執政官 7
正午。白竜門へと続くブレナダン通りと内環状道路が交差する円形広場で、ヴィジリオはヘルゲンと対面した。義勇団を率いる老闘士といった雰囲気はまるで無く、肩書のとおりの老教授で、本とインクの懐かしいにおいさえするようだった。
この人となら話せる。
しかし、このような人が何故?
ヴィジリオは少しだけ安心しながら後ろ手を組み、相手の反応を待った。
「執政官閣下、お目通り叶いまして光栄に存じます。プレストン大学……いやはや失礼、ファランティア義勇団を代表して参りましたヘルゲンと申します。此度の件、感服いたしました。直接対話はなかなか実現できるものではありません」
胸に手を当て、頭を下げる所作は帝国式ではないが、ヴィジリオは問題と思わなかった。
「アルガン帝国テストリア大陸中央方面執政官のヴィジリオです。機会さえあれば、対話が第一選択肢というのがわたしの主義です。故郷のティトス大学で為政者はそうあるべきと教わりました。あなたは政治の先生かと思いましたが、天文が専門なのですね」
ヴィジリオは握手をするつもりで前に出ようとしたが、護衛の騎士に止められ、一瞥をくれた。相手は武器も持たず、危険人物にも見えないのに、と少々疎ましく思う。
「個人的な話は別の機会にしましょう。さっそくですが、我々ファランティア義勇団の要求を述べさせていただきます。我々は旧ファランティア王国西部総督領の自治独立と保護を求めます」
取り囲む人垣が、ざわり、と揺れ、その波は人々の間に伝播した。冷静なのは事前に知っていた者だけで、人種の別なく誰もが目を丸くする。人々が勝手に話し始めようとするのを、「次に!」という教授の声と天を衝く指が制する。
「次に、我々をファランティア王国の正当な後継と認め、我々が要求する、ファランティアに属する文化財を全て、無条件に返還していただく。おおまかには、以上二点です」
大胆すぎる要求にヴィジリオは呆然とした。民衆の間でひそひそ話が始まり、それがざわざわと大きくなってきたのに気付いて我に返る。
「いや、それは執政官といえどもわたしの権限では……」と口走ってから、しまった、と思ったがもう遅い。
「もちろん、そうでしょう。皇帝陛下と帝国議会に諮られるがよろしい。しかし、結論が何年も先になるというのでは遅きに失する。ですから、その間の、西部での帝国軍の活動と融和政策の一時停止を求めます。それなら執政官の権限で可能なはずだ」
帝国人らは考慮に値しない妄言とばかりに天を仰いだが、ファランティア人はこの要求の重要性に気付いて口を閉ざした。戦争が始まる前の、あの慣れ親しんだ王国へ帰りたいなら西部へ行けばいいということだ。
これはまずい――ヴィジリオはにわかに追い詰められた。こんな無茶苦茶な話はないが、この場は圧倒的にファランティア人のほうが多いのだ。彼らがどちらに傾くかで結果的に勝者が決まってしまう。仮にヴィジリオが武力で制圧したり、結論を出さずに会談を打ち切ったりしても、だ。
「なぜです。帝国は、いやわたしは、ファランティアの文化も民も蔑ろにはしていない。尊重しています。わたしの統治下で文化的活動やファランティア人の権利が妨げられている、という事実があるなら示していただきたい。改善を約束します」
「我々を尊重していると? でしたら話は早い。独立した文化圏で在りたいという我々の要求も尊重してもらいましょう」
冗談めかした口調とは裏腹に、教授の瞳は恐ろしいほどの決意をもってヴィジリオを射抜いた。そこに地下牢の男の目が重なり、背筋が凍る。
「で、ですから、なぜ帝国の一部としてそうしていくことができないのか、と聞いているのです。我々は信教の自由も認めているし、ファランティア語の使用を禁じてもいないのに」
「独立した文化圏、と申し上げたはず。この地では千年もの時間をかけて、数多の人々が文化を作り上げてきました。それは絵画や彫刻といった物質的なものだけではありません。むしろ非物質的なものにこそ本質がある。言語や信仰は言うまでもなく、季節の祭事、習俗、暗黙のうちに了解された社会の規範や道徳といった日常の常識……そうしたファランティア人をファランティア人たらしめる文化を、あなたの融和政策とやらは土足で踏みにじる。ここは帝国の一部で、我々は同じ帝国人なのだからと、我が物顔で我々の文化を無視したふるまいをする。それはファランティアでは非常識だと指摘されても、帝国では、いや世界ではこれが常識なのだと言ってのけるでしょう。そうやって文化は蹂躙され、破壊されていくのです。その先に待っているのは隣人同士でさえ共通した常識を持たない混沌とした社会と、それを御するための力による圧政です。そして抑圧された社会の内部で人々はより小さな社会に分断されていき、いずれは内部崩壊を起こす……」
老教授の瞳はまっすぐヴィジリオを貫いていたが、その言葉はむしろ民衆へ向けられていた。人々の目という目、耳という耳が、この場所に注がれている。ファランティア人たちの不気味な静けさは、大波の前に潮が引いていく気配に似て、ヴィジリオは思わず半歩、後退する。いまや教授は言葉という武器を振るう危険人物だった。群衆の膨れ上がる気運とともに教授は一歩を踏み出す。
「これが侵略でなくてなんだというのでしょう! 我々は今まさに文化的侵略、文化的民族浄化の渦中にいるのです!」両腕を広げて胸を開き、民衆へと呼びかける。「自らを解放者などと嘯く欺瞞を許してはなりません! 彼らの征服戦争はまだ終わっていない。より密やかに、より陰湿な方法で続いている――」
その時、板を叩いたようなバンバンという音がしてヴィジリオの眼前を何かがシュッと横切った。額に触れ、見ると、鮮血が手のひらを染めている。ぱたぱたと血の雫が腕に落ち、それが自分の血だと認識した瞬間、鋭い痛みが走った。
「あっ、うわっ」
そこからは、まるで大波に飲み込まれたようだった。
民衆から生じた巨大なうねりが押し寄せる。周囲を封鎖する兵士たちをなぎ倒し、ヴィジリオに迫る。到達する直前に、甲冑の騎士が周囲を固め、ヴィジリオからは鎧われた背中以外に何も見えなくなった。味方に押し合い圧し合いされながら一丸となって後退を始める。その中心でヴィジリオは、誰かがファランティア語で「教授! ヘルゲン教授!」と叫び、誰かが帝国語で「抜剣の許可を!」と叫ぶのを聞いたが、それも騒音の渦に飲まれた。周囲の状況はまるで知れず、何が起こったのか分からず、死ぬほどの大怪我なのかもしれず、思考も身体も麻痺したまま揉みくしゃに流されて行く。
ふいに視界の半分を塞いでいた護衛の騎士が倒れた。群衆に引き倒され、助けてくれと言わんばかりに手を伸ばす彼が見えたのも一瞬で、すぐに別の騎士がその穴を塞ぐ。
「緊急事態ですので、失礼!」と、騎士の一人がヴィジリオを突き飛ばした。叩き付けられた先は城門の扉で、別の誰かの手によって隙間から内側へ引き込まれる。尻もちをついたヴィジリオの前で扉が閉ざされ、混乱の渦から切り離されてやっと、震えが全身を襲った。耳の中ではまだわんわんと残響がこだましている。
駆けつけてきた侍従の一人が額に布を当てがった。「額の傷は出血こそ多いですが、深くはありません。他にお怪我はございませんか!?」
「他に? 他に怪我をしているのか、わたしは? 血がこんなに……補佐官は? 将軍はなぜここにいない? 補佐官! 補佐官っ!」
「すぐに参られるでしょう。それよりお手当てを――」
「ひいっ!」
侍従の手を振り払ってヴィジリオは立ち上がった。訳が分からず困惑する。「閣下?」
「やめろ、見るな! 見るなぁ!」
ヴィジリオは逃げるように大塔へ向かった。




