはならん」


 光の加減で青みがかってみえることもある、若者の黒い瞳がマグナルを見上げた。


「囲いの中のもの、つながれているもの、印のあるもの、獲ってはいけない。理解しています。しかし、それはどれでもなかった、と思います」


「ああ、そうだろうな。共有地には囲いがないし、つながれてもいない。放牧しているからだ。ほ・う・ぼ・く。わかるか? わからんか。うーむ、えーと、とにかく、だ。この谷のものは勝手に取ったり使ったりしてはならん」


「マグナルどの。自立しなさい、言いました」


「うむ、言った、言った。だがその前に常識を学ぶのが先だった!」


 ロジウは少し考えて質問する。「魚もダメですか?」


「だめだ」


「川は?」


「だめだ、だめだ。魚を捕るにも許可がいるし、川を勝手に使うのもだめだ。洗い物が許可されている場所は決まっている。用を足してもいけない。何かしたい時はする前にわしに聞いてくれ」


「水は神様が大地の底より与えて下さったものです。森も生き物も人間が所有するものではない」


 急に何の話をしているのかわからなくなり、マグナルはぽかんとして目をぱちくりさせた。が、我に返る。「そういう話をしとるんじゃない!」


「わかっています。しかし、それがコー族の考えです。老人が多い。変えるの難しい。しかし、努力、してみます」


 ロジウは賢明な族長だった。若さゆえか言葉もどんどん吸収している。しかしマグナルのほうは、言葉にするまでもなかった常識を説明しようとすると舌がもつれてしまう。はぁ、とまたもやため息を吐き、巨体を揺すってハルヴァルに向き直った。


「コー族が殺害した山羊一頭については、我が甥から補填する。話し合って両者納得する一頭を選んでくれ」


 甥には後で謝りに行かねば、とマグナルは心に刻んだ。どうか忘れませんように。


「一頭については、そうさせていただく」ハルヴァルは胸に拳を当てたが、その太い白眉の下の眼は全ての問題が解決したわけではないと語っていた。現に、隣人のエイリクが一緒に来ている理由がまだ話されていない。


「して、他に何が?」


 それにはエイリクが、ハルヴァルに先んじて答えた。


「代理戦士どの。ご沙汰を。ハルヴァルの騒動のあと、うちの山羊を数えたら一頭増えておったのです。どうやら散り散りに逃げたハルヴァルんとこのが紛れ込んでおったようで。もちろん返そうとしましたが、山羊違いだと言い張るのです。しかしハルヴァルが自分の山羊だと主張している牝は間違いなく、我が家のものです。ハルヴァルは以前から若くて健康な牝が欲しいと言っており……」


「おい! まるでわしがお前ンとこの山羊を狙っておったような言い草はやめろ。そもそも自分ンとこの山羊くらい見分けがつくわい!」


「そりゃこっちのセリフじゃ。あの牝を見間違えたりせん。あいつは生まれてすぐ育児放棄されたのを、死産した子山羊の皮をかぶせてその母山羊に育てさせたやつなんだ。だからよく覚えとる」


「なーにが見間違えたりせん、だ、この隠居ジジイ。山羊の世話をしとるのは息子で、お前はほとんど何もさせてもらえんくせに」


 あちゃあ、とマグナルは額に手を当てた。エイリクと息子の反りが合わないことも、離れに隠居させられたのが不本意なことも、谷の皆が知っている。それが触れてはならぬ逆鱗であることも。


「なっ……こっ、このっ、くそジジイ、お前んとこの引きこもり息子よりはずっとましじゃ!」


 そしてこれまた周知の事実であり、ハルヴァルの泣き所であった。本来こうした訴えには家長が来るべきだ。エイリクの息子はヒルダ女王に同行して不在だが、ハルヴァルの息子のほうは〈黒の門〉での歩哨を交代してもらって家に戻っているはずだった。


 〈黒の山脈〉で唯一東西の行き来が可能な峠道〈黒の門〉の歩哨は古の時代より谷の男たちが交代で務めてきたが、ブラン上位王の要請によりヒルダ女王と五〇人の戦士たちが南へ行ってしまってからは交代できずにいた。しかし約束どおりブラン上位王が戦士長ヘルギと七七人の戦士を派遣してくれたので、〈黒の門〉は彼らに任せ、谷の男たちは家の仕事に精を出している……はずである。


 両者互いの逆鱗に触れられ、みるみる顔を赤くする。こりゃいかん、と重い尻を上げるマグナル。年甲斐もなく取っ組み合いを始めようとした老人二人の間に割って入る。「二人とも落ち着け。息子のことは……」


「うるさい!」

「お前に何がわかる!」


 突然二人の矛先が自分に向いて、マグナルは大きな身体を小さくした。「いや、まあ、そうだな……わしが口出しできることではなかったな……」


 マグナルはその地位に反して妻を娶ったことがなく、この年齢まで清らかなまま、私生児もいない。父親の気持ちも、息子との確執も、想像の域を出ない。すっかりしょんぼりしてしまった代理戦士の姿を見て、二人の老人もばつが悪そうに目を泳がせた。居たたまれず、広間に集まった人々も言葉を慎む。


「あの」空気を読まないロジウが手を挙げた。「山羊のこと、エイリクの息子に聞く、いいと思います」


「それだ」とマグナル。「わしにも、我らが女王にも、山羊の見分けなどつかん。だが山羊を世話していた息子のほうなら見分けられる。これはハルヴァルも認めておったな?」


「いや、そこまで言っとらんけど……」


「この件、我らが女王とともにエイリクの息子が戻って来るまで保留とする。エイリクはそれまで問題の山羊を手元に置き、世話すること。ハルヴァルはエイリクに山羊一頭分の維持費を飼料か銀貨で支払うこととする。以上、我らが女王の代理戦士たるこのマグナルが決した!」


 ロジウがパチパチと手を打ち合わせ、ほっとしたような空気が広間に漂う。二人の老人は納得できないという表情だが、それ以上騒ぐつもりはないようだった。マグナルがうんうんと満足げにうなずきながら玉座へと戻り、「さて、次の者……」と言いかけた時、それを遮るように長い角笛の音が谷に響き渡る。


 事情を知らぬロジウ以外の全員が動きを止め、顔を見合わせた。まさか。聞き間違いでは。互いにそう問いかけるような表情。しかしそれこそが聞き間違いでないと証明してしまっていた。


 それは敵発見の合図だった。


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