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竜去りし地の物語  作者: 権田 浩


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自由騎士 5

 被害を免れた納屋の中にいても、平和が踏みにじられ、燃やされ、燻り続ける悪臭からは逃れられない。それは戦争の時代のにおい。ギャレットには忘れたくとも忘れられない故郷のにおいだった。激痛に耐えて太矢を抜き、この場でできうる治療をした後は、微かに胸を上下させる少女を看ている。二人とも運よく急所は外れていたものの、アンネの幼い肉体がこの苦難を乗り越えられるかどうかはまだ分からなかった。


「ひとでなしの父親だよな?」


 納屋の戸口に立つ、背の高い男の影がそう言った。狙いは分隊長の腕か目だったのだろうが、結果的に娘の胸に命中した。そして、そうなるかもしれないと分かっていて射たのもまた事実。


 ギャレットは背を向けたまま小さくため息を吐いた。眼前に横たわる否定しようのない現実と、熱と出血による寒気で口が重い。


「謝って済むことではないと思うが……すまなかった。おれのせいだ。取り返しのつかないことを」


「まさか。騎士様のせいじゃない。おれは村の手前までアンネと一緒だった。隠れていろとだけ言って、手を離しちまったんだ。そのあとはもう目の前しか見えてなかった」


 ギャレットは首を横に振った。「いや、あんたに弓を引かせてしまったことだ。あんたの判断は正しかった。剣を手放していたら全員殺されていただろう。だがその決断も、責任も、おれが負うべきだった。よりにもよって父親のあんたに……本当にすまない」


「騎士様の戦いぶりは、うまく言えねぇが……希望だった。おれたちの怒りを、おれたちの代わりに帝国の連中にぶつけてくれると感じた。たぶん皆もだ。だからもし剣を手放していたら最後の瞬間まで騎士様を罵っただろうし、捕まったアンネを恨んだろう。でも剣を手放さず、娘の命と引き換えに戦い続けていたら、やっぱりおれは騎士様を許さなかったと思う」


 痛みで乱れたギャレットの呼吸を勘違いしたか、アンネの父親は先んじた。「もう何も言わんでくれ。あの時はああするしかなかった、おれにしかできないことをした、そういうことにしてぇんだ。それに」男は拳で扉を打った。「悪いのは帝国のやつらだ。あいつらさえ来なければ……」


「事情を聞かせてもらえるか?」


「ああ。雪が降り始めてすぐの頃だった。特別なんたらとかって、村の物を根こそぎ持って行きやがったんだ。一切の容赦もなく。おれは親父から隠れ谷の管理を任されていた。餓死者を出さないために谷を開くしかなかった。それでも春の収穫までもつかどうか……そんな時、やつらがまた村に来たんだ」


「徴発をしに?」


「おれもそう思ったが違った。どこかで集めたものを輸送中だったんだと思う。荷物でいっぱいの荷馬車に乗ってきて、うちの馬宿に泊まったから荷を覗き見たら、食い物やら毛皮やら……おれたちが生きていくために必要なものが詰まってた。それで……決めたんだ。奪われたものを取り返そうって」


「そうか……」ギャレットは肩を落としそうになって、痛みに息を呑んだ。冷や汗が頬を伝う。「それで?」


「うちの二階で寝ているところを殺して村はずれに埋めた。荷物は皆で谷に運び込んで……開けてみたら、罪悪感なんて吹っ飛んじまったよ。家族を腹いっぱいにして、暖かい着物をくれてやれると思ったら嬉しくって。その晩は酒も入って久しぶりに盛り上がった。荷物には武器もあったから、今度また帝国のやつらが来たらぶっ殺してやるー、なんてな。その時は本気か冗談かわからんかったが、実際にその機会がきた。旧道をまた帝国の荷車がやってきたんだ。やるか、やろう、てな具合に決まって、待ち伏せして、あっけなく成功したよ。だがさすがにしばらくは身を隠して様子を見たほうがいいだろうって。それで……」


 罪を告白するときの奇妙な興奮が男を早口にさせていたが、現実に追い付いて失速する。


「それで……谷に隠れて……今晩まで様子見して、村に帰ろうって決めてて……アンネとあんたが来て……」


 二人の男は沈黙した。焼けた村の臭い。横たわる瀕死の少女。もはや何を言っても現実は変わらない。村人たちが本当に取り戻したかったものは二度と取り戻せなくなってしまった。


 しばしの後、アンネの父が問う。「助かりそうか?」


「わからない。だが数日は動かさないほうがいいだろう」


 しかし、そんなことはできないと二人とも分かっていた。この村には留まれない。いつ敗走した帝国軍兵士が味方とともに戻ってくるかしれないのだから。


「うちの宿にあった騎士様の荷物と馬は無事だった。ここに置いておくよ」


「その、女将さんは……?」


 返ってきた無言が、彼女の運命を物語っていた。


「無念だ。とても勇敢で賢い女性だった」


「ありがとう。騎士様にそう言ってもらえて嬉しいよ。あいつのこと、覚えておいてやってくれ」


 男の影が戸口から離れ、ギャレットは肩越しに呼び止めようとして困った。そういえば彼の名前さえ知らないのだった。


「おれはギャレットだ。あんたは?」


「ああ、そっか。おれはヨナス。あいつの名はエマだ」


 彼女の名と声の響き、そして別れ際に見たあの印象的な瞳を、ギャレットは胸に刻んだ。


「ありがとう、ヨナス。ここでの出来事は決して忘れない。ああそれと、隠れ谷には戻らないほうがいい。痕跡を辿られるかもしれない」


「わかった。行く当てがある連中には朝までに出発するよう言ってあるが、谷には行くなと念を押しておく」


「あんたと……この子は?」


「エマの妹がプレストンの近くにいるから、預けるつもりだ」生きていようと、死んでいようと。ギャレットは何も言わなかったが、ヨナスは自ら付け足した。「……アンネにはその時まで眠ったままでいてほしい。目が覚めた時、そこにおれはいないほうがいい」


「それで、あんたはどうなる?」


「おれにはもう何も……いや、帝国への怒りしか残ってない。だから、義勇団に参加しようと思う」


「義勇団?」


「なんだ、知らないのかい。騎士様が剣を返上せずに一人旅なんてしてるもんだから、関係者かと思った。ファランティア義勇団てのがプレストン周辺で帝国支配に抵抗してるって話だ。いつか彼らがやってきて、一緒に村を守ってくれたら、なんて思ってたんだけどな」


 自嘲気味に苦笑して、今度こそヨナスは戸口を離れていった。


 ギャレットはロウソクの小さな明かりを近付けて少女の顔色を確かめた。悪くなってはいない、と思ったが、それは願望かもしれなかった。


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