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竜去りし地の物語  作者: 権田 浩


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花の姫君 1

※残酷な描写があります。

 赤く、艶やかな液体が、割れた白い爪の間からぷっくりと丸く湧き出してきた。それは最も影が濃くなる黄昏の闇の中で、西日に燃える雲の隙間から差し出された光を受けてルビーのように輝きながら、手にした高級革の表面を滑り落ちて敷石に当たり、瞬きのあいだ王冠を成してから血痕の一つと成り果てた。


 道は通行人やら牛馬やらの落とす土くれで汚れていたけれども、手にした靴を履くには何日か何週間か、足の指が元通りになるのを待たねばならなかったので、リーリエは生まれて初めて裸足でひたひたと歩いた。服も靴も全て何事もなかったかのようであるけれども、そのなかの心身はひどく傷つき、髪は解けてみじめな有様だった。それでも前に進んでいるのは、早く城から離れたいからだ。レッドドラゴン城の影の中にいると、まだあの地下牢の闇に囚われているように感じる。


 行く当てのない彼女の足は自然と知っている路を辿った。マルティンの屋敷へと続く一本道に入り、はたと足を止める。この都を覆う強烈な臭気が一段と強まり、その源の一つが目の前にあると知らせているにも関わらず、彼女は目を上げてしまった。


 門まで続く道の両側に大小七つの丸い影がまっすぐな鉄串に貫かれて立ち並んでいる。根元がこんもりしているのは零れた液体や中身のためだろう。だのに、串刺しにされた本体は萎むどころかまるで風船のように膨らんでいた。もはやそれを誰それと認識するのは難しい。顔も体格も、年齢や性別さえも、まったく判別できない。ただ、その服には見覚えがあった――これらはマルティンとその家族だ。


 リーリエは吐いた。地下牢で初めて口にした時、こんなものは吐いてしまいたいと願ったが許されなかったものを全て吐き出した。


「……あの、もし。そこのお嬢さん?」


 突然に声をかけられて、リーリエは慄き、立ち上がれないまま目を見開いた。それは鼻から口まで布で覆った庶民の女だった。


「そんなものは見ないほうがいい。こっちへおいで。もうすぐ日没だから」


 女はおそるおそる近寄ってきた。決して一家を見ないようにしながら手を差し出す。


「夜に出歩いていると鉄串隊に捕まるよ」


 刹那、尖らせた口ひげを弄る太い指と脂ぎった丸顔が頭を過ぎる。小さな部屋での尋問。地下牢への連行。醜い看守の乱杭歯、粘着質な目の輝き、嘲笑。そして――。


「ち、ちがう、わたくしは閣下を裏切ってない。裏切らない。これからも裏切らない……」


 怯えるリーリエに、女は力強くうなずいてみせた。


「ええ、ええ、よく分かったから。さ、立って。うちに行こう」


 日没が迫る中、伸びる影から逃れるように二人は王都の西の端、水路に囲まれた一角へとやってきた。共同の解体作業場があり、壁の外にある皮なめし工場や染物工場で働く労働者、皮剥ぎ、だけでなく、便所堀りに汲み取り人、くず肉拾い、墓堀人などが住む、普段なら鼻をつまんで顔を背けるような場所だ。


 しかし、板の橋を渡って汚水路を越え、通用門へと続く路地を歩くうちに、リーリエは自分のほうがよほど強烈な死臭をまとっているのに気づいた。安宿の前に立つ商売女や、焚き火に集まる酔っ払いどもでさえ顔を背ける。他と違い、この区画にはまだ鉄串が立っていないのだ。


 狭い横道を抜けた先、焚き火場を囲うように建つ粗末な丸太小屋の一つが女の家だった。


「さ、入って」


 薄暗い室内には、がっしりした肩を怒らせた不愛想な男が待っていた。立ちすくむリーリエに女は慌ててハンナと名乗り、男は夫のクラウスだと説明した。他に同居する家族はいないという。ハンナは湯を沸かし、クラウスを追い出してから、まずリーリエの足を優しく洗ってくれた。そうされることに慣れていた彼女はふいに自分を取り戻し、ひどいことになっている足の指の痛みに震えた。


「あ、あの……わたくしは……リーリエです。その、ありがとう……いまさらですけれど」


 ハンナはその名に反応することもなく、焚き火の明かりがやっと届く暗がりの中でにこりと微笑んだ。改めて見るとまだ若く、健康そうな肌にはそばかすが散っている。包帯代わりに布を巻き、男性用の柔らかな皮の履物を用意してから、彼女はコルセットの留め紐にも手を伸ばした。


「身体も拭かないとね。あら、これ、どうなってるの?」


 リーリエはぎょっとして目を見開いた。女の指が、ねじくれた卑しい指に変わっている。首筋に、つんと鼻を刺す口臭さえ感じて、彼女はとっさにその手を払った。ぴしゃりと手を跳ね除けられたハンナは驚いて身を引く。怒りの表情を見せたのは一瞬で、すぐにリーリエの青ざめた恐怖の表情に気づき、ため息で誤魔化した。


「そうね……わかった。すぐ外にいるから。着替え終わったら声かけてよ」


 一人になったリーリエは割れた爪から再び出血するほど強く肩を掴んでいた自分に気づき、ゆっくりと指をほどいた。のろのろとコルセットを外して服を脱ぎ、湯に浸した布で身体を拭く。青痣だらけの傷ついた肌をみると、ひどく悲しく、みじめな気分になった。花の姫君とも呼ばれた自分が、なぜこんな仕打ちを……?


 疑問は疑念となり、怒りがむくりと首をもたげかけたが、直後、あの気配が戻ってきて恐怖に塗りつぶされる。うそだ。そんな。家の隅、棚の影、屋根裏へ続くはしごの上、あらゆる影の中から、あの醜い看守が這い出てくる!


 〝子豚ちゃん、子豚ちゃん、遊びましょ〟


 〝こっちをつつけばブー、ブー、ブー〟


 〝こっちをつつけばキー、キー、キー〟


 〝ブーブー、キーキー、次はどっち?〟


「いやッ! いやぁッ!」


 両耳を塞いでも、その歌を止めることはできない。がちがちと歯を鳴らして震える彼女の足元から看守どもが這い上がってくる。助けを求めて開いた口は塞がれ、見開いた目も指に覆われて、彼女は闇の中で窒息した。


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