執政官 10
そのまま息の根が止まっていたなら、むしろ慈悲深かったろう。
窒息したかと思えば、血走った眼を見開き、ぎりぎりのところで水面へと浮かび上がってきたように口を大きく開けて空気を求める。しかし生命を維持するのに必要最低限の呼吸しか許されず、「ひっ、ひっ」と身を仰け反らせる。これを拷問のように延々と繰り返すのだった。
喉を掻きむしってズタズタにしてしまうので、両手両脚は寝台に縛り付けられた。それから一日の間は発作的に暴れ出すこともあったが、二日目になると衰弱が進んで痙攣するだけになった。
トントン、というノックの音にアマンダは疲れた顔を上げた。「誰です?」
「リーリエです」
アマンダは立ち上がり、ベッドのヴィジリオを残して扉を開けた。回廊には確かにリーリエが一人で立っている。寝室への扉は閉めてあるので覗こうとしても無駄だ。
「ここには誰も近付かないよう、お願いしていたはずですが」
「ええ、でも、せめて手を握るくらいのことはさせていただきたくて……」
アマンダは首を左右に振った。
「できることはもう何もありません。あとは閣下の生きる力を信じるしか」
「見守るだけならわたくしにもできます。あなたもずっとお休みになっていないでしょう?」
アマンダはもう一度首を左右に振った。
「全員を退去させたのは、可能な限り手を尽くしたからという理由だけではありません。他言無用に願いますが、閣下の症状は何らかの毒物によるものです」
リーリエは青い瞳に力を込めて、ぐっと顎を引いた。薄々勘付いてはいたのだろう。アマンダは疲れた声で続ける。
「少なくとも毒殺を謀った者が城内にいるか、普段から立ち入れることは確実です。そして本懐を遂げるなら今こそ好機……」
「それは、わたくしを疑っているということでしょうか」
「疑いたくないから、近付かないようお願いしているのです」
怒りの気配をまとって、挑むようにリーリエはその場に立ち尽くした。アマンダの緑色の瞳は冷ややかにその挑戦を受け止める。やがてハイドフェルト家の令嬢は根負けした。くるりと背を向けて立ち去ろうとして一歩、肩越しに捨て台詞を残す。
「いま閣下に近付く者が怪しいというのでしたら、一番怪しいのはあなたということになりますね。たった一人で、最も近くにいるのですから」
三日目の晩になると、ヴィジリオの呼吸はゆっくりと穏やかになり、呻き声もなく、苦痛の表情もなくなった。しかしそれが快復の兆しでないことは明らかだ。糞尿さえ止まり、顔は土気色で生気も失せ、呼気からは死臭がした。
状況を知っている一部の人々はアマンダの報告を聞き、穏やかに旅立てるよう神が苦痛を取り去ってくださったに違いない、と天に感謝したが、実際のところ苦痛は衰えるどころか絶頂を迎えようとしていた。ままならぬ呼吸と、全身の神経が引きちぎれるような激痛の波。もはや苦痛に反応する力さえなくなった肉体の檻の中で、彼の魂は狂ったように金切り声で絶叫していたのだった。
だからその責め苦から解放されたとき、ヴィジリオは自分が死んだのだと思ったし、終わりにしてくれた神に心の底から感謝した。それは倒れてから四日目の朝のことだった。
「……閣下?」
ヴィジリオが薄目を開けていることに気付いたアマンダはがばと起き上がり、呼吸と脈拍を調べた。それから湿らせた綿を口に当て、水分が舌の上に落ちるのに合わせて喉が上下するのを確認した。
「ああ、閣下……もう、もう大丈夫です……」
その言葉通り、毒の影響は残らず経過は順調だった。五日目の午後には上体を起こして会話できるほどに回復する。
「アマンダ……」
力のない荒涼とした声。衰弱してげっそりとこけた頬。眼下は落ちくぼみ、唇はひび割れ、充血した瞳は恐怖に支配されている。アマンダは努めて優しい表情を返した。
「はい、閣下」
「何が……?」
「治療師によれば、何らかの毒物によるものということです」
やはり、という思いとともにヴィジリオの涙が頬を伝う。
「ぼくは……」その声は風に揺れる枯草のようだった。「ぼくは悪なのか? ぼくは間違っていたのか? ファランティアの人々は皆、ぼくが苦しんで死ねばいいと思っているのか? これは当然の報いで、ぼくは死ぬべきだったのか?」
「いいえ、まさか。決して、そのようなことはございません。現に生き延び、快復なさったのがその証拠。罰せられるべきであるなら、神がそうなさったでしょう」
「神が……」
「ええ。神が生きよとおっしゃっているに違いありません。私見を申し上げてもよろしければ……」ヴィジリオの目が乞うているのを見て、補佐官は続ける。「暴力は悪です。その最たるものが戦争であり、大義にどれほどの正当性があろうとも、すべての人間を悪へと堕落させるものです。しかし、戦争は終わりました。今は己が悪行を悔い改め、平和な世を築くために尽力すべき時。まさに閣下がされたように。閣下は正道を歩んでおられる。閣下は正しいことをなさっておいでです」
「ぼくは……正しい……」
「はい。しかし、いまだ暴力によって事をなそうとする者どもがおります。暴力によって正道を阻み、世を再び戦乱へと引き戻そうとする輩が。閣下、為政者は暴力に屈してはなりません。民が再び悪の渦に飲み込まれるのを防げるのは閣下だけなのですから」
その一言一句が、乾いた荒れ地に振りそそぐ雨のように、ヴィジリオの心へ染み入ってゆくさまをアマンダは注意深くじっと観察していた。
「アマンダ、ぼくは……ぼくは……」
「ええ、そうです、閣下。必要なのは覚悟だけです」
ヴィジリオは嗚咽を噛み殺し、ぎゅっとつむった両目から涙が流れ落ちるままにしていた。アマンダは興奮を秘めて彼を見守る。やがて涙も枯れ、カッと目を見開いた時、その瞳はまるで別人のように力強く、冬の刃のように冷徹な輝きを放っていた。
「わたしは……わかった。わたしの進むべき道は、清廉潔白のままで歩めるものではなかった。魔獣の血で穢れた陛下のように、このわたしも穢れを恐れてはいけなかった。たとえこの手を悪で汚そうとも、皇帝陛下より預かりし帝国属領民を、ファランティアの正しき人々を、守ってみせる。ダンカン将軍を呼べ」
「はい、閣下。ただちに」
すぐに将軍は部屋に現れた。弱々しく横たわる姿を想像していたのか、半身を起こし、熱病患者のように、あるいは狂信者のように、異様にギラつく瞳でまっすぐ自分を射抜くヴィジリオをみて目を丸くした。
「閣下、快復なさってなにより――」
「鉄串はあるか?」
断乎たる物言いだったために、将軍は言葉を遮られても驚かなかった。反射的に背筋を伸ばし、はっきりと答える。
「はい、閣下」
「部隊の編成を許可する。どんな手を使ってでも反体制分子を探し出し、徹底的に排除するのだ。まずはマルティンとその関係者から始めよ」
かねてからの具申が採用されても、生粋の軍人である将軍はニヤリともしなかった。胸を張って「はっ。ただちに」と敬礼するのみ。
「どうした。行け。何か疑問があるのか」
「閣下、マルティンの関係者に、リーリエ嬢は含まれますか」
――ああ、リーリエ。わが心の花。わたしは君との誓いを決して違えはしない。たとえそれが、君を殺すことになろうとも。
「……むろん、例外はない。どんなに困難な道のりであっても、言葉を違えず、信念を貫き通す。その覚悟はある」
兄王を失っても歩み続けた陛下のように――。
ダンカン将軍は出会ってはじめて、心からの敬礼をして、踵を返し退室した。まっすぐに彼方を見やるヴィジリオの目に迷いはなく、その横顔は揺るぎない。みつめるアマンダは瞳を潤ませ、うっとりして言った。
「あぁ、閣下……まさに、真の統治者になられましたね……」