自由騎士 8
「はじめまして。ヘルゲンです。専門は天文学です」
手を差し出すヘルゲン教授は義勇団を率いる老闘士とは全く思えなかった。身長はギャレットより頭一つ低く、若い頃はがっしりした体格だったかもしれないという雰囲気はあるものの、今は年相応に丸みがある。差し出された手は柔らかく滑らかで武器を振り回す人間のものではない。
「はじめまして、ヘルゲン教授。おれのことをご存知のようですが……」
「いやはや、我らが英雄殿にはまだ自覚がないようだ。義勇団には南部から逃れてきた元兵士や、王都の戦いで落ち延びて来た者も大勢います。彼らは口々に、貴卿に救われたときの話や、輝かしい戦いぶりを語っていますよ」
「よしてください。おれはそんな立派なもんじゃない」
それは謙遜ではなかった。現に先の戦争中は負け戦ばかり。本心をいえば戦後に南部へ行ったのも、何かを守れたという実感を得たいがためだった。しかし教授は我が意を得たりとでもいうようにパッと目を輝かせ、棒の先端にある眼鏡をギャレットの胸に突き付けた。
「いやまさに、それこそ英雄の第一条件ですぞ」
憮然とした彼のことなど気にもせず、老教授は自分勝手に話を続ける。
「英雄とは自ら望んでなるものではなく、時代が、人々が、誰かにその役割を押し付けるものです。そして押し付けられた者は望むと望まないとに関わらず、血塗られた道を歩むことになる。貴卿も覚悟を決めておくことですな」
ヘルゲン教授は生徒に来いと命じるように手を振って、部屋の奥へ招き入れた。オーク材の机が一つあるだけの小さな一角は、巻物、羊皮紙、紙片によって半ば埋もれ、唯一の円窓から差し込む茜色の薄明の中を埃たちがキラキラと静かに舞い落ちている。教授はインクの染みついた指で机上を示した。ギャレットはつま先でそろそろと巻物を除けて橋頭堡を確保し、それを覗き込む。
「義勇団は現在、各地で活動する抵抗勢力の糾合を急いでいます。これは我々と協力関係にある地元抵抗勢力を記号と番号で分類したものです。各勢力間との連絡網もファランティア騎士団の尽力によって構築されつつあり……」
「待ってください。おれはまだ……」
「貴卿はここに来た。それが答えでは?」
それはそうだった。しかし。「……でもその前に、教えてください」
白髪頭にそぐわぬ好奇心に満ちた瞳が煌めいて、ギャレットを捉える。
「もちろん。わたしに答えられることなら」
「あなたのような学者先生がなぜ、義勇団なんかをやっているんです?」
「本質を突いた質問だ。やはり貴卿は見所がありますな。大変よろしい」
ヘルゲン教授は机上に置いた手を離し、彼と同じくらい古そうな椅子に腰を下ろした。
「帝国は若く、野蛮で、愚かだ。ファランティア王国を手に入れれば、千年かけて育まれた文化までも自分たちのものにできると思っている。しかし、よく言うでしょう。時の重みは金貨の重み、と。時を経ずして手に入れたものには、それに見合った価値しかない。執政官の同化政策はファランティアの文化を踏みにじり、本質を欠いた模倣程度に貶めてしまうでしょう」
「では、文化を守るために義勇団を組織した、と?」
「そのとおり」
「人には命より大切なものもある、というのは知っているつもりです。しかし……」
「人間の命は有限で、誰しもいつかは必ず死ぬ。しかし文化には、無限の可能性がある。例えばそこの本は盟約暦一二七年に書かれた星の観察記録で、著者はもちろん八七〇年ほど前に死んでいる。しかし、彼が遺した記録と疑問は今に受け継がれています。このわたしに。そしてわたしの教え子たちにね」
ギャレットは肩越しに振り返ってその本を見た。革張りの古びた表紙には『星の運行についての記録と考察――テオベルト・アーベライン著』とある。獣皮紙もすっかり黄ばんでいて、確かに古い物だが、九〇〇年近くも前の本とは驚きだ。
「ああ、ちなみにそれは五〇年ほど前に写された本です。例えにちょうどよかったのでね。勘違いさせたなら申し訳ない」
「……いえ。しかし戦争を再開すれば、戦火の中で失われる本や絵画もあるはずです」
「本当に守るべき文化の本質は物質的なものではありません。もちろん、本や絵画をないがしろにしてよいということではなく、犠牲は最小になるよう努力すべきだ。しかし、ある程度は仕方ない。それに、事態はもう水面下ではおさまらなくなってきています。停戦は一般的に戦争の終わりを意味しますが、時期は非常に重要です。唐突な停戦は振り上げた拳の落としどころを見失わせ、怒りと憎しみを醸成させる。人々の暴走を制御しなければ、ただ混乱と不幸が広がるだけです」
「戦争に蹂躙された人々には絶望と怒りしか残らない。そして、嘆くか戦うかを選ばされる。おれはそんな人たちをたくさん見てきましたが、ファランティアの民は嘆きを選ぶと思っていました」
ふむ、と教授は顎に手をやった。ファランティア人らしく剃ってはいるが、白い無精ひげが薄明の茜色に光って見える。
「面白い。それは世界観の相違ですな。貴卿は戦争に蹂躙されて嘆く人々を見過ぎて、それが普通の反応だと思っている。貴卿が見てきた人々自身も同様に、戦争の悲惨さに対する諦めがあったのでしょう。しかし三〇〇年の間、そんなものとは無縁だった人々にとって戦争の犠牲になることは理不尽であり、不当であり、正されるべき不正と感じる。もう取り戻すことのできない損失を被ってもなお、ね。以前、南部から避難してきた若者と会いましたが、身重の妻を殺され、村を焼かれたという彼はまさに生き証人で、怒りと恐怖を伝える伝道者だった」
なるほど、とギャレットは納得した。ヨナスたち村人を盗賊に変えてしまったのは怒りだったが、ほとんど戦禍のない西部の人々が義勇団を支持する理由は恐怖だ。このまま帝国を放置すれば、南部の人々と同じような目に遭わされるかもしれないという過剰な防衛反応なのだ。その結果、自らを戦火に放り込んでしまうと知ってか知らでか。ならば、せめて無駄死にせぬよう共に歩むという道もある。だが――
「ですが現状、早期の停戦によって戦禍を免れ、そんな選択をしなくてもいい人たちが大勢います。戦争を再開すれば彼らを巻き込むことになる。それも仕方のない犠牲ですか? あなたはあなた自身の理想のために、人々の怒りと恐怖を利用しているように聞こえます」
「むおっ、これは参った……見事に急所を突かれた。もしやアレキュロスの『君主』を読んだことが?」
「いいえ」
「それは残念……いや、申し訳ない、詭弁を弄するつもりはなかった。確かに各地で盗賊行為を繰り返す人々は、ファランティア王国の復活だとか北方連合王国への合流だとか、そういう政治的目標を掲げているわけでも、わたしの理想に共感して決起したわけでもない。むしろそうしたものは、義勇団という名称と同じく、我々が勝手に後付けしたもの。だから、そう……貴卿の言うとおりです。そして、わたしがなぜこんなことをやっているのかという最初の質問に正しく答えるなら、わたしは、受け継いだこの疑問をなんとしても未来へ残したい。いつか誰かが答えに辿り着く、その可能性を残せるなら、どんなことでもするつもりです」
「その疑問というのは……」
思わず口にしたギャレットの言葉に、教授は背もたれを離れて食いつくように反応した。
「星は見ますか」
「え、ああ、はい。位置や方角を確認するために覚えさせられました」
「では一年を通じて星が動いていくことも知っていますね。星とは天球に固定された輝く何かで、天球は我々を中心にして一定周期で回転しているように見える。全ての星がそうであれば何ら問題ないのだが……そうでない星もある」
ギャレットはひとまず話を聞くことにし、老教授はその姿勢に満足したのか、講義の口調になって続ける。
「〈導きの星〉が動かないのは、そこが天球の頂点だからだろう。しかし、毎晩観測を続けていると、少しずつ移動する間隔を縮めていき、ある日、ぴったりと止まってしまう星がある。しかも、翌日からは逆行を始めるのだ。これを惑う星、惑星と我々は呼んでいる。ほとんどの星が決まった運行を繰り返すのに、なぜそんな動きをする星があるのか?」
話しながら右手の指を一本、北の空にある不動の〈導きの星〉に見立てて、左手の指で惑星の動きを再現した。
「天球が歪んでいる、あるいは球体ではない。天球は二重、三重になっていて動きが異なる。惑星は他の星と異なる別の何か……様々な説あれど、どれも納得がいかん。完璧な星図が描けるならそれが答えだろうと何十年も努力したが、どんどん複雑怪奇になるばかりだ。宇宙の創造者は星で魔法陣を描いた、などという古代人の説を証明してしまいそうなほどにね。おそらく、わたしたちは何かを根本的に間違えている」
「なるほど……帝国では何もかも神の御業で説明されてしまいますからね」
「神の御業でもいいのだ。ではなぜ、神はそのようなことをなさるのか?」
「神の叡智は人間などには到底理解できないし、理解しようなどとは畏れ多い……と、ミリアナ教の司祭なら言うでしょう」
ふぅ、とため息を吐き、ヘルゲンは椅子の背にもたれた。
「そういうことだ。そのような世界では、わたしの生涯をかけた疑問も一顧だにされず消えてしまう。過去から受け継いだ偉大な遺産を未来へ手渡せるのは、今ここにいる我々だけだ。未来へと伸びる連鎖を、ここで終わらせるわけにはいかんのだ」
「そのために、今を犠牲にしても?」
「そのために、今を犠牲にしても」
教授の瞳は戦場を知らず、その身は本とインクのにおいを纏っている。それでも恐れを知らぬ戦士のような強い意志と覚悟が感じられた。それはあの馬宿の女将エマの瞳を思い起こさせ、あの日のグスタフ公をも連想させた。
心を過ぎる一抹の不安を誤魔化すようにギャレットは思い付きを口にする。「……天球の話ですが」
「うん?」
「〈導きの星〉こそが中心で、我々のほうが天球にくっ付いている、というのはどうでしょう」
「ははは、それはあり得ない。万物は中心に向かって落ちるのだから、もしそうなら我々は〈導きの星〉へと落ちていかなければおかしい。太陽と月が周りを回っているのは明らかだし、ほら、現に地面も、そこに立つ我々も動いていない。飛び跳ねても同じ場所に着地する。だが実に面白い考え方だ。なんとも荒唐無稽だが、どこかに書いておこう……えーと、わたしの粘土板はどこにいったかな?」




