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竜去りし地の物語  作者: 権田 浩


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元執政官と交易商 4

 ハイマンは絶句して、乱れた口髭を手でぬぐった。聞かなければ良かった。こんなことは。知らなければ良かった。


「他にも脱出を試みた者は大勢おりましたけれども、後ろめたいことがあるから逃げるのだという理屈で全員が同様に。容疑を免れるための密告や鉄串隊員の買収なども横行しましたが、すべからく処刑されました。王都は民の血に塗れ、死体と腐臭に満ちた、阿鼻叫喚の魔都と化した。いまでも民の間で執政官どのはこう呼ばれています。串刺し閣下、と」


 ハイマンは両手で顔を覆い、がっくりとうなだれた。あの停戦で、血と暴力の時代は終わったのだと思っていた。穏やかに、帝国統治の時代が幕を開けたのだと思っていた。


「そうか……執政官どのは皇帝陛下のご期待に応えられなかったか……」


「皇帝陛下のご期待、ですか?」


「エルシア大陸へと移送される際、皇帝陛下と同道する栄誉を賜った。執政官は期待を裏切らないだろうと仰せられて……」


「なるほど。しかし、それはどうでしょうねぇ……」


「ん」ハイマンは顔をあげた。「どういう意味だ?」


 交易商は丸い顎を撫でながら、視線を天井に向けてとぼけた。


「ふーむ、それはいくばくかの情報料をお支払いしてもいいお話ですね。他にどんなお話をされたのか興味があります」


 西日が部屋を琥珀色に染め、影を濃くする。ハイマンは背中が焼かれているのを感じながら、細長く伸びた自身の影が交易商の傍らにあるのを見て、かつての自分と記憶の中のあの男が並び立っている場面をぼんやり想像した。もう夕食時を過ぎている。試供だという話も切りがいい。交易商はもう帰る頃合いだろう。


 いやだ、もっと話したい、何を犠牲にしてでも、とハイマンは痛烈に望んだ。


「そっ、そうか、ならばその時の話をしてやってもよい!」思い出そうとすると、こめかみがズキズキと痛む。酒に沈んだ記憶を引き上げるのは簡単ではないが、交易商の注意は引けた。「取引できないか、商人!」


 交易商はにんまりと口元を左右に広げた。「将軍からの申し出とあっては断れませんね」麦わら帽子を手にして席を立ち、少々嫌味なほど、うやうやしく頭を下げる。「しばし帝都に滞在する予定ですが、他に所用がございますれば、早速明日というわけにはまいりません。本日はこれにて失礼させていただきます。次は三日いや四日後に……」


「待ってくれ。最後に、最後に、執政官どのに毒を盛った犯人を教えてくれ」


「大変申し訳ございません。その件については、犯人を特定できる情報を持っておりません。確実なのは、暗殺未遂に用いられた毒がパンゲルの花の根だったということだけです。白から薄紅色の優雅な四枚の花弁を持ち、美しく目を惹きますが、エルシア大陸の南部ならどこにでもある野の花です。生きた根から取れる汁に毒があり、特に花が咲いている間のそれは猛毒、というのは意外に知られていませんけれども」


 ひょいと麦わら帽子を頭にのせ、交易商は会釈して退室した。一人残されたハイマンはその言葉から何らかの真実を掴み取ろうとしたが、酒浸りの鈍った頭では霞をさらうようなものだった。




 その日の夜からハイマンは酒を断った。交易商の話をしっかりと記憶し、熟考したかったからだが、断酒は頭痛に嘔吐といった大変な苦痛を引き起こした。食事も喉を通らず、便所にこもって一日を過ごし、耐えきれずに酒を求めたが、世話人が持ってきたのは黄色い汁だった。二日酔いの薬だというそれが、二日どころか二十年近く酔っていた自分に効くものかと文句を言いつつ飲み干して四日後、ハイマンは最悪の状態で交易商を迎えた。前回と同じ部屋の同じ椅子でぐったりしているハイマンを見ても交易商は表情を変えなかったが、さすがに遠慮はしてみせた。


「その、また後日に出直しましょうか……?」


「いや、大丈夫だ。頭ははっきりしている」


 ハイマンは青白い顔で、ひび割れた唇をカップに付けて痺れるほど苦い黄色の汁を飲んだ。交易商は卵のような頭から滴る汗を拭きながら前回同様に腰を下ろす。部屋は蒸し暑かった。断続的に続く驟雨(しゅうう)のために窓を開けられず、熱と湿気がこもっていた。


「それで、モー……」


「モロウでございます、将軍」


「モロウ。早速話の続きだが、執政官どののことが停戦協定の破棄につながるのではないか?」


 交易商はわずかに目を開いて、おや、という顔をした。


「ええ、ご推察のとおりでございます。帝国はドラゴンストーンやホワイトハーバーなど各地方の拠点を制していながらも街道は比較的無防備だったために、盗賊化した地元民による強奪行為を阻止できなかった……と、歴史家なら書き始めるところでしょうけれども、串刺し閣下が契機になったのは事実でございましょう」


「その強奪行為、上位王が絡んでいたのでは?」


 多少ましになったとはいえ断続的に続く頭痛にハイマンはこめかみを押さえた。テストリア大陸北方の四地方を初めて統一したブラン上位王は、一見すると豪放磊落(ごうほうらいらく)な戦士だが、その裏には策略家の一面もある。紛争の最終局面でも、戦いはこれからが本番とでもいうような様子だった。だからハイマンは分をわきまえず自ら降伏を選択したわけだが、その問答の最中に光のドラゴンが現れたとかで大騒ぎになり、直後に停戦となって〈王都の戦い〉は終結した。ファランティア北部は北方連合王国領となり、それ以外の地域は帝国属領になったが、それであのブラン上位王が満足しているとは思えない。


「その証拠はございません、将軍。世間的には、ドラゴンストーンの民を救うため、ファランティア自由騎士団が上位王を動かしたとされております」


「ファランティア自由騎士団?」


「おや、思い至りませんか。将軍が自由騎士に叙するよう具申し、王都の戦いの前には事実上の最上位指揮権を与えたギャレット卿率いる自称騎士団でして……」


「ギャレット!」


 今までどうして忘れていたのか。ハイマンの脳裏に燦然と、最後に会った時の姿が蘇る。将軍を意味するストラディス家のマントを肩にかけ、実戦を潜り抜けてきた傷だらけの鎧をまとった精悍な顔立ちの青年。肌の色こそ違えども、あの時の彼は正しくファランティアの騎士だった。停戦後に姿を消したが、〈王都の戦い〉の最終局面においてブラン上位王と決闘したという噂だけは残された。彼が、ファランティア王国にとって真の敵が誰かを見抜いてくれたことは我がことのように嬉しかったし、その決闘の結果、停戦に至ったのだろうとハイマンは確信していた。


「その話を詳しく聞きたい!」


「かしこまりました」交易商は焦らすようにゆっくりと一礼してから話し始める。「しかし、つくづく不思議なお人です。運命の糸を手繰る神は世界中におりますが、そうした神を信じる気持ちもわかります。かの御仁には大願も、信仰心も、大切な人さえありませんのに、常に始まりと終わりの場所におられる。では、時を少々戻しまして年明け前、〈王都の戦い〉終結から間もない、盟約暦一〇〇六年の冬の最中でございます……」


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